私立日野出学園

中嶋條治

第1話 突入せよ!美術準備室事件


 私立日野出わたくしりつひのいずる学園は、都内の埋立地に作られた巨大な「学園都市」である。そう言う設定の学園漫画があったなと思った方はご明察の通りである。なにぶん、本家のような都市同然の機能を備えた学園に憧れていたものだから、私も一度書いて見たいと思い、今こうして執筆をしている。

 幼稚舎から初等部、中等部、高等部、大学・大学院までが同じ敷地内に存在し、そのほか寄宿舎、商店街や劇場、競技場、病院、郵便局、銀行、映画館など、文化的な生活に不自由のない生活ができる施設が全て揃っている。

 森本夕もりもとゆうは、そんな学園の高等部普通科に合格した。芸能科や様々な科が存在する中で、普通科は一番広い門ではあるが、この学園に入るために相当勉強したものだった。学園の広さや設備、歴史、実績など様々な点でこの学園は人気があったので、夕もよもや入れるとは思っていなかったが、無事に受験戦争を勝ち抜くことが出来た。

 今日は入学式である。夕は正装の両親と共に、着慣れぬ学園の制服に身を包み電車に乗っていた。同じような家族連れで電車の中は満員であった。

 夕は黒のショートカットで、少年の様な顔立ちでもあったせいか小さい頃は男子にも間違われた。高校生となった今では、短い髪は相変わらずだが、男性に比べて華奢な体躯で胸も少しずつ膨らみ始め、段々と身体が女性的になりつつあり、男性と間違われる事は皆無になっていた。

窓ガラスに写った顔を見ながら前髪を少し直している内に、電車が駅に到着する。

 最寄りの駅から学園の正門まではほぼ直線で、改札から既に緑豊かな学園の敷地が目に入る。5分ほど歩くと正門に辿り着く好立地である。

 問題は学園に入ってからだった。

 何しろ浦安にある某テーマパークより広い面積がある。どこが高等部でどこが中等部なのか、初めて来た人間はなかなかわからない。夕は受験の時に来て以来で、一応簡単な順路は分かっているはずであった。しかし、距離がありすぎるため、自分が今学園内のどこを歩いているのかいまいち判断できずにいた。

 そんな中、学園内の在校生であろう女生徒たちが、看板を持って新入生たちを誘導していた。

「はーい、高等部の新入生の皆様は、このまま直進してください!「高等部校舎」と言う建物に着いたら、記帳していただく場所があり、昇降口まで誘導いたします。このまま恐れず直進してください」

 恐れずに直進とはなかなかおっかないな、と夕は苦笑いしていたら、一緒にいた女生徒がツッコミを入れる。

「その言い方だと怖がっちゃうでしょ!」

「ああっ!すみません!新入生の皆さん、どうぞいらっしゃい。到着したら、体にクリームと塩を塗り込んで、昇降口では履き物と一緒に制服もおぬぎください」

「注文の多い料理店じゃねえかっ!!」

 コントで新入生の緊張をほぐそうという上級生の優しさなのだろうと、夕は解釈した。そうでないと非常識すぎる。

 コントにしてはリアルな鈍い打撃音を背中で聞きながら、夕は両親とともに言われた道を直進した。

 道の両側は桜並木になっており、現在は満開である。地面は舞い降りた花びらで桜色の絨毯が敷かれた様になっている。夕は、先ほどの風変わりな先輩諸氏だけでなく、学園の草木までも自分達新入生を歓迎してくれているような心持ちになった。咲き乱れた桜花のせいで空はほとんど見えない。花が7部に、青が3部だ。このおかげで、どこにどの建物があるのか目視確認できないと言う思わぬ副作用が起こってしまっていた。

「ああ、あそこだな」

 父がそう言って前方の建物を指さす。学校説明会や受験の時にも入った、高等部の校舎がそこにあった。中学まで首都圏の公立学校に通っていた夕からすると、目の前の施設は「校舎」と言うより、富豪が所有している様な白亜の洋館である。

 目の前にあるのは、基本的に高等部の全学年の教室が入っている南校舎である。日当たりが高等部の建物の中で最も良く、壁面は太陽の光を一身に受け、燦々と反射している。ずっと見ていると目を痛めそうだった。5階建ての校舎頂上部には6面のドームがそびえていた。その下に土台のように三角の切妻屋根があり、ペディメントの部分には古代ギリシャ風の装飾があしらわれ、中央に日野出学園高等部のエンブレムが春の陽気に照らされ、眩い輝きを放っていた。

 歴史ある私立校とはこう言う建物が至る所にあるのかと、夕は浮かれそうになる。

 高等部の敷地は3メートル以上の生垣が囲んでおり、正面の昇降口に続く門が全開になっている。高等部一年生とその両親が続々と入っていた。

 夕は昇降口の前に貼られている生徒名簿を見て、自分の割り振られたクラスを確認すると、早速教室まで行った。両親は先に会場に向かう。

 廊下は広く、清潔感があった。真新しい上履きに履き替えて歩くと、カツンと軽い音が廊下に響く。妙に心地のいい音だった。廊下にはさまざまな絵画やポスターが貼られていたが、新入生を勧誘したい部活や同好会の宣伝ポスターが壁の半分以上を覆っていた。熱の入れようが凄い。

 教室に入ると、夕は感激した。冷暖房が完備されている。さらに椅子がぐらつかない。机も落書きや傷が1つもなく、新品同様だった。夕は学校でこんなに綺麗な机を初めて見たせいで、思わず表面を触りそうになった。だが、触れそうになった途端、この机を汚したく無いと思い手を引っ込めたくもなる。

夕の中学校は冷暖房どころか、まともな椅子にさえ事欠いていた。如何に自分の生まれた市が教育予算をケチる自治体だったか痛感させられる。


 入学式は、高等部の敷地内にある体育館で行われた。15クラス500名の新入生とその保護者が用意されたパイプ椅子に座り、そこに教職員や来賓も加わると、体育館は簡単に満杯になる。体育館の壁面には紅白幕が飾られ、ステージには花と校旗が上下に安置されている、典型的な入学式だった。

 つつがなく式は終了し、各教室に新入生は改めて戻っていく。

「はい、皆さん。入学式お疲れ様でした」

 夕の教室、1年4組の担任である大杉正義は満面の笑みで新入生を労った。

 大杉の容姿は、担任の贔屓目を差し引いても決して悪くなかった。むしろ「イケメン」と呼ぶにふさわしいものだった。170〜175センチ程度の身長で足は長く、年齢は30代半ば。体の線も太くはないが、かといって華奢ではない。鼻筋は整い、目つきも温厚そうだが、タレ目ではないのでそこまで優しすぎな印象も感じさせない。かと言って吊り目ではないので、生徒に恐怖心を与えるような鋭い眼光のようなものはなかった。顔にはニキビや黒子のようなものがひとつもなく、清潔感が漂う。すでに何人かの女生徒は胸をときめかしているようだった。

「何人かは中等部でも見た事のある人が多いけど、高等部で初めて入った人を基準で話をするからね。皆さんそのつもりで」

 大杉はそう言いながら板書を進めていく。

「この日野出学園は、古くは江東区のあたりに戦前に作られた学園です。名前にあるように『日、出る国』の未来を背負う人材を育成するために作られました。戦後になってもその理念は変わらず、埋立地に移設されてもなお、政財界、学会、芸能界など様々な分野で卒業生は活躍しています。もっとも、私みたいに教師止まりな人間もいるんですけどね」

 クラス内はどっと湧いた。

「教師になんてなるつもりはなかったんだが、そんな人間ほど、いつの間にか教壇に立ってしまうものなんですね。皆さん気をつけましょう」

 大杉の自虐とも取れる話の後は、各々の自己紹介に移った。

「木下隼人です。こんな成りですが、れっきとした男です」

 木下と言うその生徒は、背中を覆い尽くすような茶色のロングヘアの先をつまみ上げながらカミングアウトした。

 夕は目を丸くした。髪型や女生用の制服のせいもあったが、幼さの残る童顔にクリっとした瞳は可愛らしさの集合体というべきで、身長も160センチほどで華奢な体躯をしていたものだから、女子だとしか思っていなかった。

 髪の艶は素晴らしく、LEDの光を反射して眩しいとすら思えてしまう。スカートから出ている両の脚はスラリと伸びてすね毛ひとつなく、美脚と言う言葉がふさわしいものだった。

 これで男だと言われた日には、明日からこのクラスの女子生徒は全員スラックスを履いてこなければならないだろう。

 胸の膨らみは、おそらくパッドであろうか。

「この学園は指定の制服はあるが、基本服装は自由です。男子が女子の制服を着ようが、女子が男子の制服を着ようが全く問題ない。木下くんは中等部時代にもたまに女装しては多くの男女を泣かせてきたもんだ」

 大杉の発言に、夕はさらに驚いた。中学と言う時期は非常に多感なもので、男装や女装というのは即いじめに発展するようなものである。そんな中で女装をしていたというのは、いじめがなかったか、もしくは完璧な着こなしで周囲の雑音をかき消していったのかどちらかである。

「一応恋愛対象は女性です。でも……似合っちゃうじゃないですか。だから気分が乗った日は女装してます」

 木下の発言は、事実だから嫌味にすら感じない。

「木下くんが女性だと思ってて告白した男子もいたんだよね」

 大杉は、木下に対してかなり手こずったのか、過去の激戦を語る老兵のように遠い目をしてしゃべっていた。

「ええ。でもね、男だとわかってて告白してくれた奴もいましたよ。丁重に断りましたけど」

「とまあ、このクラスには魔性の男がいるから、皆さん誘惑されないように」

 大杉は話がこれ以上広がるのを恐れてか、すぐに先を進めた。森本夕も自己紹介をしたが、木下のあとだとインパクトが小さすぎるから非常にやりにくい。

「あの…」

 自己紹介を終えたあと、夕はこっそり前の席に座る木下に尋ねた。

「その髪は、地毛?」

 あわよくばどんなメーカーのシャンプーなどを使っているのか聞いてみたいと思ったのだが、その期待は見事に崩れ去った。

「ごめん、これかつらなんだ」



翌日は入学後のガイダンスで一日が終わった。放課後になると、森本夕は早速始まっている部活動の見学に行くことにしていた。

「あ、森本さん」

 級友の松下が尋ねてきた。

「あの、大杉先生が顧問をやってる歴史研究同好会って興味ない?」

 夕は一応存在だけ知っていた。社会科教師である大杉は、学園に教師として採用された年に歴研を立ち上げ顧問となり、それから10年以上歴史研究同好会を根城にしていると噂で聞いたのである。あの清廉そうな教師に対して「根城」とはひどいと思ったが、少し興味があるのは事実だった。

「まあ、歴史は嫌いじゃないけど」

「ごめん!この日誌と、日直報告、お願いできない?見学のついでって事で!軽音部の新歓ライブ、もうそろそろ始まっちゃうの。明日購買の苺大福奢るから!!」

「苺大福!?」

 夕は苺大福が好物だから、非常に魅力的なお願いだと思われる。が、苺大福は普通の大福より三十円は高い。高校生にとってこの数十円の差は大きかった。

「大丈夫なの?」

「だって、新歓ライブならタダで聴けるのよ。堺彩香お姉様のライブがタダで!!もう、それなら苺大福ぐらいどうってことないの」

 堺某と言う人物は全く知らないが、どうやらこの学園の高等部の間では有名人らしい。夕は羨ましいなと思った。そんなに夢中になれる「推し」を、彼女はまだ見つけることができていない。

「いいよ。持ってったげる」

「きゃーー!ありがとうゆうちゃん!」

 松下は夕にぎゅっと抱きつくと、日誌を渡して脱兎の如く教室を飛び出した。

「こら、廊下は走るな!」と、教職員の注意する声が廊下にこだまする。

 若さゆえの暴走は多めに見てほしい。夕は自分に暴走する勇気がないからか、好きなものに向かって暴走できる松下を擁護したくなった。


大杉教諭が顧問を務める歴史研究同好会は、文化部の部室が多い北校舎1階の一番端にあった。日当たりの悪い場所で、廊下の蛍光灯があっても天井が高く薄暗い。夜に一人で歩くのだけは避けたい場所だった。

「失礼します」

 森本夕は“歴史研究同好会“と毛筆で書かれた貼り紙のある教室のドアをノックして入室した。

大杉教諭はパイプを咥えながら戦艦大和のプラモ作りに熱中している最中だった。

パイプからは煙が立ち上っておらず、おそらくただ咥えているだけのように思われた。

「安心して。先生は吸っていないから」

 夕が大杉に怪訝そうな顔を向けていると思ったのか、学園2年生の東雲菜乃葉が駆け寄って耳打ちした。

「あ、いえ、そんな」

 夕は東雲に頭を下げた。ふと室内を見ると、木下を含め3名の会員が本を読んだり資料作成のような作業を行なっていた。木下は正式な男子制服に身を包んでおり、カツラも外していた。艶やかな黒髪で、前髪は長めだった。たまに前髪をかき上げる仕草が妙に色っぽく、女性や衆道の気のある者は勿論、ストレートの男性をも魅了しそうであった。

「大杉先生も、昔は憚ることなくこの部室で吸っていたみたいなんだけど、流石に時代が許さなくなってきちゃったみたいで。僕からすれば大助かりなんだけど」

 木下は夕と東雲の会話が聞こえたのか、割って入ってきた。

 夕としても、禁煙は助かる。だが、もっと突っ込みたい点があった。

 何故教師が部室で戦艦大和を作っているのか?と言うことである。歴史研究同好会ということで、先の大戦で沈んだ大和の模型を製作しているというのだろうか。

「あの戦艦は同好会の展示物ですか?」

「ああ、あれは先生の私物。家では作る時間が取れないからこっちでやってるんだって。もう半年はあんな調子」

 とんでもない不良教師じゃないか。夕は突っ込みが出そうになるのをグッと堪えた。

 部室の周りを見渡すと、映画やミリタリー関連のポスター、戦艦や戦車のフィギュア、モデルガン、模造刀、様々な木刀、新撰組の羽織などが目に入る。歴史研究同好会と言うよりは、どちらかというと歴史マニアの部屋である。ヘルメットを被り、角材を持ったマネキンまで置いてある。地味な色のトレーナーとジーンズを見ても、動きやすそうではある。ヘルメットの表面には「全共闘」と書かれており、ひょっとして、昔の学生運動の服装の再現なのかな、と思った。首にはゴーグルがかかっており、タオルで鼻と口を覆っている。これらは同好会のものなのか、それとも大杉の私物なのか、聞くのは憚られた。

 危険な匂いが漂っている。もしかしたらとんでもない左翼教師で、過激派と繋がっているんじゃないかとあらぬ想像を働かせてしまう。人気のない場所に部室を構えているのも、非合法活動をバレにくくするためではないのだろうか……。歴史ある学園だからこそ、その伝統が脈々と受け継がれていたとしたら。夕は自分の心臓の鼓動が早まるのを強く感じる。心音がこの場の人間にバレやしないかとあらぬ心配をするくらいだった。

「同好会でも部室はあるんですね」

 怖がっているのを悟られないように、あたり障りのない話をして誤魔化そうとした。

「そうよ。予算は少ないけど。それに、元々はここは物置同然の空き教室だったみたい。北校舎一階で日当たりが最悪だし、窓の外には池があるけれど、夏にはボウフラが孵化して蚊が多いし、誰も使いたくなかったみたい。でも先生は、案外広くて換気扇も付いていたから迷わずここに決めたらしいわ」

「なんで換気扇がついているのがいいんですか?」

 爆薬作りに適しているのだろうか。

「タバコを吸う時に換気扇をつけるためよ」

 テロリズムが理由ではなかったのは安心した。しかし、どこまでも欲望に忠実な教師である。

「東雲くん、今は外の池のボウフラもだいぶ減ったよ。生物部に頼んで金魚や小鮒を住まわせてもらってるからね」

 大杉はパイプを咥えてプラモの部品に接着剤をつけながら話に割って入ってきた。

「金魚や小鮒がボウフラよけになるんですか?」

「そうだよ。あの子らボウフラを食べてくれるからね」

 大杉は目頭を押さえて休憩に入った。

「森本くん、入会希望かな」

「あ、いえ」

「そうか。まあウチは同好会だから、活動日時は特に決めてないよ。兼部もOKだし、棚にある映画のBDは見放題だ。気になったらいつでも入会していいよ」

「あ、はい。……実は、日直の日誌をお渡ししにきました」

 大杉は夕のもつ日誌を見るや否や、パイプを置いて夕に駆け寄った。

「日直は松下くんだったろ。なぜ君が持ってきたんだ。パシリにされたのか?」

 いじめと誤解している。夕は慌てて首を横に振った。苺大福と引き換えに持ってきたから、むしろありがたいと言ったら、大杉教諭は安心したように席に戻っていった。

「しかし、苺大福ねえ。そこまでしてライブに行きたかったのか」

「らしいです。有名なんですか?」

「堺彩香?まあそうだね。控えめに言ってスターだね。レコード会社の方も目をつけているし、youtubeの方も快調だし。調子に乗ってスキャンダルさえ起こさなけりゃ、順風満帆なアーティスト人生を歩めそうだ。私もキツく言ってはいるが…」

「先生!」

 大杉の話を遮って、夕の真後ろの扉が勢いよく開かれた。

「キャッ!!」

 背後で戸がいきなり開き大声がしたので、夕は飛び退いた。

「藤野!勢いよく扉を開くなって言ってるだろ!また外れたらどうするんだ!」

「すいません!大杉先生に至急報告しなければと思いまして!」

 夕は驚きのあまり尻餅をついたままだった。心臓の動悸も治らない。

東雲や木下は、夕の様を見かねてソファにまで抱えて運んでやった。

「あの人は……?」

息を切らして訊いてみる。

「藤野昌孝先輩。学園高等部3年生で、新聞部にも所属しているアグレッシブな人だよ」

木下がカバンから何やら紙を取り出して夕に見せた。日野出学園新聞部発行の新聞らしきものだった。『ソリス』と書かれてある。

「ソリスって、どう言う意味?」

「ラテン語で太陽の事らしいよ。背伸びしちゃってさ」

日野出学園の新聞だから太陽に関係していると言う事か。夕は徹底してるなぁと思いながら紙面を流し見した。


"緊急スクープ!学園忍池にUMAの目撃情報多数!ヒッシーは実在した!!"

"高等部の至宝、堺彩香に熱愛発覚⁉︎ 相手は誰だ!"

"学食闘争激化!ステーキ定食廃止に学生有志50名が署名活動実施。理事長に直訴も視野に"

"今月の一句 「花の雲 鐘は上野か浅草か 芭蕉"


東スポのようなUMA記事や低俗なゴシップが、学生新聞らしいと言える。ただ、学校生活に直結するであろう学食闘争よりも上に来ているのが不思議でならない。

ふと、夕は下の方の記事を見る。


"木下隼人、遂に高等部へ進級!絶世の美少年に独占取材敢行す!"


見出しの下には、木下の普段の写真と女装写真が一枚ずつ印刷されていた。

「これ、取材受けてるんだ」

「うん。だからもらった」

「ははあ。なるほど。でも何でヒッシーより学食の署名運動の記事が小さいの?学園で起きてる報道ならこちらの方が有意義と言うか…」

藤野はそれをしっかり聞いて、夕に詰め寄った。

「学生新聞はインパクトだよ!どうせヒッシーなんて誰も信じちゃいないさ。でもね、この学園の生徒は大体お祭り騒ぎが好きなんだ。UMA報道があればそれだけ日々の学園生活にも彩りが添えられて良いじゃないか。

大体、ステーキ闘争は去年から長きに渡り取材していて、特別扱いしてやってるんだ。載せてやってるだけありがたく思ってくれなきゃ」

木下が夕に耳打ちしてきた。

「藤野先輩はステーキ定食を食べ切れた試しが無いから、あのメニューに良い印象持ってないんだよ」

「聴こえてるぞ木下!」

暴れそうな若きブンヤの首根っこを、大杉教諭は軽く掴み、大和を制作しているデスクへ引き寄せた。

「何の用だ。トクダネでも仕入れたってのか」

 男子と女子で言葉遣いが明らかに異なる。夕や彼女のクラスの新入生には敬語やそこそこ丁寧な言葉遣いをするのに、まるで対照的である。

「幽霊ネタです」

 その場にいた全員が「幽霊」という言葉に反応した。ヒッシーに続いて幽霊とは。ここはムーの編集部かと疑いたくなる。UMAや心霊を信じる信じないはともかく、自分のいる学園に怪異の類が出没するというのは気分の良いものではない。特に夕はオカルトがそこまで好きではないから、早くも学園に入学したことを後悔しかけてしまっていた。

「幽霊だぁ?今時学園の七不思議っていうのは古いよ。この学園そのものは古いから、心霊現象など掃いて捨てるほどあるが、せめて夏場に書いたらどうなんだい。今は春真っ盛りだし、芭蕉の句まで載せてるじゃないか」

 流石に学園OBでもある大杉教諭は冷静だ。ただ、夕は「心霊現象など掃いて捨てるほどある」という台詞が妙に引っかかった。「幽霊話」や「噂話」なら又聞きであるが、心霊現象が多数あると学園OBが口にしたことが恐ろしいのである。あたかも実際に出くわしたかのような言い方だったのも夕が警戒感を強めた理由だった。

「目撃情報が多数寄せられてるんですけど」

「…実害は出ているのか」

「怪我とか神隠しのようなものでしたら、まだ。強いて言うなら怖い思いをしたという精神的苦痛……ですね」

 大杉はプラモの部品とニッパーを机に置いて、藤野の持つ資料を手にした。資料を見る大杉の表情は、教室で見せる担任としての顔や、プラモ作りに没頭している不良教師の顔とも違っている。

「今月に入って早くも5件だと?」

「はい。いずれも放課後で、場所は北校舎3階美術準備室です」

「この校舎か!」

 夕だけではなく、東雲や他の会員たちも慌てて天井を見上げた。この教室は1階にある。3階の美術準備室までは距離があるものの、気味の悪さは変わらなかった。

「先輩、それってどんな現象なんですか?」

 東雲が聞いてきたので、藤野は大杉から資料を一旦返してもらい順に話を始めた。


 事の起こりは4月3日。美術部員Aが春休み中の部活を終えて、18時ごろに備品を準備室に返却しに来た時だった。

 すると、どこからともなくうめき声が聞こえてきた。最初は演劇部やどこかの発声練習の類だと思っていた。しかし、実際この時学園内で演劇部は部活動をやっていたのだが、すでに稽古を終えて帰宅準備をしていた。この時のAは無論そんなことは知らず、「随分同じ発声を続けているな」と思っていた。しかし、すぐにある違和感に気づく。

 演劇部に友人がいるから知っていたのだが、演劇部の活動は基本的に部室のある西校舎で行う。その場所から美術部室まではかなりの距離があり、聞こえるはずがないのだ。仮に校庭や中庭で発声をしていたとしても、それもあり得なかった。

 声は明らかにこの部屋から聞こえている。

「…誰かいるの?」

 Aは声をかける。うめき声は一瞬止まった。しかしすぐに再び聞こえてきた。

 急病人で、倒れてしまいまともに喋れないのかもと思ったが、教室内は雑多であるものの、他に人間がいればすぐにわかるような状態である。

 そんな場所で、声はすれども姿は見えない。

「まさか…」

 幽霊、と思いかけて、すぐに頭を振った。馬鹿馬鹿しい。小学生じゃあるまいし…

 そう思い、Aは踵を返した。

 一旦部室を出たが、やはり気になる。しかし気味が悪くて戻る気にはなれなかった。すでに日は落ち、辺りは暗い。ただでさえ夜の校舎を歩くのは嫌なのだ。

 だが、一応もう一度見ておこうかと思い立った。人が倒れていたのであれば一大事である。あの場には人が倒れてなどいなかったと思うのだが、恐怖心がなかったといえば嘘になる。冷静な判断ができておらず、思わぬ見落としがあったかもしれない。

 そう思い立ち、美術準備室に向かった。その時、Aの顔から血の気が引いた。

 準備室のドアの窓に、青白い顔が浮かび上がっていて、その顔がAを睨み付けていたからだった。

 実際は曇りガラスなので目は見えていないのだが、窪んだ顔の影でおそらく目であろう部分が、自分を見ているように思えてならなかった。

 そして、再びあのうめき声が聞こえてくる。

 Aはその場から全力で逃げ出した。校門を出た辺りでようやく汗だくになった息を整えて、しばらくは動くことができなかった。

 自宅で靴を脱いだ時、Aは自分が上履きのままで帰っていたことに気が付いた。


「これが最初です。それ以降、どうせ信じてもらえないと思ったAは教職員はもちろん、部員にもこの事を言えなかったようです。しかし、他の部員も呻き声を聞いたと言うので、自分の体験は幻や白昼夢の類ではなかったと確信しました。

 部長にだけ話すと、部長は事態を重く見て一人準備室に行ったようです。そうしたら、数分後に顔面蒼白で出てきて、しばらくは物もまともに喋れない状態だったとか」

 藤野の話を聞いていて、森本夕の手のひらは冷汗で物も掴めなくなっていた。

 大杉はしばし資料に目を落としつつ、

「なぜ藤野くんがこの情報を知ったんだい?美術部員から聞いたのか?」

「ニュースソースは言えません」

「生意気言ってんじゃねえ!!」

 大杉教諭は、今までの温厚な姿からは想像もできないような怒鳴り声で藤野を恫喝した。資料を藤野に投げつけ、首根っこを掴む。

「マスコミの真似事してる場合じゃねえぞ。この学園で学生が被害に遭い、部活動に支障が出てる。立派な事件だ。一刻も早く解決しなけりゃいけないことくらいてめえにはわかんねえのか!」

「せ、先生」

 東雲が大杉の腕を掴むがびくともしなかった。

「え、Aですよ。A!」

「つまり誰だ」

「美術部の、2年生相川です」

 大杉教諭はようやく藤野を解放する。藤野は思い切り咳き込み、うずくまってしまう。大杉はしゃがんで、咳き込む藤野の背中をさすってやった。

「悪かった」

 自覚があるようだが、なかなかの問題行為である。

「なぜ教職員ではなく新聞部に言ったんだ…そこまで信用がないのか俺たちは」

「というか、信じてもらえないと思ったんですよ。その点、新聞部ならオカルト記事も載せますし?そこそこ情報通ですから何か知ってるかもしれないと思ったんだそうです」

 ちょっと水くれ、と藤野は木下に頼む。部室内の冷蔵庫からミネラルウォーターが差し出され、大杉に「いただきますよ」と一言断りを入れて口にした。

 大杉は、おもむろにデスクのPCを開いて何かの調べ物を始めた。夕が見てみると、そこにあるのは3月以降学園に出入りした学外の人間のリストだった。出入りの写真業者や給食業者など、多岐にわたるがそこまで多くは無い。

その後にYouTubeやニコニコ動画で何かを検索した様だが、目当てのものが無かったのかそっとPCを閉じる。

「…今、美術準備室はどうなっている?」

「立ち入りをやめているみたいです。新学期になったばかりで、活動も多くなかったのが幸いですが、すぐに体育祭の紅組白組の巨大垂れ幕、文化祭の作品制作などが始まります」

「よし、行こう」

 どよめきが部室に沸き起こる。いきなり何を言い出すのだこの教師は。

「美術部員がこのまま活動を行えないのは学園の大きな損失だ。それに、私がこの事を知っていたのに放置していたと上に知られでもしたらどうなるか。私は出世できなくなる。それはなんとしても避けなければ!」

 そっちかい。と夕は突っ込みそうになったが、他の会員は「やれやれ」と言った表情で大杉の話を聞く。

「木刀を用意しろ。そこにある全共闘のセットも持ってこい。ヘルメットを着用!顎紐はきちんと結べ!」

 大杉は言いながら、職員用の防災ヘルメットを着用した。ネクタイを外し、スーツをハンガーに掛けていく。

 東雲は本棚の一番下の段を開け、箱をいくつも取り出した。

「ヘルメット。被ってね」

「ええっ!?」

 夕は面食らった。会員でもない自分がなぜ行かねばならないのか。

「だって、聞いてたでしょ。美術部の子達を見捨てるの?」

「そ、それは…」

「それとも、幽霊が怖い?」

 この場合どう答えるのが正解なんだろう。夕はこんな時に知恵袋を活用できないのが悲しかった。幽霊が怖いと言うと、「幽霊なんて信じてるの?」と言われるかもしれないし、怖くないと言うと「じゃあ共に参ろう」と言われてしまう。

 なんと言うことだ。外堀が埋められてしまったではないか。

 茫然自失な夕を見て察したのか、東雲は耳打ちした。

「へーきだって。大杉先生がなんの考えもなしに殴り込みなんてしない。いざとなったら、私が守ってあげるから。私、こう見えて剣道部と掛け持ちしてるの」

 東雲は据わった目で夕に微笑み掛けた。微笑み掛けながら、先程取り出した箱の中から折り畳まれたヘルメットを取り出している。ポコポコと軽い音がしたと思ったら、頭部を覆い隠せるちゃんとしたヘルメットの形になっていった。

「はい。ちゃんと顎紐結んでね」

「は、はあ…」

 夕は仕方なくメットを被り、なれない手つきで顎紐を引き上げた。

「夕君、木刀を持ったことはあるかな」

 大杉がYシャツの袖を巻くり上げながら訊いてくる。

「あ、ありませんよ。バットすら、中学の体育の時に握った程度だし」

「よし…それじゃ、全共闘セットを使おうか」

 大杉の発言に、一瞬夕の思考はストップした。

「全共闘セットぉ!?」

 大杉は、先程夕が見た全共闘マネキンが持っている2m以上はあろうかと思われる角材と、軍手、全共闘の文字が書かれたヘルメットとタオルを手渡す。

「その折り畳みヘルメットは強度がやや落ちる。この全共闘メットを被ってゲバ棒を持ちなさい」

 教師が言っていい台詞ではない。こればかりは夕も突っ込んでしまった。

「なんで私が!!」

「大丈夫、危ないとなったら突いたり、上から下に振り下ろして威嚇すればいいさ」

「幽霊相手にこんな材木が効くわけないじゃないですか!」

「竹槍でB29に挑むよりナンボかマシだろう」

 ダメだ、この教師はマトモではない。こんな男が担任をやるような学園に進んで入学した夕は、高い学費を払ってくれている両親に土下座したくなった。今すぐ辞めてやりたい。

「大丈夫。戦うのは君だけじゃない。まあ、念の為私や東雲君達の半径3mから離れないようにね」

 藤野を恫喝した時の表情から考えると別人のような優しい表情だった。思わずどきりとしそうになるが、幽霊の潜む教室へ生徒を扇動し、殴り込みに向かうというありえない状況がそのときめきを揉み消した。しかも学生運動の過激派の扮装までさせると言うのだから、この教師を信じ込んではダメだ。本能がそう警告してくる。

「軍手をしなさい」

 夕はとりあえずポーズだけで参加すればいいかなとなかば諦めながら指示に従った。

 渡された軍手は掌の面が全て緑色になっていて、よく見るとゴム張りだった。着用するとゴワゴワして非常にやりづらい。

「この軍手、変です」

「掌を完全にゴムで覆っているから、多少使いづらいかもしれないけど、我慢だぞ。このゴムが角材の棘から君の手を守ってくれる」

 そう言うことか。と、納得し掛けた夕は頭を振る。そんなものを新入生に持たせるんじゃない。自分は表面ツルツルな、京都や浅草で売っていそうな木刀を持っているじゃないか。それこそ「ナンセンス」と言ってやりたくなる。

 ヘルメットも被りなおした。「全共闘」の文字が嫌だったが、先程の折りたたみ式と比べ、安定感が段違いだった。タオルとゴーグルも渡されて、仕方なくタオルで口と鼻を覆った。ゴーグルは視界不良になりそうなので、着けずに首に掛けた。

「顎紐の間にタオルを通すと密着しやすいよ」

 夕は言われた通り紐の間にタオルの端を通していき、うなじのあたりで両端を結んだ。

「よし、移動時は良いが、ゴーグルは突入するときには着けなさい」

「は、はあ…」

 夕はふと部室の壁にある鏡に目をやった。そこにいたのは、過激派の紛争をしてはいるものの、革命の闘士と呼ぶには明らかに華奢すぎる少女だった。ゲバ棒を持つ腕がとにかく細い。頼り無さげな全共闘1年生、と言ったところか。

「よし、全員武装したな。敵は、美術準備室にあり!」

 明智光秀の真似が出来てよほど嬉しかったのか、大杉の頬は上気していた。

「おおおおおー!」

 他の学生達も鬨の声を上げる。夕はつられて「お。おお〜」と言ったが、他の学生の声に見事かき消された。

 歴研の部室にいた会員全4名。それと新聞部員兼歴研会員の藤野、無関係の森本夕、顧問の大杉教諭を入れた7人の殴り込み部隊が階段を駆け上がっていった。

「斬り込みが1名、後続の本隊が3名、後詰に2名。どう少なく見積もっても、私を入れて7名は必要だ。揃ってるな」

「先生、本当に『七人の侍』好きですねえ」

 夕はなぜ自分が連れてこられたのか、その理由の一つを悟った。何のことはない。人数合わせである。

 と言うことは、私は後詰かな。と、この中で一番有利な武器を持っているくせに楽観的になっていた。

勿論、部屋の中で木刀以上の長モノを振り回せる訳がないと言う根拠も有るにはあったが、ほぼ彼女の希望的観測だった。

「入るぞ!!」

 大杉が入ったのは、美術部室だった。部員達が一応席について製作をしていたようだが、特に進んでいる様子はない。転がっている筆は水分を吸っておらず、キャンバスは白かった。顔は無機質であったが、流石にヘルメットを被って木刀を手にした集団がドカドカと入ってきて動揺しているようだった。

「せ、先生!」

 部長の佐々木紀子が席から立ち上がり、目を白黒させる。

 他の部員達は、大杉がこれからすることを悟ったのか、無機質だった顔に生気が戻っていた。中には手を取って喜んでいる部員もいる。

「今まで気づいてやれなかった教職員一同の無力さを許してくれ」

 大杉教諭はヘルメットを脱ぎ、深く頭を下げた。企業の謝罪会見でしか見たことのない深い一礼だった。

 こう言う謝罪ができるのか、と夕は少し意外に感じる。

「先生!もう良いんです。来てくれただけで…」

 目に浮かんだ涙を拭いながら部員の一人が大杉に面を挙げるように促した。

「あ、教えたの俺だよ。新聞部」

 この藤野という男は、死ぬまで風邪など引かないだろうなと夕は思った。

「美術準備室に、呻き声はまだ響いているか」

「はい。まだ、たまに」

 大杉は黙って美術準備室のある二つ隣の教室へ目をやった。

「突入」

「ええっ⁉︎」

 佐々木部長が素っ頓狂な声を上げた。

「あ、危ないと思うんですが」

「何を言うんだ、君は部長だろう。美術部で部員達が無事に創作活動を行えるように万全を期す義務があるんだぞ」

 佐々木は根が真面目なのか、そう言われてしまうと押し黙ってしまった。

 なんだかんだで、生徒の事を考えてはいるんだな。夕はこの不良教師の教師らしい一面をここに見た気がした。大杉が入ってきた時に、部員達の何人かは明らかに安心感が表情から滲み出ていた。こんな格好の集団がいたら、普通は通報案件だと思うのだが。大杉の人望は夕が知らないだけで存外厚いのかも知れない。

「斬り込みは俺が。直後に東雲くんと藤野くん、大島くんと山南くんが入りなさい。君ら4人が本隊だ。しっかり頼むぞ。木下くんは入り口を固めて、ドアから敵を一歩も外に出さないようにしてくれ。仮に木下くんが突破された場合の最後の砦として、ドアの外側には夕くんが構えていなさい。安心しろ。死ぬ時は私が最初だ」

 各々が返事をしていく。夕は一番外側だった。安心感が心の中に広がる。これならば危険度は7人の中で最低だ。何しろ室内に入らなくて済む。仮に逃げられてドアの外に幽霊だか狐狸妖怪の類が来たところで、そんなもの夕にどうにかできるわけがない。へっぴり腰になりながらゲバ棒を突き出して終わるのが関の山であろう。

廊下は天井が高いから、ゲバ棒も振りやすい。夕の予想は見事に的中した訳である。

 美術部員は、最後に呼ばれた夕の格好を見てギョッとしていた。なんだ、なぜ私だけそこまで怖がられなければいけないんだ。好きでこんな格好はしていないのに。夕の恥ずかしさはピークを迎えつつあった。

 美術準備室の前に着くと、東雲が引き戸に手をかけた。大杉は木刀を腰だめに構える。体ごとタックルするように突いていくつもりだろう。

「いいか。室内で、色々ものがある。美術部員達の作品もある。荒らさず、騒がず、迅速にやるぞ。木刀は短く持て。長く持つと周りにぶつけて味方や、下手すりゃ自分をも傷つけてしまう。間抜けな味方の刀は幽霊より怖いぞ」

 全員が頷いた。美術部員達は廊下に出てきて、大杉達の様子を心配そうに見つめていた。ある部員は椅子を、ある部員はイーゼルを持ち出していた。戦うつもりである。夕なんかより余程腹を括った生徒ばかりだった。

 東雲と大杉がアイコンタクトを取る。

 次の瞬間、戸が勢いよく開かれ、大杉が脱兎の如く突入した。後続も続いていく。

 大杉は中にはいると暗い部屋を見渡した。埃っぽい以外に特にこれといった気配はない。後から入った生徒達も、周りを見ながら「何かいるか?」「いや…」などと小声で話している。

「木下くん、電気を」

 入り口を固めていた木下は、大杉に言われて電気のスイッチを入れた。

 次の瞬間、教室の中で呻き声が響き渡った。

「あ、これ!この声です!」

 美術部員達が室内の大杉へ叫ぶ。

「近いぞ!」

 大杉は木刀を声のするであろう方向へ向ける。

「…この声は」

 木下が首を傾げているのを見た夕は、そっと小声で話しかけた。

「聞いたことあるの?」

「うん。多分、この声の正体は…」

「いたぞー!!」

 大杉の声である。木下も夕も身構えた。

「あっ!逃げた!入り口だ!!」

 夕は顔面蒼白になる。一番先に危うい状況になるなど聞いてない。

ーーキシャー!!

「?キシャー??」

「ああ、やっぱりか!!」

 木下は前屈みになって「それ」を捕まえようとしている。

 しかし、木下はうまく捕まえられずもんどり打って倒れてしまった。

「森本さん!そっち行った!」

「ええっ!?」

 夕はとっさにゲバ棒を入り口に突き出した。しかし屁っ放り腰だったためか、全く威力は無い。

「う、うわああああああ!」

 夕は、自分の中では思い切り「突き」を出していた。しかし、側から見たらその「突き」はただ数センチ前に棒を出し引きしているようにしか見えなかった。

 その瞬間、夕のもつゲバ棒の先端に「何か」が当たった。

「へ?」

 ぐいっとゲバ棒の先を揚げる。

 そこには猫が一匹しがみついていた。

「ね…ねこぉ!?」

 美術部員達が呆れに近い声をあげる。部長に至ってはへたり込んでいた。

 ゲバ棒の先にいる猫は、地面に落ちないように必死に棒にしがみついていた。

「に…にゃ〜??」

 夕は、猫を飼ったことがない。友人にも猫を飼う家はなかったので、近所の野良猫くらいしか知らないのである。

 だから、どうして良いか分からず、苦し紛れの行動が今の「にゃ〜」であった。

 猫はじっと夕を見る。何か反応をしてくれ。にゃ〜と言った自分がめちゃくちゃ恥ずかしいじゃないか!と、夕は顔を真っ赤にしていく。

 すると猫は、およそ夕にとって「猫の鳴き声」のイメージとはかけ離れた声をあげる。

 夕はゾッとした。まるで赤ん坊が絞め殺されるような、「高くて低い」うめき声である。もしや、大杉のような外道教師がいるくらいだから、この学園の雰囲気に当てられた野良猫が長い年月を経て妖怪化したのであろうか。

「ああっ!」

 廊下に出ていた美術部員達が叫ぶ。

「この声だ!!」

 やはり、犯人はこの化け猫か。夕は猫を再び凝視した。しかし、猫又とは違い、尻尾は分かれていない。一本のままである。これでは普通の猫と全く変わりない。

 猫は自分の位置と床までの距離を見て、ぴょんと床に降り立った。そして、トコトコと歩いていく。

 辿り着いたのは、美術部部長の膝下だった。猫は部長の膝頭に顔を擦り寄せて咽喉を鳴らす。

 夕は、今度は屁っ放り腰ではなく、猫に向かってしっかりと下段にゲバ棒を構えなおした。幽霊じゃなければ強気である。

「……猫ってあんな声するんですか…?」

 ちょうど、美術準備室から大杉達がぞろぞろと出てきたので、大杉に恐る恐る尋ねる。

「夕くん、春だよ」

 夕は大杉の言葉に一瞬理解が追いつかなかった。しかし、「春」と言うワードから連想した印象を考えると、流石の彼女も察した。

「まさか…発情期?」

 大杉は静かに頷いた。夕は肩と脚の力が抜けてしまい、壁に倒れかかった。木下が咄嗟に夕を抱える。女の子の様に華奢な体躯をしていると思いきや、腕力は夕より遥かに強い。「やっぱり木下君も男の子なんだな」と思いながら、ほんの少しの間、学園一の美少年の腕に抱かれるひと時を満喫した。無関係なのだから、これくらいの役得は許して貰いたかった。



 翌日。森本夕は、再び歴史研究同好会の部室に赴いていた。昨日のように日直ではないし、そもそも入会していないのだから、決して歴研部室に足を運ぶ理由は無かったが、昨日の顛末は非常に気になったのである。

 結局、あの日は不完全燃焼で終わった。発情期の猫は二匹。後で調べたらもう一匹出てきて、合計三匹の猫が美術準備室から発見された。

 美術部長は一切言葉を発しておらず、おそらくこの部長が猫を隠し持っていたのであろうと、その場の誰もが想像した。

 猫はとりあえず大杉が歴研部室で責任を持って保護すると言って、歴研会員チーム(夕も便宜上その中に含まれている)は退散となった。

 その後どうなったのか。昼間に大杉に聞こうと思ったが、何故か憚られた。

 大杉は、部室でこそ不良教師でしかなかったが、いざ教室で担任面をしたり、入学後のガイダンスで教壇に立つと、ごく普通の「先生」にしか見えなかった。

 昨日の出来事は全て夢だったのでは? 何度かそう思う程だった。

 しかし、流石に我慢ができず、「帰りの会」なるホームルームが終わった直後、夕は大杉の元へ駆け寄った。

「ここでは話せない。気になるなら4時頃部室へ来なさい」

 大杉はニッコリと笑みを浮かべ、教員室へ歩いて行った。

 森本夕はその後、自分の興味のある部活動をいくつか見学した後、言われた時間に部室へ向かった。

「失礼します」

 夕が扉を開けると、いきなり足の間を猫がすり抜けていった。

「きゃっ!」

「ああー!逃げちゃった!捕まえろー!!」

 部室から出てきたのは東雲だった。

「あ、昨日の新入生さん。ごめんねバタバタしちゃって。先生は中だから」

「は、はい」

 東雲は逃げる猫を全力で追いかけていった。部屋の中を見ると、二匹の猫が机の上で丸くなっていた。木下と藤野もいる。大杉教諭は、戦艦大和のプラモの脇でお茶を飲んでいた。

「失礼します」

 大杉は夕を見やると笑みを浮かべて立ち上がった。

「夕君、見てくれ。戦艦大和の200分の1モデルだ。遂に完成したんだよ。半年かかった。改めて見ても、このフネの美しさと言ったら無いね。こんな綺麗な艦をあのような無謀な作戦で沈めさせて、3千人以上の犠牲者を出すなんて、人間とはどこまでも愚かになれる生き物だと再認識させられるよね」

「は、はあ…」

 夕は改めて、大杉のデスクに「鎮座」している戦艦大和の巨大なプラモデルを見やった。記念館あたりに展示されていても全く遜色ないクオリティである事は、素人の夕にもわかる。

 しかし、今は大和を見にきたわけでは無い。

「先生!昨日の美術部の件はどうなったんですか?」

 大杉は、大和の話題が遮られて少ししょんぼりした風にデスクから離れ、二匹の猫がいる部室中央の長机に向かった。

「この猫達は、捨て猫らしい」

 夕も何となくは想像できていた。毛に汚れなどはないが、首輪もなく、痩せているようにも見えるので、おそらく家猫ではないのだろう。

「美術部の佐々木部長がね、春休みの部活の帰りに通学路で拾ったんだそうだ。雨にぬれて力なく鳴いてて、放って置けなくなったんだな。だが、彼女の家はペット、特に猫は禁止だった。母親がネコアレルギーだったらしいよ」

「それは、無理ですね」

「どうしようかと思いつつ、とりあえず庭先に置いておいて、その後美術準備室に一旦置くことにしたんだそうだ。バレるとまずいが、ここなら鍵は佐々木部長が持っているから、実は最も安全度が高い。でも生き物が相手だと、中々人間の都合良くいかないんだなこれが。発情期が来てしまったんだ。

 幸いなのは、最初の目撃者が猫について良く知らなかったもんだから、発情期の猫の声が得体の知れないお化けか不審者のうめき声のように聞こえたことだ。このままお化け騒ぎが起きると、美術準備室に人が寄り付かなくなる。佐々木部長にとっては願っても無い事だった」

「でも、猫だけなんですか?青白い顔とかが浮かび上がっていたんですよね」

 夕は藤野の報告を思い出していた。

「これの事か」

 大杉は棚の中からお化け屋敷に置いてあるような生首を取り出した。黒の長髪で、おそらく女性であろうと思われる。正面の顔を見た夕は思わず息を呑んだ。額から血を流しており、般若のような形相では無いものの、深い恨みを胸の奥底に秘めているような表情をしている。眉の皺の寄せ方がうまく、眼力が非常に強く感じる。奈良の興福寺にある阿修羅像は美しさと力強さがあの僅かな眉の描写で演出されていたが、それに近いものを彷彿とさせる、恐ろしい首だった。

「佐々木部長は我が校の特待生で、彫刻もうまかった。今すぐ花やしきのお化け屋敷なんかで使えそうな生首だろ?これをわざと見せたりして、幽霊騒動をでっち上げたんだ。

「でも、部長自身も、美術準備室でお化けにあってますよね」

「顔が真っ青になってたらしいな。それは、特殊メイクだ」

「ええっ!」

 夕は思わず叫んでしまった。いくら美術のセンスがすごくても、人を納得させるようなリアルな特殊メイクができるものだろうか。

「ウチの学校は部活のつながりが強い。美術部は演劇部や映画制作部と結構交流があってな、ポスター制作や小道具監修を引き受ける代わりに、部長もメイクの技術を映画部や演劇部から学んでいたらしい。その技術が、こんな形で活かされたってわけだね」

 大杉は生首を棚の奥にしまい込んだ。夕は長机の横にあるソファにちょこんと座り、猫の方へ恐る恐る手をやる。

「そんな手つきだと猫も怖がっちゃうよ。ほら、こうすれば……結構人に慣れてるね」

 木下が夕に猫の触れ合い方をレクチャーしてきた。すでにもう一匹を腕に抱いているのに、片方の腕でもう一匹の猫の頭を撫でている。うらやまけしからん男だった。

「猫は3匹のうち、1匹は木下君が引き取ることが決まっている。後1匹、学園内の映画館で看板猫をする話が出ている。館主さんの飼い猫が2年前に他界したから、ぜひ譲り受けたいと言っててね」

 学園の中に映画館があるなんて、本当にすごい設備だなと夕は改めて思った。一般の映画館というよりは名画座に近いもので、過去の名作や、ロードショー期間が過ぎた映画、日野出学園の学生制作映画などをかけている。

「後1匹は」

「うん、実は希望者が殊の外多いようで…」

「え?そうなんですか!?」

 てっきり見つからないと思っていたのに、意外である。

「あの、大杉先生。犯人が幽霊では無いと、最初から見当がついていたんですか?」

 これはずっと気になっていた。昨日の討ち入りの際、東雲が言っていた言葉が妙に引っかかるのだ。

 大杉は頭を掻きながら照れ臭そうに話し出す。

「まあね。幽霊など居る訳がない、と言ってしまえばそれまでだが、美術準備室にだけわざわざ幽霊が出るのはおかしいと思ったからですよ。地縛霊だとしても、今年の春からいきなり出てきたのはおかしい。移設されてから今まで寝てたのかって事になる。呪いの人形なんかが持ち込まれていたなら話は別だけど、もっと現実的観点から考えて行く方を私は選んだ訳です。

最初は第三者による美術部に対する妨害工作だと思っていたが、そんな事をして得する奴は居ないと思って除外した。というのも、我が日野出学園高等部の美術部と敵対してる勢力がそもそも本学に存在しないからだ。大学部なら同業他社のサークルや部活動があるけれど、高等部の部活・同好会には同業他社は居ない。無理矢理考えられるは他校の美術部だね。毎年コンクールでしのぎを削るから。だが、本校は図書館や映画館を含め、他校生や一般の方へのセキュリティが厳重だ。入れない訳では無いが、他校生が部室の鍵を教員室から預かって侵入するなど不可能なんだ。実際、春以降学園に出入りした学外の人間の中に、美術部に用のある者は居なかった。

または、愉快犯。例えば幽霊の声や顔を見て怖がる女子高生を隠し撮りして動画にアップするドッキリ企画なんかだな。でもそうした動画は軽く調べたが、春以降のやつも見当たらなかった。

となると、部員の誰かに恨みを持った反抗?しかしそれもおかしい。だったらそいつの作品を台無しにすれば良い。

となると、内部犯かもしれない。部員が準備室に何かを隠して、それを見られない為に幽霊話をでっち上げたんだとしたら。実際あの部屋は部活の時間以外は戸締まりがされていて、人もあまり通らないから物を隠すにはうってつけだ。そう思ってね。案外私の推理も馬鹿にならないだろ。まさか猫を隠していたとは思わなかったが」

そこへ、息を切らせた東雲が、猫を抱えて部室に戻ってきた。

「おう、東雲君、悪かった」

「本当ですよ!全く……あと、神主さんがいらっしゃいましたよ」

 神主? 夕が頭にはてなマークを浮かべていると、装束に身を包んだ神主がぬっと戸を潜ってきた。

「これはこれは。本日はご足労頂き誠に有難うございます」

「いえいえ、お祓いは上ですか?」

 神主の言葉に、夕はますます疑問を深めていった。お祓いも何も、“お化けの正体はこの教室に全部居る“ではないか。

 夕の混乱している顔を見てか、藤野がそっと耳打ちした。

「これで八方丸く収めようとしているんだよ」

 夕はそれでも何が何だか分からない。そうしているうちに、歴研会員達や大杉は美術準備室に向かっていった。夕も仕方なくついていく。

 その後、神主と呼ばれる男はそのまま美術準備室に入り、中に用意されていた簡易的な祭壇(いつの間にこんなものが用意されていたんだ?)でお神酒を左右に置き、盛り塩や鏡などをおいて祈祷を始めた。藤野はその模様を撮影している。ご丁寧に「新聞部」の腕章をつけていた。その後ろには大杉教諭と佐々木美術部部長が頭を下げながら立っており、その後方に美術部員や、突入に参加した歴研会員が立っていた。夕は最後尾にいる。

 御祈祷だかお祓いだかが終わると、大杉と佐々木が玉串を奉納して、柏手を打った。

「これで美術準備室の怪異もいなくなるだろう」

 大杉が言うと、美術部員が沸き立った。佐々木部長は深く大杉と神主に頭を下げている。

 そんな二人は、一仕事終えたかのように握手を交わした。大杉はジャケットの内ポケットから白い封筒を取り出して、神主に渡した。神主は軽く会釈をしながらそれを受け取り、懐にしまい込んだ。


「先生、これはどういう事なんですか」

 歴研部室に戻った大杉教諭に、森本夕は詰め寄った。すでに神主は帰っており、藤野は新聞部に向かっていた。

「お化けの正体なんてこのニャンコだったじゃないですか。なんで今更お祓いをしてるんです?美術部員達も参加してるし、お金まで払っていましたし」

 大杉は窓を開放して、その前に立った。パイプにタバコの葉を詰めており、マッチで点火する。思わせぶりである。夕はその仕草に悪い予感を感じとる。

「まさか、まだ何か、あそこにいたんですか?」

「いや、少なくとも俺は見てない。霊感もないしね」

「それじゃ、なぜ」

「佐々木部長の名誉を守るためだ」

 夕は意外な名前に目を丸くした。

「あのままだと、佐々木くんは部を退部して、そのまま学園も退学していただろう。実際、幽霊騒ぎを起こして部活を妨げたし、生き物を無断で学校内に入れていたからな。上にバレたら、良くても停学処分だった」

「まあ、そうなるでしょうね」

「彼女はね、天才なんだよ。この学園が特待生として求めた人材だ。性格も優しい」

 大杉は机の猫を指さした。確かに、雨に濡れる猫を放って置けないので何とか助けたいと思った気持ちは理解できるのだが…

「それでも、美術部の部員諸君に迷惑をかけたのは間違いない。だから私は昨日、一人一人に聞いたんだ。佐々木部長を退部させるか?とね」

 あの後にそんな事をしていたとは。夕はその後しっくりこないまま下校していたのだが、大杉が裏で動いていたなんて想像もしていなかった。夕の中では、昨日の大杉は退屈な学校の職場で滅多にない事件にはしゃぐダメ教師、といった印象しかなかったのである。

「佐々木君は、技術だけじゃなく、後輩の面倒見も本当に良かったらしいぞ。3年生、2年生で部長を悪く言う子が一人もいなかったんだ。そうなれば、後は簡単だ」

「と言うと?」

「美術準備室で起きた一連の出来事は、怪異の仕業である。そう言う既成事実を作り上げる事だ」

 夕はこれで合点がいった。だからお祓いと言う儀式を行ったのだ。佐々木部長の名誉と、美術部を守るために、自腹を切ってまで。

「祭壇は彼女達が居残りをして、材木を学園内のホームセンターで買い込み作り上げたようだ。さすがだよね。お神酒を乗せてもびくともしなかった」

「藤野先輩が写真を撮っていましたが、あれは」

「新聞部が一面で報じるためだ。学園の七不思議にでも加えるんじゃないのかな。まあどんな脚色をするかは彼次第だね」

「あの神主さんは、役者ですか?」

 大杉は夕の言葉に笑ってしまい、むせ返ってしまった。

「違う違う。あの人は学園の中にある日野出神社の神主さんだよ。本職だ」

「ええっ!そうだったんですか」

「すでに学生の間では美術準備室のお化けの噂が広まりつつあったようなんだよ。だから先手を打って本職の方にお祓いを済ませてもらった。謝礼というか、玉串料は、美術部の部費と折半したよ」

 大杉は落ち着くために再び煙を吸い込む。

「そこまでして、部長さんを助けたかったんですか」

「彼女は学園の財産だ。辞められたら我が校の損害は大きい。俺がとばっちりを食らってみなさい。半年間減俸処分にされちゃうかもしれないんだぞ」

 さすがにこの発言には無理がある。ポケットマネーで玉串料を払っている時点ですでにマイナスではないか。

 もしや、大杉教諭の照れ隠しなのか?

 周りを見渡すと、やれやれと言った表情で大杉の話を聞き流している会員たちが目に入った。こうした照れ隠し発言はどうやら日常茶飯事なのだろう。

 大杉は後頭部をポリポリとかきながらおもむろにスマホを取り出して何かを検索し出す。

 これが大杉教諭の魅力なのだろうか。夕は長机の横のソファにちょこんと座り、カバンから一枚の書類とボールペンを取り出した。

 入部届だった。

「わ。森本さん、歴研に入るの?」

 木下が嬉しそうに目を輝かせる。男子とも女子とも見分けのつかない美形がすぐ目の前にあり、夕は心臓の鼓動が高鳴る。

「……うん」

 夕は顔を赤らめながらも、入部届に歴史研究同好会の名前と自分のクラス・番号・指名を記入していく。

「きゃー!ありがとう!これからもよろしくね!!」

 東雲は夕に抱きついた。存外大きな胸に夕の小さな顔は簡単に埋もれてしまった。ブレザー越しだから柔らかさよりも硬さが勝り息苦しく、窒息しそうになってしまう。

「あ、ごめんごめん」

 東雲はパッと夕から離れる。夕はひとまず呼吸を整えてから、入部届に目を落とした。書き漏らしはない。すぐに提出できる状態だった。

「あの、先生」

 夕は少しの気恥ずかしさを感じつつ、大杉のいる窓際に歩いて行った。

「入部届です」

 大杉はスマホの画面から目をはなし、夕の差し出した。入部届を見る。

 ニッコリと笑いながら、大杉教諭はスマホをしまい、入部届を受け取った。

「変人ばかりだぞ」

「先生が一番変です」

「進路には全く影響しないぞ」

「察してます」

「活動は不定期だぞ」

「聞いてます」

 大杉は一通り聞いてから、「これじゃ逆『お熱いのがお好き』だな」とつぶやいて、入部届を内ポケットにしまい込んだ。

 夕は大杉の発言の真意がわからず、こっそり東雲に聞いた。

「逆お熱いのがお好きって、なんですか?」

「マリリンモンローの映画にこう言うシーンがあるの。今度見てみてね」

 はあ。と、夕が返事をしかけた瞬間、大杉が大声を上げた。

「うおっしゃー!! 3! 3がきた!!」

 夕は飛び退いた。「3」とはなんだ!?と思っていると、いつの間にかスマホを手にしている大杉が目に入った。

 目を凝らして見ると、画面には競艇の中継映像が映っている。

「へ……?競艇?」

 東雲が「あちゃ〜」と頭を抱える。

「これは報告案件ですねぇ」

「いや、待ってくれ!!あの玉串料いくらしたと思ってんだよ!家族で高級焼肉に3回は行けるんだよ!!せめていくらか回収したいのが人情だろうが!」

「気持ちはわかりますけど、勤務中ですよ」

 夕の頭は混乱している。この教師はまさか、職務中に賭博をしていたと言うのか?

「ほら!江戸川のレースを見てくれ!!1−3−4が来てるだろ!?俺は1ー23ー234の買い目に賭けてるんだ!この順位ならそこそこの配当が付くぞ!!」

 東雲はじっと画面を見つめる。

「先生、三着に4号艇が来てたら勝ちなんですよね?」

「そうだ!」

「5号艇が来てるんですけど」

 大杉の顔はみるみる青くなっていった。

「な、なんだと!!」

 すぐにスマホの画面を見た大杉は、3着のボートが4号艇から5号艇に変わっているのをしっかりと確認する。

「あーーっ!なぜだ!4号艇は江戸川巧者なんだぞ!こんなど新人になんで負けてるんだよ!!ひゃあああああああああああ!」

 もはや断末魔のような声をあげて、大杉教諭は膝から崩れ落ちてしまった。

 レースの実況中継は、無常に先頭が最終ターンマークを曲がり、ゴールに到達したことを告げていく。

「1号艇ゴールイン、二着に3号艇、三着5号艇ゴールイン!4番、2番、6番ゴールイン。以上江戸川第9レースでした」

 大杉は力なくスマホの電源を落とした。

 沈黙が室内に流れる。

「いくら賭けていたんですか?」

 東雲は冷静に訊ねた。

「……マンバリ」

「ああ?」

「万張りだよ!5点に各1万円づつ!!」

 夕は貧血を起こしそうになる。こんな大金を一瞬でドブに捨ててしまうほどこの教師は博打に頭をやられてしまったのか。

「はあああああ!?それじゃ今のレースで5万円すったんですか」

 大杉は早くも泣き腫らしている。

「先生は普段江戸川の三着は流せといつも言ってるじゃないですか!!何で今回に限って流さないかなぁ」

 そう言う東雲も、ずいぶん買い方に詳しいように見えるのだが、夕はあえて黙る事にした。

「流せるほどの金がねえんだよ!!神主に玉串料出したっつったろうが!!」

 大杉教諭はソファに突っ伏し、「これは悪い夢なんだ」とうめきながら現実逃避に入った。

 入会を決めた瞬間に、顧問が仕事中にも賭博を行うようなギャンブル中毒であると目の前で暴露された夕こそ、この瞬間を悪い夢だと思いたかった。

 大杉の哀愁漂う苦悶の声は、開きっぱなしのドアから漏れ出し、北校舎にこだました。

 お祓いが済んだと思いきや、また新たなお化け騒ぎが起きるんじゃないかと、目の前の不良教師を見ながら夕は頭を抱える。

 学園の教職員の給料日は25日だが、まだ今日は15日であった。


終わり

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