第2話 令和飛鳥山合戦ゲバゲバ 櫻花の巻

『令和飛鳥山合戦ゲバゲバ 櫻花の巻』


1.


「ちょっと貴女。楽屋に来て頂戴」

「ひぇっ⁉︎」

 松下由衣は目の前の女生徒の発言に、一瞬理解が追いつかなかった。

 彼女がいる場所は私立日野出学園高等部の講堂である。収容人数300名。並の公民館の小ホール以上の設備と広さがある場所で、つい先程まで由香の目の前にいる人物のコンサートが行われていた。新入生への歓迎ライブである。

 その人物の名は堺彩香。日野出学園高等部2年生である。この学園には中等部から入っている、所謂持ち上がり組で、趣味は音楽全般だった。動画配信サイトで小学生の頃からギターカバーを投稿しており、今では大手の音楽系ユーチューバーとして名が知られている。当然ながら学園のスターだった。

 由衣は彩香のファン、と言うよりは中学時代からの追っかけに近い。彩香が日野出学園中等部2年生の時に中等部へ入学したから、既に4年目である。彩香ファンの間でも、由衣の追っかけっぷりはそこそこ有名で、少なくとも学園内の堺彩香ファンの中で松下由衣を知らない者はいなかった。名前まで知らなくても、顔を見れば「ああ、あの子か」くらいの認識は持たれている。

そんな由衣に、彩香が「楽屋に来い」と言ってきたのだ。由衣からすればネガティブな予想しかできない。

 由衣は自分が学園内、堺彩香ファンの間での知名度が高いのを自覚できている。だからこそ他のファンからの妬みなどには敏感だったし、態度もライブの時を除いて努めて控えめにしていた。しかし、以前ライブでの乗り方が熱狂的すぎて、その様子を見たご新規がライブ参戦を敬遠したという前科がある。それを知った時、由衣は自決の一歩手前まで行ったが何とか周りの助けで生きながらえていた。

ーーまた何かしでかしちゃったかな。

 そんな不安感が由衣の脳内を支配してゆく。

「何してるの。早くきなさい。あ、あなたたちは少しの間待っててくれないかしら」

 彩香は楽屋のドアノブに手をかけると、突っ立ったまま俯いている由衣を促しつつ、バンドメンバーに指示を出す。他の出待ちの客もその様子を遠目から見つめている。

 日野出学園新聞部が、4月号に大きく「堺彩香熱愛発覚」の記事を載せて以来、誰が彩香のパートナーなのか探っている。この楽屋呼び出しは、もしや2人の逢引ではないかと邪推する者が出始めた。

「もしかして、女同士?」

「百合ってこと⁉︎ これは薄い本の材料になる…!」

「気持ちわるっ」

「学園にも同性カップルは増えてるし、いいじゃないか」

 など、多種多様な話が沸き起こっている。

 そんな話も、楽屋の中までは聞こえてこなかった。頑丈なドアが外の雑音を遮断してくれる。

 楽屋の中には、ライブの機材やお菓子、飲料、プレゼントやファンレター、楽屋花で埋め尽くされていた。彩香は自分の鏡台にドカっと座ると、タオルで珠のように浮かんだ汗を拭き取っていく。

「差し入れのお菓子、好きなものつまんでいいよ」

 彩香は言いながらミネラルウォーターを半分近く一気に飲んだ。由衣は恐る恐るドア近くに立ち、普段滅多に目にすることが無い楽屋の彩香を見つめていた。

「あ、そうそう。今回もお花ありがとうね」

 彩香はそう言って、鏡台側に幾つも置いてある花束やフラワーアレンジメントの籠の中から、片手にすっぽりと収まるような可愛らしいフラワーボックスを掲げた。箱には溢れんばかりの八重桜が詰まっていて、春の訪れを感じさせるプレゼントとなっている。

「いえ、そんな。小さいのしか贈れなくて、申し訳ないです…」

 この講堂入り口には、他のファンや教職員から彩香に対して公演祝いに贈られたスタンド花が幾つもあった。楽屋花も豪華絢爛である。新歓公演なのにこれほどの花が来るという所に、彩香の人気の高さを感じさせる。だからこそ、自分の送ったフラワーボックスは、いかんせん小さい。

「おばか。普通の高校一年がこれを買うのにどれだけ苦労すると思ってんの。私だって高校生なんですからね。むしろ、私は貴女に無理してライブのたびに贈り物はしなくていいっていつも言ってるはずよ」

 由衣は今まで出待ちして彩香と話をした内容を思い出していた。社交辞令ではなく本心だったのか、と、彩香の気遣いに感激する。

「もしかして、今日楽屋に呼んでくださったのは、このことで?」

「あ、違う違う。ちょっと様子がおかしかったから、どうしたのかなって思ったのよ」

「へ?」

「いつもはノリノリなのに、今日はしょんぼりだったでしょ。他のメンバーやスタッフの子たちもおかしいって言ってたのよ」

 由衣は何と言えばいいのかわからず、俯いていた。

「まさか、あの新聞部の記事が不安だったとか?」

「いえそんな!お姉さまの熱愛がもし本当で、幸せだったら全く問題ありません」

「あ、そう。言っとくけど、あれはガセよ」

「へ?」

「新聞部にそこはかとなく匂わせただけ。実際、今日のライブはたくさんお客さんが来たでしょ」

 彩香の、いたずらが成功した悪童のような笑みを見て、由衣は思わず吹き出した。

「ファンの悩みは私の悩みなの。特に貴女のは。教えなさい」

 彩香に言われて、由衣は少しづつ口を開いていった。



2.


「だから、ちゃんと謝っているじゃないか」

 スーツ姿の大の大人が、目の前のソファに座った華奢な女子高生に平謝りしている。

 女子高生の目前にある長机には、淹れたての玉露が置かれてあり、その横には購買で売られていた苺大福があった。まだ未開封である。

 側からみると親子喧嘩に見えなくも無い光景に、周りの面々は笑いを抑えられずにいた。

 日野出学園高等部北校舎一階。日当たりの良くない校舎の中でも、1階の廊下は昼でも薄暗い。そんな1階廊下の隅に歴史研究同好会は部室を構えていた。

 部室の中には、現在5人の人間がいる。

 顧問を務める日野出学園高等部1年4組担任大杉正義、1年4組森本夕、同じく4組の木下隼人、3組の松本泰司、3年生の新聞部と兼部している藤野昌孝の計5名である。

 この場を支配しているのは、最も新参者である森本夕であった。

 木下も松本も、藤野でさえも、この学園には中等部から通っている持ち上がりである。大杉に至っては10年もの間学園に勤務している。夕を除けば、中等部時代から面識のある連中ばかりだ。

 なぜ森本夕が怒っているのかというと、昨日の夕刻にまで遡る。

 森本夕は、変わり者であっても生徒に親身に寄り添うように見えた大杉教諭を信じて、歴史研究同好会の入会届に署名した。しかしその直後に発覚したのは、大杉のスマホによる舟券購入だった。

 しかも外れた。

 勤務中にスマホで舟券を購入した不良教師に、夕は遂にキレたわけである。

 彼女は先程からツーンと顔を横にむけている。一切喋らない。

「森本さん、大杉先生の競艇好きにも理由があるんだよ」

 藤野が両人の様子を見かねて助け舟を出した。

「俺が高等部に入る前、大杉先生が三年生を担当していたんだけど、その中に高田凛っていう人がいてさ。スポーツ万能だったんだけど歴研に在籍していて、競艇の道に進んでいったんだよ。今は江戸川競艇がある東京支部に所属してる。その人のことを、大杉先生はいつも応援していたんだ。俺たちが入ってきた時も「高田君の試合見に行くぞ!!」って夏休みに歴研会員総出で江戸川に応援いったりしてさ。そんな感じで、一応生徒の気持ちを考えてないわけじゃなかったんだよ」

「では先輩にお聞きします。大杉先生が負けたレースに、その高田先輩は出ていらしたんですか?」

 大杉に顔を向けないまま、夕は訊ねた。

 藤野たちは大杉を見た。大杉は力なく顔を横に振る。

「ではただの職務怠慢です。校長…いえ、理事長先生にご報告します」

 室内がざわつく。私立日野出学園に於いて、生徒がなし得るこれ以上の脅しはない。

 可愛い女の子だと思って甘く見ていたらまずいと男共は襟を正した。

「夕君。ホンダ自動車の新入社員が、いきなり本田宗一郎社長にお会いできると思っているのかい。無理だよ。理事長先生にお会いするのだってそうだ。大企業の会長でもあるんだぞ」

 現行犯がバレた被告人の分際で、強気な教師である。

「理事長先生は、何かあったらいつでもきなさい。理事長室のドアは開けたままにしている。と入学式の際おっしゃっていました」

「あのオヤジ、そういう点は田中角栄の猿真似してるんだよな」

「あ、そのお言葉も追加で」

 大杉は土下座した。

「頼みますからご内密に……。ただでさえ競艇場に生徒を動員したと高等部のお偉方から睨まれているんです」

 普段の大杉教諭からは想像できない醜態に、ついに藤野は笑い転げた。

「先輩も笑っている場合じゃありません。先生の行為をなぜ止めないんですか」

 藤野は笑いが一瞬で引っ込んで、大杉の隣に瞬間移動したかと思うと土下座の体制に入った。

 松本が援護に入る。

「まあまあ、森本さん。ここいらで許してくれないかな。大杉先生にはキツく言っておくから。俺たち会員の監督不行き届きだよ」

 夕は机をダン! と握り拳で叩いた。大杉が淹れた、一切口をつけていない玉露の茶碗が揺れて、中身が木の皿に少し溢れる。高いお茶なのになぁ。要らないなら飲ませてくれないかな。と、木下はもったいなく思った。

「生徒が教師に対して監督不行き届きとは何ですか!!そんな人に教わるなんて嫌です。私、この同好会やめます!!」

 夕は机の苺大福を取って席を立った。

「わわわ、ちょっと待ってくれ」

 大杉教諭が退出しようとする夕を止めに行こうとした途端、戸が開いた。

「!」

 森本夕は目の前にいた少女の美貌にドキリとして、一瞬固まった。

「あ、堺彩香」

 木下が思わずつぶやいた。夕はその名前に聞き覚えがある。学園のスターではないか。

「…どうも」

 夕は軽く会釈して、出て行こうとした。すると、彩香の後ろからひょっこりと由衣が顔を出していた。

「あ、松下さん」

「夕ちゃん、ごきげんよう」

 彩香は2人の様子を見遣って、

「あら、お友達なのね」

「はい。クラスメートで、一昨日の新歓ライブの日直係を代わってもらったんです」

 この言葉を聞いた瞬間、彩香の目が鋭くなる。由衣も思わず口を手で覆う。失言である。

「なんですって。おバカ!ライブなんか後回しでいいのよ。お勤めはちゃんと果たしなさい!」

 由衣は縮こまって、小さい声で「ごめんなさい」と呟くように言った。

 夕はいきなりの教育的指導に驚いて、慌てて手に持っていた苺大福を掲げた。

「わ、私は大丈夫です!お礼に苺大福いただきましたし。大好きなんです」

 これがフォローどころか逆効果になった。

「また貴女は! ライブのために余計な金は使うなっていつも言ってるでしょう!あたしなんか素人に毛が生えたようなもんなのよ。そんな奴のライブを見るために苺大福で買収なんて、愚かしい!」

 買収された側の夕まで背筋が伸びそうになった。

「私のライブは究極のエンタメよ。ナルシストだって言われても構いやしない。目立ちたがりやナルシストさが無いやつはステージになんか立ちゃしません。でもね、エンタメは余暇に楽しむからこそ尊いの。やるべき仕事をサボって来られても、私は嬉しくないからね。そんなのはロックでもパンクでもない。ただのサボタージュ。それが許されるのは人生の重大事が迫った時だけよ。私の、しかも新歓ライブなんかにそんな価値はないわ」

 夕は驚いた。ロックの人だと聞いていたから、もっと不良っぽく、「日直の仕事なんか放っておいてとっとと私のライブを見に来い」なんて事を言うようなキャラなのかと思っていたら、バカみたいに真面目ではないか。

「えらい!!さすが堺君だ。それでこそ我が校のスターといえるよ」

 大杉が泣きながら拍手を送っている。この不良教師はひとまず堺彩香の爪の垢を煎じて飲むべきである、と夕は心の中で突っ込んだ。

「ただでさえ不良扱いされますからね。真面目にやるべきところは真面目にやらないと、イメージが悪くなります。アンチが増えちゃうと、結局ファンの子たちが悲しんじゃうわ」

 加えてファン思いだ。夕は一曲もこの先輩の音楽を聴いてないし、ライブを見ていないが、ファンになりそうだった。

「あの、夕ちゃん。苺大福、早く食べないとダメになっちゃうよ。消費期限は今夜じゃなかったっけ」

「そうね。あげちゃったものは仕方ないから、ありがたく頂いちゃいなさい」

 彩香はそう言うと、部室に入っていった。

「大杉先生、座ってよろしいですか?」

 先程まで夕が座っていた場所だ。夕は今になって溢れた玉露の茶碗を思い出す。こんな厳格な先輩が見たらまた怒るかもしれない。夕はすぐに机の玉露を持ち上げようとしたら、大杉がそれを先に手に取った。

「いいよ、僕が洗う」

 生徒のご機嫌取りに必死である。

「いいです。先生はとっとと先輩とのお話を始めて下さい」

「できれば、火急のことでして」

 彩香の声のトーンが下がる。夕の先ほどの怒りなど吹っ飛ぶくらいの凄みである。大杉は茶碗を離すと、すぐに机の問い面に座り、「まあ、座んなさい」と2人にソファを勧めた。

 夕は流しの水を少なめに出しながら、玉露を洗い流そうとした。

「もらい」

 木下が捨てそうな玉露を引ったくると、そのままグイッと飲み干した。

「冷めてるでしょ」

「玉露はぬるめが美味しいんだそうだよ」

「そうなの?」

「知らない。聴いただけ」

 夕はなんだそりゃと呆れて苦笑いするしかない。

 こんな和気藹々な流し台の方へ、大杉教諭は声を上げた。

「君たち!静かに」

 大杉はそういうと、彩香と由衣の2人に目を向けた。

「ライブ直後の汗だく状態で、こんな気温も低くて薄暗いところに風邪をひくリスクを負ってまで遥々来たのにはワケがあります」

「酷い言い方だね」

「先生にしか相談できない事があるのです」

 彩香は隣に座る由衣に何か促した。由衣はブレザーの内ポケットからスマホを取り出し、ロックを解除して通話履歴画面を見せた。

「これは…!!」

 大杉は思わず身を乗り出した。今まで夕に平謝りしていた男とは違う、生徒を守るべき教師の目になっていた。

 思わず隣にいた松本も画面を見てみたくなり、覗いてみた。

「同じ電話番号で何十回も…由衣ちゃん、ストーカーされてんの?」

 由衣はフルフルと首を横に振った。

「いいえ違うわ。どっちかって言うとストーカーはこの子の方よ。私目当てで入学してきてるんだし」

 彩香はふんぞり返って宣った。

「俺も憧れて入ってるんですが」

 松本は自分を自信なさげに指差す。彼も中等部時代から彩香のギタープレイに憧れて日野出学園軽音部に入り、ロックを始めた口である。

「あんたも由衣も迷惑電話はかけてこないだけマシよ。酷いやつは家まで来るからね。おかげでカバンの中には常に特殊警棒を忍ばせるようになっちゃった」

「ストーカーじゃないなら何だ。一体どこからの電話だ」

 大杉は口調を厳しくあらためている。夕は気になって退室するタイミングを逸しているが、無自覚である。

「由衣が言いにくいなら、私が言います。架空請求業者からですよ」

 その場にいた全員が固まった。思っているより遥かに恐ろしい相手だった。

「匿名掲示板で、私のアンチスレがあると知ったそうです。そんなもの気にしてないんですが、この子は真剣で。探しているうちに、18歳未満入室禁止な場所にまで入り込んでしまったようです」

「もともとエロい広告が沢山出てきてましたから、気持ち悪いと思っていたんですが、いつの間にか裸の女の人しかいないような場所にまできちゃって、そしたら架空請求メールが来たんです」

 大杉はその言葉をメモに書き留めながら聞いて行く。

「それで?電話まで来たって言うのか?」

 由衣は俯く。彩香はその様子を見て助け舟を出した。

「それがこの子、メールの番号に電話しちゃったんですよ」

「架空請求業者に? このスマホでか!!」

 ヒエっ…と松本や藤野が声にならない悲鳴をあげる。

 森本夕も蒼白になる。そのような事をすると向こうの思う壺である。

「当然、非通知でかけはしなかったんだな」

「はい……。そんな設定があることも知りませんでした」

 その結果が、通知の山である。何としてもこの鴨から金をむしり取る。そういう了見がヒシヒシと感じ取れた。

「それで来たんです。先生、私はこのまま泣き寝入りするのは嫌です。できれば何とかして、この腐れ外道を懲らしめたいんですよ」

 彩香の発言に、一番驚いたのは由衣だった。

「お、お姉さま!そんなことできるわけないじゃないですか!」

「じゃあこのまま電話番号変えるかどうかするっての? なんで罪のない人間が、真っ黒くろすけの悪党に泣かされなきゃいけないのよ。理不尽じゃないの。しかも由衣は私の大事なファンなのよ。先生。私は、少なくともこの学園で私のファンを公言してる人を苦しめる奴を決して許しませんよ」

 彩香の眼光に、大杉すら身構えた。この堺彩香と言う女は、夕が思っているよりもチャラチャラした人間ではなく、むしろバカみたいに真面目にファンの身を守ろうとしている。

 それが行きすぎた正義感の暴走すら生み出している。ファンのためなら、人を殺さなくても半殺しにはしてしまいそうな勢いがある。

 そんな中、机に置かれていた結衣のスマホに着信が入った。

 件の架空請求業者からの番号であった。



3.


 堺彩香は、小学校までは都内の公立校に通っていた。

 5年生になった頃、趣味のギターでアニメソングをカバーした動画を、流行りの動画投稿サイトにUPし続けたところ知名度が向上し、今では数十万人の登録者がいる。見た目も歳不相応の大人びた雰囲気を醸し出す「美人」だったので、主に男性の人気が沸騰した。可愛いから注目されてるだけだと言う批判は現在まで一定数あるのだが、技術も高かったので保守的なロックファンの中でも「将来有望なのは間違いない」と認める者が多かった。彼女はゴリゴリの洋楽ロック、メタル、邦楽ロックのほか、アニソンも初期からやっていたので、いわゆるアニオタの層の心も掴んでいた。特に、毎年プリキュアのOPは必ずカヴァーしているほどだった。

 やはり男性ファンが多く、中にはセクハラまがいなリプライやDMも多数存在したが、投稿の曲の幅を広げていくうちに女性ファンもついて来るようになった。

 最初のうちはネットに慣れていないことから、両親や友人にSNS上の誹謗中傷にまいっていると愚痴をこぼしていたが、他のインフルエンサーを見たりすると、自分よりもっとひどい罵詈雑言を言われても活動し続けている。それに勇気づけられ、結局現在まで続いている。明らかなアンチコメントは傷ついていたが、それとは別の批判意見も参考になる事が多かった。演奏の技術的な面だけではなく、画角が変だとか、時々音がおかしいとか、画面が暗くて見にくいなど、そうした映像そのものの意見は真っ先に改善していった。演奏技術の向上は一朝一夕では無理だが、今すぐ変えられる点ならばすぐに変えなければ彼女の意識が許さなかった。

 おかげで今では、ただの誉めているコメントなどに心がときめかなくなっていた。どちらかというと、動画への改善点、悪い点への忌憚のない意見が欲しくなってすらいる。


 人気も出ている中、彼女はこのまま音楽を続けたいと思っていたが、地元の中学校はどこも音楽系の部活動は吹奏楽や合唱部しかなかった。軽音楽部や、ロックに優しい学校なんて私立にもないだろうなと思っていたところ、日野出学園中等部の募集要項を知った。軽音部の存在、更に中学受験の段階で、一芸入試があったのだ。当時彩香は数万人の登録者と2千人のツイッターフォロワーがいた。

 これにリアルの観客動員数と技術を見せつければ、受かるかも。

 そう思った彩香は、6年生の夏に、地元のお祭りのイベントでバンド出演をすることになった。メンバーは親や自分の通うギター教室の先生やOBに土下座で頼み込んで集めてきたので、彩香が最年少であった。1ヶ月前から練習の他にSNS上での告知や、動画サイトの更新頻度アップを行い、できる宣伝は可能な限り行った。カバー動画で1番再生回数の高い曲をセットリストに組み入れたりと、集客や一般への受けだけではなく、いかに通りすがりの祭りの客を立ち止まらせる事ができるかを考えた。ロックやアニメなどのジャンルには拘らず、流行りも無視した。親世代かそれ以上の客を引き付けるため、有名どころの昭和歌謡の選曲も取り入れていた。

 結果、数百人の動員に成功した。世間知らずの小学生だった彼女は、「フォロワーや登録者があんなにいて、これだけの人数か」と本番前にポロッとこぼして親やOBに拳骨をお見舞いされた。動員が3桁に到達するのがどれだけ至難の技なのか、わかっていなかった。

 演奏したのは洋楽や邦楽合わせて6曲で、自分の好みと一般的知名度を両方考慮した。

セットリストは


1.デトロイト・ロックシティ

2.ハートキャッチ・パラダイス

3.勝手にしやがれ

4.HOWEVER

5.ドント・ストップ・ミー・ナウ

6.紅


 洋楽はKISSとクイーンを演奏した。日本でも知名度の高い曲を演奏したほうが観客のノリは良いに決まっている。実際その作戦は功を奏した。初めての素人ライブにしては十分なほどの盛り上がりで、観客の中には号泣している子供もいた。泣けるような曲をセレクトしたわけじゃないので彩香は面食らったが、自分の生演奏や歌で人1人感動させて泣かせることができたのは自信につながった。その子に未使用のタオルを投げ飛ばして、バンドはステージを去った。

 大変なのは次の出番のバンドだった。ほとんどが彩香目当てで来ていたので、その演奏が終わると9割ほどの席が無人になってしまったからだ。

 その後、彼女は観客席の様子と自分たちのステージ両方を撮影した4台のカメラの映像を編集し、そのビデオを持って中等部の一芸入試に望んだ。結果は合格だった。技術云々は言うまでも無かったが、それだけではなく、自発的な宣伝活動やバンドメンバーを集めるなど様々な能動的行動を小6の段階で行える人物はそう多くない。また、ステージでのパフォーマンスも、素人にありがちな自己満足さがなく、お客さんを楽しませようという気迫が伝わり、そこも高評価につながった。

 彩香は特待生として筆記試験と学費免除で入学が決まるが、なにぶん学力が足りなかったので、入学までの数ヶ月間は学園から出された課題をひたすらこなさなければならなかったのだが、彩香はそうしたことも今となってはいい思い出だと思っている。

 学園に入学してからは、自分のファンが思いのほか多いことを知り驚いた。小学校の頃、自分の周りはロックなど聴かないし、アニソンがなんとか知られているくらいだった。しかし日野出学園という、全国から物好きな連中が集う場所になると、初期の頃からチャンネル登録していた男子学生や、初ライブに来ていた女子学生などが多数彩香の元に集まってきた。ネット上の数字でしかないファンを、こうして目の当たりにすることができた彩香は益々自分を律した。

「天狗になるな。ファンを大切にしろ」

 父親は毎日のように彩香にこう諭していた。彩香も動画投稿で当時既にひとかどのサラリーマン並みの収入を得ていたからこそ、多くの「同業他社」の炎上を目の当たりにしてきた。

 彩香からすると、ファンは怖い。もちろん多くのファンは味方だろうが、何かやらかすと最凶の敵になる事を、彩香は歴史と経験から知っていた。自分自身も数多のバンドやアーティストのファンだから、気持ちは痛い程分かるのだ。実際彼女も炎上は経験している。

 だからこそ、なるべくファンを自称するクラスメートや学園の人間とは大事に接した。進級するにつれて後輩たちにも慕われたが、後輩たちにもなるべく愛想良く接していた。


 松下由衣との出会いは中2の時である。

 由衣は両親の不和が原因で、小学生の頃は塞ぎがちになり、夜は親のタブレットで動画を見る事により、親の口喧嘩から逃げていた。イヤホンで耳を塞げば、少なくとも動画再生時間のうちは親の罵り合いを聞かずに済む。そんな中、由衣は動画配信サイトである少女のギタープレイを目にする。

 由衣はそこまで音楽に関心がある方ではなかったが、親の喧嘩を聞きたくないのでなるべくやかましいロックのようなジャンルの動画を見ていた。そうした流れで、いつの間にかおすすめ動画の中に堺彩香のギターカバー動画が入っていたのである。

「何この子。私と同じくらいの歳なのに、顔出しでギターなんか弾いちゃって」

 冷めた目で、しかし興味があったので再生ボタンを押した。つい今しがた聴いていたXJAPANの『紅』のカヴァー動画だったからというのも大きかった。紅と言う曲は、最初はHIDEが演奏するアルペジオで幕を開ける。暗く、どこか不安で、今から何が起きるのかわからない曲調である。しかし、それがYOSHIKIのシンバルの音で終わった途端、凄まじいハイスピードメタルに豹変する。由衣はこの展開が好きだった。激しいロックだが、慣れると案外メロディが美しく聴きやすい。ライブで聴いてみたいと思ったが、Xはこの頃全くライブを行っておらず、生で聴くのは諦めていた。

 そんなふうに聴いているうちに、アルペジオが終わった。案外上手いじゃん。そう思ったら、直後の曲の出だしで由衣は脳天から足元まで雷で貫かれたような衝撃を受ける。

 無論、本家ほどの境地には達していない。なのに画面越しに感じる熱量は一体なんなのか。音も非常に聴きやすく、演奏は激しそうにしつつバカみたいに丁寧だった。Xに初めて挑戦した動画だと概要欄に書かれてあり、Aメロの段階で彩香の額には珠の汗が浮かび上がっていた。

 余計な演出はない。しっかり演奏で勝負している。「ヴィジュアル系」の元祖の曲を演奏するためか少々派手な服であったが、そんなものは気にならなかった。由衣は両耳のイヤホンを抑えて、目の前の演奏を心の奥底まで聴かせるかのようにのめり込んだ。

 演奏が終わり、彩香は画面の向こう側の視聴者へ一礼した。

 その瞬間、由衣の頬を一筋の涙がつたい落ちた。今まで音楽を聴いて涙を流した事など無かったのに、である。

 由衣はそれ以降、彩香の動画を漁りまくった。アニメソングや洋楽、今まで聞いたこともないような音楽も広くカヴァーしており、驚きを隠せなかった。他のSNSを見ると、自分より一つ年上であると知り、それくらいしか年齢が離れていないんだと衝撃を受けた。

 ある日、都内の祭りで彩香がバンド参戦すると言う告知が毎日のように彼女のSNSや新作動画で告知されるようになった。どうやら日野出学園中等部に一芸入試で入学するために、ライブで多くの人に集まってもらいたいのだそうだ。技術、知名度、集客力があれば、学園の入試担当も認めてくれるのではないかと言う事だった。

 由衣は、すでにこの時彩香にだいぶ入れ込んでおり、なんとしても彼女の力になりたかった。しかし、彼女は埼玉県の三郷市に住んでいたのだが、この祭りが行われる都内某所には小5にとって随分な距離があった。1人で行けば親に反対されるに決まっている。

 だからと言って、毎日喧嘩してるような親に、お祭りに連れて行ってといえる雰囲気はもう家庭内に存在しない。

 しかし、彩香はもっと大変な目標に向けて日々邁進している。自分だけが逃げて、殻に篭るだけなのは、いい加減飽きた。

 相変わらず口論している親たちのいる台所に続く扉は、開けるどころか触りたくもなかった。しかし、触って引くと、扉はあまりにも軽く開いた。こんな薄い扉だったのか。由衣はどこか安心した。「やってみれば、案外大したことはない。やるまでが大変なんです」と、過去の動画で彩香が話していた言葉の意味が、少し分かったような気がした。

 普段この場にいないはずの娘がきて、父と母は一瞬喧嘩が止まった。

 由衣は深呼吸して、大声で言った。


「堺彩香のライブに行きたい!!」


 結局、由衣の久しぶりのワガママに、親たちは折れて、行きたくもない祭りに由衣を連れていくことになった。武蔵野線や中央線など、幾つもの乗り換えを経て、目的地に着いた頃には、すでに人だかりができていた。

「みんなー!今日はきてくれてありがとー!!気合い入れていけー!!」

 ステージ上では、小さな体にエレキギターを抱えた少女がマイクを手にして思い切りシャウトしていた。ステージ上では幾度となくぴょんぴょんとジャンプするが、周りにいる大人のメンバーの頭すら越えられていない。目の前にいるのは、本当に自分と同年代の子供だった。しかし、彼女は小さな体で精一杯歌い、ギターをかき鳴らしていた。

「えっ。あの子まだ小6なの?」

 母親が驚いた顔でステージを見つめている。

「そうだよ!彩香ちゃん、まだ12歳なんだって。中学受験のためにライブやってるんだよ!」

「ええっ!?それってあべこべじゃない。勉強しないと」

「いちげいにゅうしって言うらしいよ!」

「い、一芸入試ね…」

 母親は娘に気圧されながら、ステージに再び目をやっていた。

 ライブは楽しかった。考えてみれば、ロックコンサートなど初めてである。大勢で掛け声やシャウトをする経験は運動会くらいしか無かったが、それの何十倍も楽しい。

 ライブ終了時のカーテンコール時には、由衣は満面の笑みで涙をボロボロにこぼしていた。彩香はステージ上でその様を見ると、本番の演奏中ですら見せなかった笑顔を受けべて、彼女の元に使われていないタオルを放り投げた。

「涙拭くのに使ってね〜」

 まさか、堺彩香が自分にタオルを投げてくるだなんて思ってもおらず、由衣は少しの間固まっていた。

「おめでとう!タオルもらえたじゃん!」

 父の言葉に、由衣はようやく自分の手の中にある白い布の存在を頭でしっかりと確認した。

「やった!!やった!!」

 由衣はこの年1番の笑顔を見せていた。両親も笑っている。両親たちは、こうして親子が笑い合っているのは何年振りのことなのかと思わずにいられなかった。我が子の笑顔もかなり久しぶりに見た気がした。

 自分達の行いを、夫婦はようやく恥じたのであった。


 堺彩香は無事に日野出学園中等部を合格した。由衣もできれば来年はこの学園に入りたいと思っていたが、私立であり、親からは反対されると思っていた。

 しかし、意を決して相談すると、意外にも両親は許してくれた。

「彩香ちゃんみたいに一芸があるわけじゃないんだから、ちゃんと死ぬ気で勉強しなさいね?」

 母親はそう言うと、由衣からタブレットを取り上げた。彩香の新作動画を見れないのが辛かったが、同じ学校へ通えるためだと我慢した。

 結果、ギリギリ合格出来た。彩香目当ての新入生は多くいて、受験の倍率は例年よりかなり高かったという。そんな中を勝ち抜けた由衣は、自分が少しだけ誇らしくなった。


 学園では、新入生歓迎ライブなるものを彩香が二年生有志と共に開いていた。中等部の軽音部や吹奏楽部、趣味で楽器をする学生などで成り立っていた。

 彩香は、演奏中にタオルをブンブン振っている1年生を見つけた。随分乗ってくる1年が居たもんだと思ってよく見ると、お祭りの時に号泣していた少女である。なんと入学してきたのだ。律儀にタオルまで持参して。彩香は嬉しいやら小っ恥ずかしいやら、とにかく悪戯っぽく微笑んで指を刺した。咄嗟にできる照れ隠しなど、それくらいしか無かった。

 よく見ると、また泣いている。今度は投げるタオルを用意して無いのが悔やまれた。

 

 由衣にとって、彩香は特別な存在だったが、彩香にとっても、この新入生のファンは特別な存在だった。

「貴女、“ゆいゆい“さんだったわね」

 ライブ終了後、彩香は出待ちしていた由衣に話しかけた。

 ゆいゆいと言うのは、由衣のSNSアカウント名だった。

「ひ、ひゃい!!」

 反応がすこぶる可愛い。

「この学園、色々変わり者がいたりするけど、慣れると楽しいもんよ。泣いてる暇なんかないわ。思い切り楽しみなさい」

 彩香はかける言葉を探し当てる事が出来ず、このような当たり障りのない言葉しか言えなかったが、それでも由衣の心には深く響いたようで、

「はい!彩香お姉様も、またライブやってくれますか?」

 先輩呼びをいきなりすっ飛ばして、いきなりお姉さま呼ばわりされて、彩香はもちろん周りにいた学生たちもふきだした。

「この学園にはスールの制度はありません!」

 彩香が言うと、由衣は突然顔を真っ赤にした。

「ええっ! 歴史のある私立校だったから、てっきり挨拶は“ごきげんよう“とか、お嬢様らしいこと言わなきゃいけないのかなって思っていました!」

「うーん、この天然さん、重度だわ」

 呆れながらも、この可愛いファンの後輩は大事にしなきゃな、と自らに言い聞かせた。



4.

 だから彼女は今、歴史研究同好会の部室にいる。

 大杉教諭は彩香が中等部の頃からライブや課外授業で応援してくれていた教師だった。大杉は彩香と音楽の趣味が合い、学部が違うのに時たま相談にも乗ってくれた。教師らしからぬ雰囲気を感じ、信頼していくのに時間はかからなかった。歴史研究同好会の部室に足を運ぶことも多かった。そこで大杉の元には様々な生徒が相談に来ることを知り、もしかしたら私も何か頼る日が来るのかもしれない、と言うふうに考えていた。

ーーまさかこんなに早く頼る日が来るとはね。

 彩香は由衣の方をチラリとみたが、まだ彼女は不安げな表情を崩していない。彩香は結衣の手をギュッと握ってやる。由衣は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに強く握り返した。手のひらには汗が滲んでいた。

「……う〜ん、これはまた面倒な話になったな」

 架空請求詐欺の電話は、録音した状態でスピーカーフォンにして出てもらった。

 向こうの要求は10万円で、すぐに振り込まないと追徴金を要求するなどと脅していた。会員登録したためだというが、無論嘘である。その後に名前や住所を教えろと言ってきたので、大杉は腕で大きく「×」の字を出してとぼけさせた。会員登録してあると言うくせに名前を教えろと言う時点でおかしい。この輩には理屈も通じないのか。

 森本夕は、人間の悪意というものが目の前で実演され、その被害に一番新しい友達が遭っているのに震えを隠す事ができない。

「電話番号だけじゃ、特定なんかできんぞ。俺は警察官じゃないんだ」

「そこを何とか!!」

 彩香が机をドンと叩く。

「ならない! 悪いが、これは俺の手に負える事案じゃないぞ。学生課に相談しなさい」

 大杉は、つい先日生徒を動員させて殴り込みをかけた教師とは思えない保守的な調子で彩香と言い合いしている。

「先生、この間は殴り込みを実際にやったのに、なぜ今回はそんなに頑ななんですか?」

 大杉は呆れ顔で夕を見遣った。

「あのね、森本くん。美術準備室の件は、相手が幽霊や妖怪の類ではないという確信があったからやったんだよ。しかも学園内、それどころかこの校舎の話だったじゃないか。

 今回は違う。本当の悪党が相手だ。人数もわからん。どんな規模の組織なのかもわからん。背景にどんな犯罪組織がいるかもわからないんだぞ。幽霊の方がずっとマシだ。それに学外だ。学校の中であれば、私もどうにでもできるが、学外だと守りきれない」

 大杉の話も尤もだった。しかし、夕はもうこの由衣を放っておくことはできなくなった。先程までならば出ていけたであろう。しかし、目の前で本物の架空請求詐欺業者と電話対応していた由衣の姿を目の当たりにしてしまうと、なんとしても力になりたい。そう思った。

ーーよし。こうなったら、この不良教師の重い腰を動かして利用してやる!!

「先生、もし松下さんを助けてくれるなら、退会の話は取り下げます」

 夕は賭けに出た。自分の同好会の人員確保と自己保身、秤にかけた場合どちらがこの教師にとって重いのか。いずれも自己保身につながるが、部員の数が多いと同好会であっても予算がある程度出る。大杉はその予算で歴史関連書籍を購入し、一度読んでから同好会の備品として部室に置いていると聞いた。実質私物化できているこの同好会の予算向上をとるか、定石通りの手を打つか。本来教師の仕事ではないのだから、然るべきところに相談しろと言って突き放すのは全く問題ないはずである。だが、大杉は自分の受け持つ生徒は大事にしておきたかった。生徒のことを大事に思っているのは本当だが、生徒からの評判がいいとボーナスに良い影響が出るこの学園特有の昇給システムが大杉の葛藤をより大きなものにしている。

 この教師は欲に忠実である。ならば、欲で釣ってやるのが上策だ。

 大杉は、夕の条件に明らかに動揺していた。可愛い顔してこんな取引をしてくるとは、とんだ小悪魔だとか思っているんだろうな、と夕は思った。

「可愛い顔してこんな取引をしてくるとは、とんだ小悪魔だな、森本くんは」

 大当たりである。夕は噴き出すのを必死で堪えた。頬の筋肉が攣りそうである。

「会員数は大事だ。だが、君たち学生を危ない目に合わせるわけにもいかない。これは教師として発言しているんだ。俺は、信じないかもしれないが生徒を愛している。できればこれから先の人生、かすり傷ひとつ負ってほしくないんだ」

 それはそれで少々重い愛情だな、と、夕は一瞬引いた。

「競艇の先輩のレースなんか、この先生真っ青になってるんだよ。選手より緊張しちゃってるの」

 藤野が夕に言った。

「競艇は命懸けだ。怪我で済むならまだいい。下手をしたら死ぬ。だから俺はいつも、あいつのレースがある日はこの学園の神社に参拝してから出勤するんだ」

 夕は大杉の仕草が明らかに挙動不審になっているのがよくわかった。餌に食いついている。もう一押しである。しかし、その一押しが夕にはできない。

 大杉は一度深呼吸をして、スマホを見下ろす。

「電話番号と、男の声しかヒントがないんじゃ、どうにもならんぞ。仮にこちらに戦車や機関銃があったとしても、攻撃目標がわからないんじゃどうにもできないしなあ」

 そうなのだ。何か行動を起こすにも、我々が知っている情報は非常に少ない。

 しかしそんな大杉の発言に、彩香が身を乗りだした。

「先生、戦車は無いですが、ヒントは他にもあると思うんです」

 大杉は他の生徒と顔を見合わせる。

「どういうことだい」

「私は他の録音を聴いているんですけど、その中に微かなんですが、ある音が入っていました」

「何、ある音ってどんな音だ」

 彩香が由衣と一緒にフォルダを弄り、目当ての録音が再生された。

 

 <いや〜、そうは言われましてもね。三日以内に支払っていただかないと延滞金、発生しちゃうんですよ〜>

<でも、私は登録なんてして無いですし、そんな大金払えるわけありません!>

<そんなこと言われても、規約は規約ですからね〜>


「何度聞いてもうざい声だな。前歯吹き飛ばしてやりたいぜ」

 大杉は拳を震わせながら独り言ちる。

「静かに!今の部分なんですよ」

 夕たちは何のことかわからなかった。ただの会話でしかない。

「もう一度、ここです」

 再生された。まだ夕などにはよくわからない。言葉のイントネーションだとか、外部の音に特徴があるのだろうか。

「ん⁉︎ 音量は最大か?」

 大杉教諭は何かに気づき、すかさず彩香に聞いた。

「はい。目一杯です」

「ええい、イヤホンを貸せ」

 大杉はすぐにスマホとイヤホンを繋ぎ、耳に押し当てた。

「…………」

 両耳を抑え、目を閉じて聞いている大杉は何かに気付いたのかハッと目を開けた。

「踏切の音だ!!」

 夕たち一年生はその場から勢いよく立ち上がる。

ーーヒントがあった!

 これは背中の一押しとしてはかなりの威力がある。

 大杉の答えに、彩香はニンマリと笑って頷いた。

「はい。大杉先生も気づいてくれましたね」

「いやあ、これは、よくわかったな。踏切の音は窓の外から聞こえてくぐもってて、最初は全くわからなかったぞ」

「私は音楽やってるんですよ。耳はいいんです」

 ふふん、と胸を張る彩香に、松本は平伏していた。全く気づいていなかったようである。夕も無論わからなかった。

「他のはどうだろうか」

 録音は幾つか有る。それぞれを大音量で再生していく。

 全員が、スピーカー部に耳を近づけている。

「あ!ここだ!」

 彩香が言って、すぐに該当部分を巻き戻し、イヤホンで再確認した。

「すいません、ただのドアの開閉音でした」

「ドアの音?聞かせてくれ」

 大杉が聞いてみた。会話の裏で、「カン・カン……」と言う乾いた高い音が近づき、ドアの開閉音が聞こえる。

「これは鉄製の階段を登って、廊下を歩いて、ドアを開けたってことだが……おそらくアパートの2階、それも階段から2〜3歩の場所にドアがある部屋に拠点を設けているってことになるな」

「踏切近くの線路沿いにある、アパートか……」

 藤野が腕を組む。

「その踏切の音も、ろくにわからないですからねぇ」

 木下はもう一度踏切の音が入っていた該当部分を聞いてみるが、全く持って参考になるとは思えなかった。

「あ、ちょっと待て。踏切の入った録音、何時に録ったんだ!」

 大杉は腕時計をふと見た瞬間に叫びに近い声をあげた。

「ええと、昨日の3時25分ですが……」

「何っ! もう数分しか無いじゃないか!!」

 大杉の発言の真意を、夕は計りかねた。

「昨日今日は平日だ。同じ時間に電車が通るはずだ。うまくいけば、また踏切の音が録れる!」

 なるほど、確かにその通りだと夕も思う。しかし……

「でも先生、踏切だけでは場所はわからないんじゃ」

「森本くん、君は鉄道オタクを甘く見すぎているようだね。踏切の音でどの路線か、どの会社のものかわかる人もいるんだよ」

「本当ですか!?」

 その瞬間、再び電話が鳴った。業者からである。

「録音開始!! 松下くん。今から芝居を打ってもらう。できるな」

 由衣は目を白黒させながらも頷いた。

「聞こえにくいとか何とか言って、外に出てもらうんだ。うまくいけば、電車の音も拾える。何とかして外に出してくれ。そうすれば、あとはこの俺に任せなさい」

ーーやった! と、夕は心の中で叫ぶ。大杉の重い腰は今や完全に上がりきったと言っていい。

 由衣はスマホの録音アプリを起動して、電話を受けた。

「……はい」

<あ、こちら関東企画ですが。お金用意できましたかね>

「あの、いくらか工面できたんですが」

<おお、ありがとうございます。早く振り込んでくださいよ。振込先はですね……>

「あ、ちょっと待ってください。あの、実は最近、耳鼻科に行ってまして。先生の話ではヘッドフォン難聴なんだそうです。今もちょっと声が聞こえにくくて。裏で他の人が作業してる音とかも被っちゃって。お手数ですが、外に出ていただけませんか? 振込先を聞き間違えちゃうと大変なので」

 うまい。と、大杉は口だけ動かしている。

 実際、スピーカーフォンで聞いているが、事務所になっている場所はおそらく複数人いるのだろう、キーボードやマウスのクリック音、書類のめくる音や小さな話し声などが聞こえている。

<はあ。そうなんですか? じゃ、一回外に出ますね>

 相手は乗った。夕はまだ少々寒い4月上旬にもかかわらず、額の汗が顔をつたい落ちている。

 電話口ではドアの開閉音とともに、風や車の音などが聞こえてくる。そんな中、猛スピードで走っていくバイクの音がかすかに聞こえてくる。確かに屋外に出たようだ。

「どうですか? 逆にやかましいんじゃ?」

「あ、いいですね。ではお願いします」

「ええ。四ツ井東京……」

 声は途切れた。大杉たちは顔を見合わせた。まさか、企てがバレたのか?

 すると、踏切の音が聞こえてきた。だが直後、音がほとんど聞こえなくなる。気のせいだったのか? と、夕や大杉は顔を見合わせたが、彩香はじっとスマホに耳を傾けていた。すると、電車が一瞬で電話口を通り過ぎてゆく走行音が聞こえた。

 そして、電車の音はすぐに聞こえなくなり、小さく「プシュ〜」と言うような音が聞こえてきた。

 大杉は顔を伏せている。夕が見ると、笑っている。高笑いしそうになるのを堪えているのである。

 車の走行音らしいものは続いていた。

<すいませんね。ちょっと電車が。ここだと逆にうるさいんじゃ無いんですか?>

「あ、今ならよく聞こえます」

<そうですか。では……>



 電話を切った瞬間、大杉は溜めていた思いを爆発させた。

「やったぞ。これでうまくいけば敵の拠点が特定できる!!」

 その場の全員が歓声を上げた。

「藤野くん。君は今すぐ学園高等部の鉄道研究部をここに呼び寄せるんだ。徳井、石田、林。この3人は我が学園高等部の中では鉄道に関して最も詳しいはずだ。もしこの3人を以ってしても特定が難しければ、大学部の鉄道サークルを片っ端からあたるぞ!!」

「はい!今行きます」

 大杉は自分のデスクのPCを操作し、無料動画配信サイトを開くと、検索を始めた。

「堺くん、松下くん。こちらにきなさい」

 彩香と由衣は大杉のデスクへ向かう。PCの画面には 「踏切 音」と言う名前で検索された結果が表示されていた。日本全国の踏切の映像や音声が、さまざまな鉄道マニアによって投稿されている。

 夕は、踏切の音というだけでこんなにも動画が投稿されていることすら知らなかった。鉄道を単なる移動手段としか考えていない夕からすると、世の中は広いものだと改めて痛感させられる。

「君たちは、この動画の中から、電話の奥から聞こえていた踏切の音や電車の停車、通過音に合致するものが無いか探し当てろ。人間の記憶は曖昧なもんだ。確実な証拠も欲しいのだ」

 大杉は自前の高級ヘッドフォンを差し出そうとしたが、彩香が愛用のイヤホンを取り出していたので引っ込めた。

「松下くん。君はこのスマホを持って堺くんの隣にいなさい。すぐに聴き比べできるように待機しているんだ」

 由衣はしっかりと頷き、彩香の横に待機した。

 彩香はすでに動画の音に聴き入っていた。しかし、明らかに違う音も沢山あるので、特定は難航しそうである。

「松本くん。君の耳も役立ってもらうぞ。手持ちのスマホで片っ端から動画を聴きまくれ。どんな弱小動画でも見逃すな」

 松本は「はい」と答えるや否や、スマホを取り出し動画を確認していく。

「森本くんと木下くんだが」

 夕はスッと立ち上がった。大杉を焚きつけた反面、どんな役目も引き受けるつもりでいる。

「まず木下くんは、東雲くんの加勢を頼みに行ってくれ。今は部活の最中だが、洗いざらい話すんだ。この手の話ならば、協力しない東雲くんじゃない。東雲くんの協力が得られたら、柔道部やラグビー部、アメフト部の応援も欲しいな……」

 木下はニヤリと笑って頷くと、すぐに剣道場へ走った。

「森本くんは、これを頼む」

 大杉は本棚の中から一冊の本を取り出し、夕に手渡した。

 交通新聞社から出版されている、東京時刻表・首都圏大改正号だった。

「時刻表ですか!」

「そうだ。東京のみならず、首都圏のJR並びに私鉄各線の時刻表が載っている。いいか。俺の素人予想で恐縮ではあるが、あの電車の音は特徴があるぞ」

「どんなですか?」

「通り過ぎる音が、ほんの一瞬だった」

 そういえば、確かにそうだと夕も思う。普段、常磐線快速電車や山手線、東京メトロに載っていると、10数両編成の列車が普通に思えてしまうが、地方部に行けば5両以下、下手をすれば一両編成の電車すら存在することくらいは夕も流石に知っている。

「俺が思うに、この電車は地方を走るものか、都内だとしてもかなりのローカル鉄道だ。編成は、間違いなく5両もない。1両から3両って所だ。そんな電車が、東京駅や新宿、渋谷、横浜、浦和、大宮、千葉、柏といった都内や首都圏の主要駅に来るという事は無い。だが、車の音の多さからして、きっとドがつくほどの田舎でもない。だからこの、いすみ鉄道や小湊鉄道、栃木の東武佐野線などは、車両数の面で言えば候補になりそうなもんだが、大半の区間が選択肢から除外される。菜の花や田園風景が広がる場所は、あんなにやかましくはないからな。むしろこの、流鉄流山線なんていう中途半端な田舎を走るローカル線は、車両の本数も少ないし、場所によっては交通量が多かったりもするから、全駅を調べる価値がある。アパートと踏切、車の音という点で言えば、この新松戸の近くの「幸谷駅」なんて怪しいからよく調べてみてくれ。他にも怪しいのは、神奈川ならば、思いつくだけでも江ノ電や鶴見線がある。都内だと何だろうな。寅さんの京成金町線は車両の本数的に違う気がするし……東武亀戸線は有り得るな。東武大師線も小さいが、踏切はどうだったかな…」

 夕は大杉の予想を聞きながら、首都圏のJRや私鉄、地下鉄の沿線の数を見て頭がくらりとしてしまった。今まで意識したことがなかったのだが、いざ時刻表を調べようと見ると、首都圏の鉄道網の規模は想像を絶していた。誇張ではなく、正に蜘蛛の糸が張り巡らされているような路線図である。以前『鉄道を発明したのは英国。鉄道網を発明したのは日本』というジョークを聞いたことがあるが、あながち間違いでもなさそうだ、と思えてしまう。

「でも先生、流山線なんてよく知ってますね。地図で見ただけでわかったんですか」

「いや、新撰組ゆかりの地でもあるし、古い鉄道だから、歴研でも乗ったことがあるんだ」

「そうなんですか。私は松戸市民なのに、この路線はいまだに乗ったことがありません。でも新松戸付近ならわかります。あそこは確かに踏切もあるし、車の往来も激しいです」

大杉はびっくりしたように飛び退いて、頭を下げた。

「な、そうだったか!しまった。中途半端な田舎呼ばわりしてすまない!」

「いいんです。実際そうですから」

 夕は早速時刻表を調べ始めていた。

「スマホの充電は」

「ええ、今の所平気ですが」

「この部室、Wi Fiは飛ばしているから、ギガは気にしなくていい。一緒に全国の踏切についても調べてくれ。時刻表と照らし合わせて見た結果、3時20分に電車が通過するであろう踏切を、しらみつぶしにだ」

 夕はとりあえず「踏切 一覧」と調べた。踏切安全通行カルテなるものがヒットし、開けてみると全国の踏切についてずらりと名前まで載っている。夕の知っている、松戸市の踏切もしっかりあった。

 こうしてみると、広い広いと思っていた松戸や千葉には、踏切は存外多くないんだなと感じる。それどころか、踏切は減ってすらいるという。であれば、“敵“の拠点が踏切の近くにあるのは僥倖以外の何者でもない。

 しかし、これは1人でリストアップしていくのにだいぶ骨が折れそうだった。

「東京近郊でいいんですか?」

「おう。言葉に訛りがほとんどなかった。関東の、それも首都にだいぶ近い場所じゃないかと思うんだ。流山線を例に挙げたのもそれが理由だ」

 夕はそういう根拠があるならば良しと納得して、調べ始めていく。

「俺は各方面に電話をかける」

 大杉はメモ用紙とペンを持って、それを机の上に置いて電話をかけ始めた。

「はい…はい…ええ、そうです。網です。それと刺股も。ご用意できますか。ありがとうございます。ええ、ヘルメットは大丈夫です。あとは身を守る盾みたいなものが……ありますか!」

 物々しい雰囲気だった。もしや、再び突入となるのだろうか。

 いや、夕もそうなることくらいわかっていたはずだった。犯罪者と確定した相手のアジトを特定しようというのだ。行き着く先は突入に決まっている。

 するとそこへ、バタバタと数名の足音が聞こえてきたと思いきや、ドアが勢いよく開いた。

息を切らした藤野と、3人の男子生徒が立っていた。

「つ、連れてきました」

 余程全力で走ったのか、そのまま藤野はソファに倒れ込んでしまった。

「おお!3人とも来てくれたか!」

 大杉はドアの外にいる男子生徒たちを招き入れた。先程大杉が指名した3人の鉄道研究部の部員であろう。

「先生、勘弁してくださいよ。俺は部長で、この石田は副部長ですよ。林だって部の中枢なんだ。よその部活だからって、トップスリーををいきなり呼び出すなんて非常識ですよ!」

 真ん中にいた男子生徒は本気で怒っている。

「すまん、徳井くん。これも人助けだ。君達の知識がどうしても必要なんだよ」

 大杉は頭を下げる。自分達の知識がどうしても必要と言われたせいか、徳井と呼ばれた男は面食らっていた。大杉教諭の強引さに抗議したのにこんな事を言われ、上げた拳を下ろせなくなっている。

 ガタッと後方から音がしたので夕が振り向くと、彩香と由衣が椅子から起立していた。

 鉄道部の3人は、目の前に居るのが高等部のスターであると分かるや否や固まった。何故この子が歴研部室に居るのか、分かっていない様子だ。

「知ってるだろうが、堺彩香君だ。隣の子が、一年の松下由衣君。松下君は架空請求詐欺の電話に悩まされて、それを知った堺君が私のもとに相談しに来たんだ。

 2人とも、他の一年生達も聞きなさい。この3人が、我が日野出学園高等部鉄道研究部の中心人物だ。部長の徳井くん、副部長の石田くん、3年の林くん。

 この3人は筋金入りの鉄道オタだから、確実にヒントは掴めるぞ」

 3人は、大杉の紹介に苦笑いしていたが、部長の徳井は直ぐに大杉に訊いた。

「先生、どうして私達が必要なんですか。架空請求詐欺なんて、俺たちの手に負えるわけ無いじゃないですか。電車の知識は少しはありますが、犯人を見つける推理力なんていうのは…」

「その、知識が欲しいのだ」

 大杉はピシャリと徳井の発言を中断する。

「松下君と詐欺業者の電話は録音してあるんだが、一部に踏切の音が入っていた」

「……ほう」

 明らかに3人の態度が変わった。目付きが違う。

「電車の通過音もだ。ヒントはそれしかない。その音を頼りに、敵のアジト特定に助力してほしい」

 大杉は、架空請求詐欺業者の事を完全に「敵」と言った。最早これは大杉にとって戦も同然なのであろう。

「踏切と電車の通過音か…」

 3人は顔を見合わせている。鉄オタとしての矜持はある。しかし、そのようなヒントだけで果たして犯罪者の拠点特定など出来るのだろうか、自信が持てないでいる様子だった。

「先輩方…」

 彩香は一歩前に歩み出た。

 話した事すらない、学園の高嶺の花と言えるスターに「先輩方」と呼ばれ、徳井達は思わず姿勢を正してしまう。

「部活動の時間中に、この様な無理難題をお頼みする非礼、お詫びのしようもございません。しかし私だけでは、後輩1人すら助ける事が出来ないのです。既に詐欺業者は松下由衣の電話番号を押さえてしまい、連日悪戯電話を掛けて来ては大金を要求しております。一刻の猶予もありません。私に出来るお礼でしたら、後日必ず致しますので、どうか先輩方のお力をお貸し下さい」

 彩香は深く頭を下げる。由衣はその様を見せられ、目に涙を浮かべて嗚咽しながら一緒に頭を下げた。

 ロックアーティストの印象が根強い堺彩香がここまでして来るとは想定外過ぎるのか、鉄道研の3人はしばらく固まっていた。

 林はいち早く我に帰ると、どうか頭を上げてくれと頼んでくる。

 部長の徳井は肩をプルプルと震わせていたが、いきなり大声を上げた。

「鉄オタの沼にハマって8年!クラスメートは勿論、親兄弟にまで笑われてきたこの俺が、今初めて鉄道オタの知識を買われて助けを求められている。こんな日が来るなんて、夢にも思っていなかった…」

 何と泣いている。石田も徳井の言葉に感じるものがあったのか、ハンカチで目を拭いている。

「石田!林!これを断ったら鉄オタじゃ…いや、男じゃねーぞ!

 堺さん、松下さん、俺たちに任せてくれ」

 徳井の言葉に、彩香は勿論、由衣も歓喜の声を上げた。森本夕は、由衣の笑顔を今日初めて見た気がした。そして、堺彩香と言う女の怖さも知る事となった。

「で、どんな音なんです」

 由衣はすぐに先ほどの通話録音データを流した。

「踏切の後に、電車が通り過ぎる。ローカル鉄道かなと素人なりにおもったんだが、よく聴いてくれ」

 3人はスマホに耳を傾けた。

 電話口の男と由衣の会話が始まり、外に出て行く場面になると林が首を傾げた。

「随分と車の交通量が多いな」

「うん。これは田舎じゃないぞ。地方だとしてもある程度栄えてなきゃこんなに車の音はしないだろ」

 2人の会話の最中、踏切の音が聞こえたので、徳井は慌ててやめさせた。

「……電子音だ」

「少なくとも電令式の小湊鐵道じゃねーな」

「あそこな訳がない。五井駅だってここまで車通りは無いぞ」

 夕は感心せずにはいられなかった。踏切の音に違いがあるのは何となく理解出来るが、それだけで無数にある鉄道の候補が消去されていくのは素直に凄いと思う。

「ん!いきなり音が小さくなった」

 石田は頭の中の引き出しを片っ端から引っこ抜いているような状態で、動きに全く落ち着きがない。

 しかし、車両の通過する音が聞こえてきたら、3人は目を閉じて聞いていた。

 車両の通過が終わると同時に踏切の音は消える。徳井は目を開けて何か思いついたのか宙を見つめている。

「停車駅のすぐそばにあるな」

 他の2名も頷き合っている。

「しかも電車の通り過ぎる時間が早すぎる。先生、これは1両編成ですよ」

 徳井は再生ボタンを押して一時停止状態にした。

「何!? 車両は少ないと思っていたが、確かに1両編成なのか?」

 徳井は少し巻き戻して、再び再生した。

「ほら、電車が電話口に最接近して、すぐに離れていってるでしょ。何両もあったら、もっとガタンゴトン…ガタンゴトン…と言う音が入ってますよ。一瞬で通り過ぎたのは、スピードが速いからじゃありません。1両編成だからです」

「1両編成の路線なら、もう候補はだいぶ絞り込めますよ」

 彩香や由衣は歓喜の声をあげている。

「流石だ!言葉のイントネーションからして、この電話をかけている悪漢は関東圏の人間に違いないと思うんだが、どうだ」

 3人は顔を見合わせて頷き合った。

「もし東京だとしたら、少なくとも路線は割り出せますよ」

「あるのか⁉︎」

 林が再び踏切の音を流す。

「はい。この踏切の音は電子音で、カンカンカンカン…と言うよりは、リン、リン…って感じに聞こえますよね」

 彩香は首を大きく縦に振る。

「車の通りが多い都会なのに、1両編成。それでアパートの付近を走っている。これは私達の出る幕ですら無いですね」

 副部長の石田はスマホを取り出して該当路線を検索し出した。もっと難しい問題だと思ったと拍子抜けしている様である。

「分かったのか⁉︎」

「1両編成の電車は、何もど田舎の専売特許じゃないんですよ」

 以前夕は親の横で『ぽっぽや』を見た事があるが、それ以降、田舎の電車は1両で走るものなのだと勝手に思っていた。

「街の中心を走る1両編成の電車もちゃんとあります」

 徳井の言葉に、大杉は目を見開いた。

「まさか、都電荒川線か!!」

「ご名答です」

 教師と生徒の立場が逆転しているような状況だが、誰もそんな事を構っていない。

「後、電車が通過した後、しばらくすると警笛の音が微かに聞こえてました。おそらく反対方向から来るんでしょう。先日、飛鳥山公園の桜を背景にこの荒川線を撮りに行った時、こんな警笛を鳴らしてました。あの辺はよく車が無理な走行するんですよ。何しろ飛鳥山の反対側は京浜東北線の王子駅ですから、交通量が多くて」

 林はスマホで自分のTwitterアカウントを表示した。先日の投稿では都電荒川線がしっかり写っている。

「ん?待ちなさい。それじゃ敵のアジトは…」

「このあたりの可能性は高いですよ。車の通りも多いし、実際、この近くには踏切もありますからね」

 林は徳井に目配せをする。

「うん。飛鳥駅なら、住宅地のど真ん中にあります。踏切も、こんな感じの電子音ですよ」

 室内は水を打ったように静まり返った。まさかこんなに早く特定できてしまうとは、流石の大杉も予想だにしていなかった。

「確認する。ちょっと待て」

 大杉はスマホで動画配信サイトを開くと、飛鳥山停車場の踏切動画を探した。そもそも都内で見られる路面電車ということもあり、荒川線は大人気なのだろう。路線の各踏切の動画が幾つもアップされている。大杉はそのうちのひとつをすぐに再生してみる。

「……同じ音です!」

 踏切の音が鳴った瞬間に彩香が言う。確信に満ちた声のトーンは非常に頼もしい。動画の中では車両が一瞬でカメラの前を通り過ぎていく。この音ならば夕ですら一致しているとわかる。

「ただ、この辺りの踏切の音はみんなこれです。でもね、飛鳥山駅に一番近い踏切付近のアパートだったら、電話に録音された通行音の説明がつくんです」

「どんな点で説明が付くんだい」

「電車が通り過ぎて行くと、そのまま走り続けたら必ず一定間隔で“ガタンゴトン“と音が続いていくはずなんです。しかしこの録音にはそれがない。それどころか、プシュ〜なんて音が入ってたでしょ。あれはね、停留所に停まった時の音ですよ。ですから、相手のいた場所は停車駅付近です」

 大杉が感心していると、彩香は由衣の携帯を再度聴いていた。他にヒントはないか探しているようだ。

「……『野ばら』だ!シューベルトの『野ばら』が流れてます!!」

 彩香の発見に、一同は身を乗り出した。大杉は彩香からイヤホンを渡されて聴いてみたが、どうもわからないらしい。

「野ばら……シューベルト版だよな? 黒澤明の『八月の狂詩曲』のクライマックスに流れた、あの『野ばら』だよな?」

「すみません、それは観てないのでわかりませんが」

「何。堺くん、日本人アーティストとして世界に出るんだろ。黒澤映画くらい日本人の基礎教養だ。ちゃんと観ておけ」

「でも、『天国と地獄』なら観ているんですよ」

「あったりまえだ。君に以前勧めたじゃないか。あんな傑作、観てない方がどうかしている……」

 大杉がいきなり黙ったので、夕はどうしたのかわからず不安になった。何か重大なヒントでもあったのだろうか。

「堺くん。だから君は気付いたんだね。この踏切がヒントになりうると」

「はい。名作はちゃんと観ておこうと思いました」

 彩香はぺこりと頭を下げる。

「あの、先生、どういうことでしょうか」

 森本夕はたまらず大杉教諭に訊ねた。

「黒澤明監督の『天国と地獄』にはね、電車の音で敵のアジトの候補が絞られるシーンがあったんだよ。尤も、江ノ電もパンタグラフになった今では成立しないがね」

 はあ。と、答えはしたが、夕にはパンタグラフなる物が何なのかは勿論、江ノ電の音すら知る由もなかった。

 鉄道研の3人は、「おおー!」と湧いている。鉄道ファンにとっては有名なのかもしれない。

 大杉は言いながら、話が逸れたなと思ったのかスマホに目を落とす。

「もう過ぎてますね。52秒あたりです」

 大杉はタイムバーを45秒くらいにして、再び耳を澄ませた。

「……微かに、言われてみれば聞こえるな」

「音の質感からすると、おそらくチャイムのようなものから流れています。王子って北区ですよね。こんな時間帯にそうした放送が流れてるものなんですか? よく、夕方になると“良い子のチャイム“が流れるというのはありますが」

 彩香の質問を受けて、大杉は腕に付けているSEIKOの機械式腕時計で時刻を確認した。

「地域のチャイムじゃないな。これは、学校のチャイムだよ」

 夕はなるほどと納得した。学校のチャイムといえば英国発祥の『ウエストミンスターの鐘』(キーンコーンカーンコーンと鐘の音のようなメロディでお馴染みである)が一般的だが、近年では一部私学等から段々と始業終業チャイムの改革が起きている。尤も、この日野出学園のチャイムは『ウエストミンスターの鐘』である。

「都電荒川線沿線で、学校はどれくらいあるかな」

「少なくとも飛鳥山の付近には2校あります。北区立大滝乃川小学校と、飛鳥山女学院です!」

 林が即答した。この付近に行った事があるから、流石に早い。

 それでは、飛鳥山女学院のチャイムではないだろうか。と、夕は思う。都内の公立学校の事情は知らないが、シューベルトをチャイムに使う学校ならば、都立の小学校よりは私立の女子校の方がイメージに合うと思ったのである。他の生徒も同感なようだった。

「いいや、違うな」

 大杉がそんな希望の予感をへし折った。

「私も教師なんでね。研修であちらの先生方にお会いしたことがある。あの学園はね、2010年以降ノーチャイムなんだよ。生徒の自主性尊重ということらしい」

「では、小学校の方ですか?」

 それについては、大杉もわからないらしい。しばらく黙って考え事をしていた。すると、何か思いついたのか、自分のスマホを起動してネットで何かを検索し、いきなり電話をかけた。

 どこに掛けているのか。一同が見守っていると、大杉の口から漏れてきたのは予想だにしない言葉だった。

「あ、もしもし大滝乃川小学校さんですか」

 夕は呆気に取られた。まさか直接電話するとは思わなかったのである。

「私ですね、今年北区に引っ越す予定でして、来年度は私立に入れようか、そちらの方に子供を通わせようか迷っておりまして。ええ。それでね、家内がチャイムについて聴いてくれというんですよ。ほら、最近は生徒の自主性を尊重とか言って、ノーチャイムの学校もあると言うじゃないですか。もしそうなら、今のうちから子供を鍛えておかなくちゃいけないのでね。まあ時間にだらしない子で……」

 親を騙って学校から直接聞き出した。そんなことをするとは予想だにしておらず、学生たちは黙って成り行きを見守るしかない。

 しかし、よくもまあここまで口からの出まかせを思いつきで言えるものだ。夕は大杉の携帯画面を一瞬チラリと見たが、非通知設定にもしてなかった。学校職員に不信がられないようにしているのだろうか。

「はい? はあ。変わってると。私の知り合いの子供が通う高校はシューベルトが流れるって言ってたんですよ。ほら、なんだっけな、山百合? そんなんじゃないか。菜の花…そんなわけねえな。あ、野ばら! そう、野ばらです。"童は見たり 野中のばら"なんてねぇ。いやあ、歌の名前が出てこないようじゃ、若年生アルツを疑わなきゃいけませんな。え? ああ、そちらも野ばらなんですか?」

 夕は飛び跳ねそうになるのをなんとか堪えた。鉄道研の3人もガッツポーズをして憚らない。松本に至っては無声で万歳をしていた。

「……おお、珍しいですな。私あの曲大好きなんです。いいですねぇ。はい、私立も考えているのですが、そちらさんの学校も前向きに検討いたします。では、失礼」

 沈黙が流れる中、大杉はスマホから顔を上げた。その顔には、散々探していた獲物をようやく見つけて、一歩ずつ近づいて来る野獣のような、恐ろしい笑みが浮かんでいる。

「先生、見つけましたね」

 彩香の顔にも、どこか不敵なものが漂っている。触れただけで切れそうな鋭利な刃物の様な、鋭く冷たい目線が動画の踏切に注がれている。夕は背筋が凍る様だった。

「3人とも、ありがとう。ここまで上手くいくとは思わなかった。部活に帰ってくれ」

 大杉が立ち上がると、鉄道研究部の中枢達は大杉に詰め寄った。

「先生、今から殴り込みに行くんでしょ」

 大杉は3人を見て、しばらく黙った。

「そんな事する訳ないだろう」

「特定作業までやっといてそりゃ無いですよ。別にチクリはしません。俺も最後まで付き合わせて下さい」

「何っ! バカを言うな。君たちの身にもしものことがあれば、俺はクビだぞ」

「でしょうね。ですから、私たちは鉄道研究部の活動の一環として、飛鳥山に向かいます」

 大杉は呆れ返った顔で3人を見ている。ふと、後ろでガサゴソと音をしているので振り向いたら、夕たちがヘルメットや木刀を準備していた。

「おい、こら。君たちは何をしている」

「討ち入りの準備です」

 大杉はくらりとなり倒れそうになったが、なんとかダウンせず学生たちを見渡した。

「揃いも揃って、義務教育を修了した大和男児と撫子が、何バカな真似をしてるんだ。赤穂浪士にでもなったつもりか!」

「学生に対して浪人呼ばわりはひどいですよ。3年生もいるんですよ」

 木下はすでに折りたたみヘルメットをかぶっていた。

「黙らっしゃい。大体君たちは、敵の場所を知っただけで、敵の兵力は分かってないじゃないか。人数は? 組織的・政治的背景の有無は? 武器は? 何にも分かってないじゃないか」

 周りの人間は、そう言われると俯くしかない。木下や夕は前回の討ち入りがあったから、つい簡単に動いてしまったが、考えてみれば相手の人数すら不明である。

「では、このまま泣き寝入りですか?」

「通報するにしても、これで警察は動いてくれるのかな…」

 先程まで希望に溢れていた彩香や由衣の顔は暗くなる。

 大杉教諭は腕時計を確認する。

「堺くん、松下くん。俺は今から飛鳥山に向かう」

「ええっ!!」

 学生たちは驚きを隠せない。たった今木下や夕の軽挙妄動を諌めたばかりではないか。

「行くだけだ。“敵を知り、己を知れば百戦危うからず“と孫子にある。数千年経っても通用する兵法の極意だ」

「それで?」

「敵情視察だ」

 夕や鉄道研究部員は大杉に詰め寄った。

「先生!それでは、泣き寝入りや、警察ではなく……」

 大杉は室内の学生を見渡した。

「私の生徒が薄汚い犯罪者共の毒牙にかけられているんだ。動かなきゃ教師じゃねえ。恐れ多くも堅気の衆に対して、請求と迷惑電話を安全圏から飛ばすだけの下衆共に、この世の地獄を見せてやる。だが、下手に動くとこちらが死ぬ。奴らはプロだ。もし極道だったら……」

 極道、というワードが出ると、流石に学生たちも自分が戦おうと言う相手の恐ろしさが実感させられる。

「だからそれを確かめる。そして相手の根城と人数、装備がわかったら……」

「……どうするんですか」

「俺が乗り込む。だが、君たちは入るな。拳銃やドスが飛んできて血の雨が降る可能性は十二分にある」

 松本や木下は大杉の肩を掴んだ。

「でも、先生にだって奥さんがいるじゃないですか!」

 大杉教諭は微笑みを浮かべながら2人の手を肩から退かす。

「妻には常日頃、ことと次第によっては生徒の為に命を捨てると言ってある。この学園に教師として入った時から、妻に宛てた遺言状は家の引き出しにしまってあるんだ。生命保険も入っている。気にするな」

「せ、先生……」

「堺くん。敵の拠点に斬り込む時、松下くんには携帯を掲げてもらう。自分がターゲットにしていた相手に、逆に来られたと言う恐怖と絶望を、クソ野郎の足りない脳みそにしっかりわからせてやる必要がある。危険な役割だ。いざとなったら、君が身を挺して松下くんを守れ」

「もちろんです。傷ひとつつけません」

 彩香は、由衣にハンカチを差し出した。由衣は受け取ると、溢れ出る涙を拭き続けた。

「前はタオルを投げ渡したけど、今度はハンカチになっちゃった」

 由衣は、初めて見た彩香のライブを思い出し、泣きながらも吹き出した。あのタオルは今でも由衣の部屋のタンスの奥に大切にしまってある。

「大杉先生!」

 扉が大きく開いて、東雲菜乃葉が入ってきた。部活を抜けてきたのか、胴着姿である。額には汗が浮かんでいた。

「詐欺集団の拠点に討ち入りするなんて、正気ですか」

「おう、東雲くんか。今日は下見だ。敵を知らなければ」

 東雲はそれを聞いて、ふう、と、ため息をついた。

「それを聞いて少し安心しました。では、決行は明日以降?」

「そうなんだがな、可能ならついてきてくれんか。万が一の保険が欲しい」

 東雲は苦笑いしながら、着替えてきますと言って道場に戻っていく。

「徳井くん。視察は最低限の人数で行きたい。飛鳥山の停留所に行ったのは林くんだな」

 大杉に言われ、徳井はすかさず

「はい。そうです。連れて行きますか」

「できれば。林くん。きてくれるか」

 林は笑顔で頷いた。



5.


 森本夕は部室の中にあった私服を着させられ、制服では無い姿で京浜東北線の下りに乗っていた。ベージュのハンチング帽子と色眼鏡で素顔を隠し、薄いジャンパーにジーンズ姿だった。4月上旬で、少し肌寒い日が続くが、晴天の午後の都内ならば全く問題ない。

 東雲も私服になっていた。白いTシャツの上に黒のジャケットを羽織り、スラックス姿で、長めの髪はおろしていた。凛とした佇まいは周囲から視線を集めている。竹刀袋さえ持っていなければ、ぱっと見キャリアウーマンのような出立である。

 林は日野出学園の制服のままで、首にはNikonの一眼レフをぶら下げている。側から見ると写真部員か撮り鉄にしか見えない。

 大杉教諭はスーツから革ジャンに着替えてサングラスをかけ、金髪のウィッグを被り、メリケンサックを指につけていた。明らかに怪しい人物である。東雲とは違い、こちらはこちらで視線を集めていた。

「森本くん。王子で降りるが、少し歩くよ。大丈夫だとは思うが」

 その姿で話しかけないで欲しい。周りの乗客がヒソヒソ話をしている。「あんな子がねぇ」と言うおばさんの声がして、夕は顔を真っ赤に染めた。 

「王子から飛鳥山の小径を登って、飛鳥山公園を通過していくぞ。例の都電荒川線に乗って当該踏切に行くのもいいんだが、敵の拠点に近すぎる。普段降りてこないような連中がいきなり電車からゾロゾロ出てきたら怪しまれるかも知れない」

「なんだ、荒川線乗らないのか」

 林はつまらなそうに窓の外を眺めた。

「でも、4人が歩いてたら同じことじゃ?」

 東雲の問いに、大杉は手のメリケンアックをクルクル回しながら答える。

「だから君にも来てもらった。森本くんと2人1組になって探してくれ。俺と林くんも2人1組でアパートを探す。飛鳥山停車場踏切から近い所にある、鉄製の階段のアパートがいくつあるかなんてわからん。候補になりそうな建物があったら逐一ラインで報告しなさい」

 場所の事を言う時に、大杉は声を小さくした。口元まで隠している。私たちは敵の拠点の最寄りに向かっているんだぞ、と、大杉教諭は仕草一つで訴えかけていた。

 京浜東北線の車両は王子駅に着いた。ホームに降り立つと、夕たちの乗ってきた埼玉方面の進行方向から見て右手に商業施設や川、そして路面電車のホームが目に入った。

「あれが都電荒川線の王子駅前駅で、俺たちの後ろにある高台が飛鳥山だよ」

 林が夕にそれぞれを指差しながら教えてくれた。

「あの荒川線は、俺たちが乗ってきた京浜東北の進行方向に少し進むと、この飛鳥山に沿って走っていく。そこが飛鳥山駅だ。そこから瀧野川方面に進んで、早稲田にまで向かっていく。毎日6分間隔で走行してるんだ」

「踏切は、この山の向こうですか」

「うん…正確には、そこから道路を挟んで住宅街に入った場所にある」

「住宅街……」

 夕は握った拳に汗が滲んでいるのを自覚した。近いのだ、と何となく感じている。

「2人とも。早くいくぞ。春とはいえ、日が暮れてしまう」

 夕は謝りながら南口の改札に走った。

 

 改札を降りた一行は、京浜東北線の線路上にある歩道橋を渡っていた。目の前の山道に階段がある。

「飛鳥の小径っていう、紫陽花の名所だ。次は梅雨時に来たらいい」

 だから死ぬなよ、と、夕は大杉に言われている気がした。

 そこを登ると一気に周りがひらけて、親子連れがたくさんいる賑やかな公園が目の前に出てきた。

 桜の木が公園のそこかしこに植えられていて、地面が桜花で薄紅色に染まっていた。

「今年は開花が遅かったが、流石に葉桜になってきたな。夕くん、ここは初めてかい」

 大杉はスマホを取り出して、公園の風景を写真に撮りつつ夕に訊いた。

「はい、初めてです。かなり大きな公園ですね」

「おう。東京の桜の名所の一つ、飛鳥山公園だよ。渋沢栄一ゆかりの地でもあるし、古墳まである。そうか、今度歴研で来ようかな……ちょっとこっちへきてくれ」

 坂を降り、小さなじゃぶじゃぶ池を横目にいくと、車の往来が激しい通りに面してくる。丁度都電が目の前を走り去っていく所だった。

 走行する車が無理な車線変更をしていたので、警笛が鳴らされる。電話や動画投稿サイトのそれと同じである。その様子を林は苦虫を噛み潰したような顔で見ていた。都電の走行の邪魔しやがって。事故が起きたらどうすんだ、と小さくつぶやいていた。

「歩道橋、写真撮ってる人がいますね」

「ああ、撮り鉄だな」

 林が望遠レンズで歩道橋の様子を確認していた。「俺も行きたいな」とぼやく。夕は申し訳なくなって、ペコリと頭を下げるしかない。

「……しかし、車通りがかなり多いですね」

 夕は先ほどから目の前の広い車道を見て感嘆している。大杉はその言葉を聞き漏らさなかった。

「ああ。目の前の道は国道122号線だ。そこを都電も走っている。都道455号線も接しているね。明治通りともいうから、覚えておいて損はないよ」

「明治通り!それじゃ車も多いわけですね」

 夕たち一行は、そんな話をしながら国道を渡り、住宅街に入った。

「いいか。今回は敵と戦うわけじゃない。あくまで調査だ。不審がられないように、飛鳥山や都電が珍しくって見物しているお登りさんになりきれ」

 大杉は夕と東雲に改めて言い聞かせる。しかし、夕はどの口が言ってるんだと突っ込みたくてたまらなかった。林はいい。普通の制服に一眼レフで鉄道を撮影してるふりをしていれば、鉄道マニアが放課後撮影にきたんだろうと思える。大杉の黒の革ジャンに金髪サングラスにメリケンサックはいかついし、目立つ。

「俺と林くんは線路の反対側をいくからな」

 大杉は夕の突っ込みを待たず、スタコラ行ってしまった。

 残された夕と東雲は、ポツネンと立ちっぱなしになっているわけにもいかず、仕方なく踏切まで歩き始める。

 そういえば、東雲と2人きりになるのは初めてだった。まだ会って数日しか経っていない先輩と初めての街を歩くのは、かなりの緊張感を伴う。しかも、この近くの建物のどこかには、犯罪者の拠点があるのだ。夕は先ほどから汗が止まらなかった。

「森本さん、緊張してる?」

「あ、すみません」

「いいよ。こんなの誰だって怖いって。いきなり知り合って数日の先輩と2人きりで詐欺業者のアジトを探せって、私が森本さんの立場なら辞退してる」

 夕は、東雲が先輩後輩についての緊張も慮ってくれていたことに安心感を覚える。

「何で森本さんは来たの? 実は格闘や喧嘩の場数を踏んでいたとか?」

 東雲は、言いながら「違うな」と夕の体を見て感じているようだった。実際そうだ。夕は口喧嘩をしたくらいで、殴り合いの喧嘩はもちろん、格闘技すらやった試しがない。また、中学時代は文化部だったので、運動はからっきしである。「女の細腕」という言葉があるが、実際細い腕だ。木刀を満足に振ることすらできない。

「実は私、大杉先生があの時競艇をやっていたので、怒って退会しようとしていたんです」

「ええっ!? そうだったの?」

「はい。でも、そんな時に酒井先輩と松下さんが来て、あの詐欺業者との電話を聞いちゃったんです」

 東雲は、学園を出発する際にその録音を聞かされていた。

「そうしたら、放って置けなくって。しかも大杉先生は動きそうにないから、動かそうと焚き付けたんですよね。やった以上、責任は取りたいんです」

 夕は手をぎゅっと握り締めながらしっかりと前を向いて話した。

 東雲は微笑みを浮かべ、夕の肩に手を置く。

「無理しなさんな。一年生なんだから、私や先生を頼りなさい」

 東雲と夕は踏切の前に立つ。丁度都電が飛鳥山方面へ走ってくるところで、一両しかない車両は一瞬で2人の前を通り過ぎた。

「なるほど。踏切や電車の通過音はあの電話の音と全く同じね」

「はい。鉄道研究部の皆さんはすぐわかってしまったんです。すごいですよね」

「あの3人があまりに優秀すぎて、鉄道研究会に入るのをやめた鉄オタがうちのクラスにもいたんだよね。ま、凄すぎるのも考えものってことか」

 東雲は、踏切の周りを見渡す。アパートやマンションを探しているのだ。

 夕も周りを見る。電話の音からして、そこまで離れてはいないはずだと思われた。

「大杉先生と林先輩は、向こう側行ったよね」

「ええ」

 向こう側、すなわち、王子駅前駅への進行方向右手側の住宅街である。

「それじゃ、多分目標はそっちね」

「何でそう思うんですか?」

「大杉先生は不良教師なんだけど、本当に生徒に怪我とかはさせたくないのよ。だから、私達にわざとこっち側を探させてるんだと思う。1年生と2年生の女子生徒だけを危険地帯でほっつき歩かせるほど、あの先生は無神経じゃないってこと」

「……向こうには林先輩がいますよね」

「多分、林先輩はあらかたの目星がついているんだと思う。大杉先生はそこまでの道案内を頼んだんだよ、きっと」

 夕は、自然と足が前に出た。

「こっちを探すんじゃないの?」

「今のお話を聞いたら、行かずにいられませんよ」

 夕と東雲は、早足で線路を渡る。東雲は竹刀の袋を解いていた。中には黒いものが入っている。

「竹刀の持ち手って、白くないでしたっけ」

「あら、これ竹刀じゃないよ。木刀だもん」

「ぼ、木刀」

「打ちどころが悪かったら死んじゃうから。できれば使わずに済ませたいところだわ」

 夕の心臓が縮み上がる。自分が大杉を焚きつけた結果、この閑静な住宅街に血の雨が降る事になる……覚悟はできているなどと思っていたが、実際に起こる可能性が浮上すると震えが起きた。

「あの、今日はあくまで下見でして」

「はいはい。見つからないようにすれば大丈夫だから……」

 東雲は言いかけて、前方を見ると、すぐに夕を電柱の影に追いやって自分も隠れた。

 夕はその方向を見ると、大杉の扮装姿に気づいた。スマホをいじっているが、何度か右の方をチラチラと見ていたので、スマホ操作はフェイクなんだと予想できた。林はいない。

 一体どこに行ったのかと思ってくると、林がブロック塀の死角から出てきて、大杉に耳打ちしてきた。大杉は頷くと、林のきた方向へ2人で歩いて行った。

「見つけたみたいね」

 東雲と夕は2人の後をつけて行った。

 ブロック塀を曲がると、大杉と林が電柱の影にいた。

 ふと、夕はその前方を見た。そこには古い木造アパートが住宅地に溶け込んでいる。階段が茶色い鉄製で、築数十年は経過していると素人目にもわかった。

 ドアのある廊下は線路に面していた。

「あそこが……」

 由衣を苦しめている元凶か。夕は握り拳をプルプルと震わせていた。

 その拳に、そっと優しく手が添えられた。豆がいくつもできていたり潰れていたりする、ゴワゴワとしているのに優しさのこもった手。夕は思わず手の主を見遣った。

「これは、怖くて震えていたんじゃありません」

「……怖さを感じるのは、別に恥じゃないんだけどな」

 手の主である東雲は呆れた顔で言う。「怒りで震えてるのは顔見ればわかるよ」

 夕はそう言われて、初めて自分が東雲を睨みつけていたのを自覚した。

「し、失礼しました」

「その怒りは決行の時までしまっておきなさい。私だって、できれば殴り込みしたいんだから」

 東雲はにっこりとした顔をしているが、木刀を持った手の甲を見るとビキビキと血管が浮き出ており、小刻みに震えていた。

 林は、そんな2人のやりとりなど知らずアパートの全景や窓、階段、入口、ドアの数、郵便受け、周りの家々を写真に撮っていた。場所によってはレンズがヌ〜ッと伸ばされている。よほどの望遠で撮影しているのだろう。

「気づかれちゃったら終わりよ。早く切り上げてくれないかな」

 東雲の焦りは大杉も同じようで、他人のふりをしてタバコなど吹かしているが、顔の向きは林に向いている。タバコで気持ちを落ち着かせようとしているらしいが、フィルターギリギリまで吸ってしまい、仕方なく携帯灰皿に入れている。それを2度3度と繰り返していた中、2階のドアが開いて男が出てくる。

 林と大杉は大急ぎで建物から視線を逸らした。林はスマホで道に迷った学生のような演技をしている。案外うまいと思えた。大杉は、アパートを背に歩きながらタバコに火をつけていた。通行人を装ったのである。

 森本夕は、東雲と一緒に塀の影に隠れたが、かろうじてアパートが見えるようにスマホを立ち上げ、動画モードにした。

 2階の男は、室内の方に一言二言話すと、ドアを閉じて降りてきた。鉄製の階段の音が微かに夕たちの方まで聞こえてくる。しっかりと録音しなければ。夕は手で滑らないように、スマホを持つ指に力を込めた。

 男は茶髪で前髪の長い、ヤンキー風ではあったが、それにしては細かった。カバンの中に手に持っていた通帳を入れて、階段から降りると夕たちの方へきた。

 夕は慌ててスマホを引っ込めたが、2人でただなんの目的もなく佇んでいては明らかに怪しまれる。どうしようかと夕は無言ですがるような目を東雲に向けた。しかし、東雲も冷や汗が浮かんでいる。剣の試合と現実の犯罪者(と思われる)との邂逅は当然ながら全く違う。

 そんな東雲を見て、夕は大きく深呼吸をした。そして

「お姉ちゃん、飛鳥山女学園ってここじゃないんじゃないの?」

 と、ややわざとらしく言ってしまった。ちなみにスマホはまだ録画したままだ。

「え? ……ええ!そうね、線路沿いだって言われてたけど。おっかしいな〜」

 東雲もスマホを取り出し、地図アプリを起動した。

「ほら、私たちは今ここでしょ。で、学校は……あれ、これは通り過ぎたのかな」

 男は線路側に歩いてくる。もはや夕と東雲は完全に視界に入っていた。東雲の出立に、男は口笛を吹いて通り過ぎた。下手なだけではなく、品性のカケラもない口笛であった。

「……先輩、どうしましょ」

 夕は可能な限りの小声で東雲に訊いた。

「お芝居続けよう。まだ近すぎる」

 男は踏切の遮断機が下がっていたので立ち止まり、携帯を取り出していた。路面電車が通り過ぎて踏切が開くと、そのまま通話をしながら歩き出した。

 夕は、スマホのビデオ機能のありがたみを今ほど痛感したことはない。

 離れてはいたが、スマホには男の声がしっかりと記録されたのである。

「……見つけたわね」

「はい。聞き間違えるわけがありません。あれは、電話口の男です」

「追いかけるわよ。見つからないように……」

「君たち!何しているんだ!」

 背後からいきなり小さくも鋭い声がしたので、2人は慌てて振り向いた。東雲は木刀に手をかけ、夕の盾になるよう彼女の前に回り込んだ。もしや、賊か。

 しかし、そこにいたのは、大杉と林の両名だった。

「君たちは線路の向こう側を割り振ったはずだ」

「だから先生はこっち側に目星をつけたんだろうと思ったんですよ」

「忌々しい勘だな。まあいい。今は男を追うぞ。4人は目立つ。森本くんと林くんは踏切を渡ったら線路沿いの細道を歩いて都道に出ろ。あいつは通帳を持って出て行った。間違いなく銀行に記帳に行ったんだ。由衣くんではない、誰か別の被害者から巻き上げた金の確認のためだ。飛鳥山をこえた王子駅の北口界隈まで行くつもりだろう」

 大杉は東雲と男を追いかけていく。夕は、仕方なく林の後についていった。ここは通行していいのか? と思うような細道だったが、林は悠々と歩いていく。

 一度、夕の真横を電車が通り過ぎていった。轟音で冷や汗が湧き出る。

 林などはそんな目の前の都電通過も嬉しいようで、「ウハっ」と叫んでいた。

 夕たちが都道に出ると、今さっき夕の真横を通過して行った都電も道路を左折しようとしていた。夕は路面電車を見るのが初めてである。こんな自分の真横を、国道の上を電車が通る光景は新鮮だった。空には都電のための電線が張り巡らされている。

 目の前には飛鳥山公園、歩道を渡った先に交番があった。

「あの交番にお世話になるでしょうか」

「さあ。ま、大将に任せておけばいいさ。ところでホシはどこだろうな」

 ホシとは警察官みたいな言い方だな、と夕は周りを見渡す。

 その時、夕は息を飲み、ゆっくりと顔を正面に戻した。

 林は何となく察したようで、こっそり後ろを指差した。夕は顔面蒼白になりながら頷いた。

 夕たちの真後ろに、先程の通帳を持った男が立っていたのである。

 林はスマホの電源を入れて、ビデオモードにしたと思うと、録画を開始した。それをブレザータイプの制服胸ポケットに入れた。レンズ部分が露出している。夕もやろうとしたが、今彼女の羽織っているジャンパーには胸ポケットがなかった。仕方なく右側のポケットに録画した状態で押し込む。

 夕はチラ、と“ホシ“より後方を見てみる。既に大杉と東雲は追い付いていて、夕たちの様子を鬼気迫った眼で見つめていた。安全圏に置こうとしていたのに、まさか夕が一番敵に近い場所に来てしまったなんて、と、悔しさが大杉の震える肩からにじみ出ているようだった。東雲は木刀の入った袋を既に肩から下ろしていた。敵がもし夕や林に危害を加えたら、一刀の元に捩じ伏せる気満々である。

「あれ、さっきの女の子じゃん」

 夕は声にならない声をあげる。間違いなく真後ろに立つ男の声だった。

 真近で聞いて確信した。由衣の電話口にいたあの男である。夕には彩香ほどの神がかった耳は持ち合わせていないが、あの声は忘れようにも無理だ。

「へ? 私ですか?」

 夕は声が裏返るのを恐れて、やや小声になりながらも返答した。返事をせず無視するのも不自然だと思ったからだ。

「連れのお姉ちゃんとはぐれちゃったのかな〜? 何なら俺が案内してやってもいいんだぜ。俺この辺長いから」

 茶髪は、夕の肩にいきなり手をかける。その辺の繁華街のキャッチですらやらない行為だ。大声を上げられたり、実は武道の心得があって放り投げられるリスクを想定してすらいない。頭が悪いのか、それとも夕の身体的特徴から反撃の恐れなしと判断されたのかどちらかである。

「この子は、もう用が済んだから帰るところです。失礼します」

 林が、先輩として、男として助け舟を出した。正直今まで喧嘩とは無縁な、しかも不良と呼ばれるような人物と渡り合った経験すらない彼にとって、この一言を口に出すのも清水の舞台から飛び降りるような覚悟が必要だった。

「ああ?」

 今まで二枚重ねのティッシュペーパーを剥がして一枚にした状態のような薄っぺらい声だった男は、突然ドスのきいた野太い声に変わった。指をポキポキと鳴らしてすらいる。

「てめえに関係ねえだろ。てか誰だよ。鉄オタか? 黙って電車でも撮ってろよ」

 夕に気づいた事と言い、林を鉄道オタクと見定めた点と言い、案外観察眼があるらしい。これは迂闊にボロを出せない。夕の心拍数は上昇していく。

「こ、この人は、義理の兄です!!

 夕は林の腕にぎゅっと抱きついた。林は女の子の手を握った経験すら一度しかない。その一度目すら、林間学園のキャンプファイアーで踊らされたフォークダンスでの経験である。そんな彼の腕にいきなり後輩の女子が抱きついたのだから、林の心臓は飛び出しそうだった。

「は?義理の兄?」

 どー言う事だよと言いそうになったところで、周りの目線に気がついたようで、男はそれ以上言わなかった。この交差点は都電と国道が走っているだけではなく、都電の停留所からも王寺駅からも近く、さらに桜の季節の飛鳥山だから、行楽客、公園へ遊びに来た家族連れで人通りは多い。

「あ、あまり義兄に失礼な事を言うようでしたら、交番に駆け込みます!!」

 夕はビシッと道路の向こう側にある飛鳥山公園入り口の交番を指差した。駐在している警官の姿が、少なくとも2名確認できる。

 警察沙汰は、この男にとって最も避けなければならない事態だ。丁度信号が青になったので、男は慌てて渡り出した。

 東雲は、大杉の後ろに咄嗟に隠れた。もし振り向いてきたときに相手の目に入ったら、明らかにおかしいからだ。なぜさっきの今で別行動をとっていたのかと向こうに疑問を抱かれては敵わない。

 実際、男は一度だけ横断歩道上で夕たちに振り向いた。そして中指を立てて最後っぺをかましながら歩いて行った。

「夕くん、よくやってくれた。林くんも、よくぞ夕くんを助けてくれた。東雲くんと共に、公園のお茶屋さんで休んでいなさい」

 大杉教諭は2人に満面の笑みで労いの言葉をかけると、点滅が始まった歩行者用信号を脱兎の如く渡っていった。

 夕はその場にへたり込みそうになったのを、東雲に抱えられた。

「よくやったわ。さすが私の後輩。歴研入会2日目にしてここまで活躍できた会員は貴女が初めてよ」

 当たり前だ、と夕は震える足で何とか体を支えながらツッコミを入れたかった。高校生でこのような体験を何度もしてたまるか。

「林先輩も、ありがとうございます。本来なら私が森本を助けなければならないのに。私の不徳です。申し訳ありませんでした」

 林はまたしても慌てた。今日は一体どういう日なのだろうかと思わずにいられない。学園の中でも特に美少女と誉れ高い堺彩香のみならず、“剣豪“と称されるクール&ビューティーを地で行くような高等部の「強き宝石」、東雲菜乃葉からまで頭を下げられる日がくるとは。しかも部長や副部長にすらなれず、ただの鉄オタでしかない自分の名前をちゃんと知っている。林にとって今日ほど女性にありがたがられる日はなかった。

「ほら、貴女もお礼言いなさい」

「あ、はい…」

「しゃんと立てぃ!!」

「はいいいい!!」

 夕はいきなり発せられた東雲の怒声に思わず屹立した。剣道部の次期部長候補とまで言われているわけだから、当然声の張りも相当なものだった。夕などこの気合いだけで尻餅がついて試合にもならないだろう。

 屹立し、全身の筋肉が硬直したように不動になったが、すぐに我に帰ることができたのは、一瞬なれど修羅場をくぐれたからであろう。

「あの、助け舟を出してくださってありがとうございます。それに義理の兄なんて言って……あ……」

 そう言って、夕は先程の己がやった行為を思い起こした。

 林の腕にぎゅっと抱きついただけでなく、胸もしっかり彼の腕に当たっていたことをようやく自覚した。

「ひゃ、あああああ」

 夕は赤面してその場にしゃがみ込んだ。林も真っ赤になっている。

「この子もずいぶんうぶですね」

 東雲はやれやれと呆れ顔で、夕を抱え上げる。

「林先輩や森本にもしものことがあったら、大杉先生は学校を辞めるつもりでした。私も剣を置いたかもしれません。お2人が無事で、本当によかった」

「俺なんかどうだっていいよ。ってか、俺の方こそ森本さんに逆に守ってもらっちゃったし」

 夕にはそんなつもりはなかった。ただこの窮地を脱したい一心でしかない。

「男の人が、自分をあまり卑下してはいけません。それより、大杉先生から五千円を頂戴しています」

 東雲はピラっと樋口一葉を2人に見せる。

「私は姿を見られていますから、現在は大杉先生が単独尾行中です。お言葉に甘えて、お茶屋さんで天丼でも頂いちゃいましょう」

 東雲は満面の笑みを浮かべている。食べ盛りなのは夕や林も一緒だった。緊張から解放されて空腹になった3名は、迷わず茶屋に向かって行った。



『菊花の巻』へつづく

 

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