『セレナと「やさしさの歌」』


 * * *


3.


 ※月×日


 主、突然すみません。

 お久し振り、です。


 ――い、いえ! 忘れていた訳ではないんですよ!?

 た、唯……生きるのに忙し過ぎたというだけで……。


 え、えへへ。何と言うか、「第二話」ぶり、ですか。

 もう第五話も終わってしまいました。

 本当に、久し振りですね! 何万字以来かなぁ。


 ……。


 ……、……。


 いや。


 ……白状いたします、主。

 もう、嘘を吐き続けることなど出来ないでしょう。私も自分を騙し続けるのにほとほと疲れてしまいました。

 いつかは向き合わねばならないのです。


 それが今というだけ。


 ……。


 そうです。……主はもうお気づきでしょうが。

 私には、私にはもう……はいません。




 はもう、いない。

 どこにもいない。


 知っています。今話しているあなたが私の創りだした頭の中のお友達でしかないということ。




 私の主はかなり前に紙となり、その意識も肉体も全て「ストリテラ」からいなくなってしまいました。

 そうして残ったのは私の心の中の「お人形」だけ。

 でもそれは私が果たしたい復讐の原動力として私が置いておきたかっただけで、きっとあなたの考えも生き方も反映はしていないでしょう。


 それに――それにあなたはきっと、私のやっていることを知ったら真っ先に止めに入ってくるでしょう?


 嗚呼、こんな事ならあなたの後を追っておくんでした。


 ……。


 主。


 今日どういうわけかあなたとの日々を、そしてあの三界大戦争のことをふと思い出していました。

 勿論。あなたを亡くしたその時のことも。

 今でも悔やんでも悔やみきれません。

 本当に惜しいひとを亡くしてしまったし、本当に大事なひとを世界は失ってしまった。あろうことか、それに私が手を貸して!


 ……。


 本当にその時はこの世界なぞ無くなってしまえば良いと思った。

 こんな世界なぞ、主を平気で殺した連中が吸い吐きしている空気を間違って吸ってしまうぐらいならば、いっそ罪人の私ごと世界は吹き飛んでしまえば良い!

 割と本気で思っていました。


 ……でもね。主。


 私には新しい「主」が出来てしまったんです。


 もしもあなたが生きていたら「嫉妬」などひとつもしないで「おめでとう」と唯一つだけ、柔らかい笑みと一緒に送ってくれていたでしょう。

 最初は本当に本当に憎いだけの子どもだったのに。


 ……。


 第二話の、ことです。

 私が悪魔王と対峙した時にふと放ったどうでもいい言葉。

 それを彼はずーっとずーっとその心に、胸に留めておいてくれたんです。


 それを彼に言った理由なんて、悪魔王の手先としていられると困るからってだけで、その時は本当に無我夢中でついつい言ってしまっただけの言葉でした。

 サタンやディアブロ、ベルフェゴールなんかは直ぐに捨ててしまいそうなあのモノクルを、あなたがずっとずっと大事に持ってくれていたように。

 彼はそんな何でもない私の言葉を、まるで私達の代名詞かのように大切にしてくれて、そして何度も何度も繰り返してくれるんです。

 直ぐにあなたの影をあの子に重ねてしまいました。身代わりなんていうのは余りにも重すぎるけれど。

 でも、重ねずにはいられなかった私を、あなたなら分かってくれるでしょうか。


 本当に久し振りだった……!

 私を悪者と言わず真正面から付き合ってくれるひと。


 本当に久し振りだった。

 私を大事だと何度も繰り返してくれ、自分がどんなに窮地に陥っても私のために何度もこちらに戻ってきてくれる温かさ。


 本当に、本当に……本当に誰かを愛おしいと思うのは、久し振りだった。

 この体が久し振りに子どもの体温で汗ばんだ。

 この心が久し振りに悲しくて泣きました。


 今まで麻痺しきって泣けていなかったこの心が。

 まるで枯れた泉が命を吹き返したみたいになって、体を巡り温めていく。


 嗚呼、楽しい日々でした! 主。

 あなたに話したいことが沢山ある。

 あなたに共有したいこと、思い出、お土産、笑い声、泣き声!


 ……。


 もうすぐ世界は崩壊します。

 その時は問答無用で私の体は動き出すでしょう。

 叶えなければいけないこと、達しなければいけないこと。沢山あるから。


 でも、そうしたら私は……。

 私はまた「主」を失うことになってしまいます。


 ……主。

 私は違う属性を頂いておくんでした。今になって一番後悔しているの、実はこれなんです。

 私の属性は「強欲」です。何でも欲しくなってしまう。

 あなたの声、あなたの優しさ、あなたの体温、あなたと過ごす筈だった沢山の沢山の時間。


「主」との思い出、「主」との日々、「主」の笑っている世界。


 ……。


 ふふ、見てください。

 隣で何にも知らず、こんなに泣き疲れてすよすよ眠っていますよ。

 ……私がこの子の知らない所でこっそり「chico lindo愛し子」なんて呼んでることもきっと知らないんです、この無垢な赤ら顔は。


 ……。


 ……嗚呼どうか。

 こんな私を愛でてくれるひとも神も今は少ないでしょうが、どうか……どうかお願い致します。


「主」をきつく抱き締めるための「正しい」私の腕をください。

「主」の傍に直ぐ駆け付けられる「正しい」私の丈夫な足をください。

「主」に正面切って「貴方が本当に大切」と、「貴方の傍にずっと居る」と言っても私の心が砕けない、そんな「立派なキャラクタの資格」をください。


 叶うならば、新しい人生を、ください。


 こんな罪だらけの私が大手を振って街を歩き、ふと「主」の住む温かな家に立ち寄ってはふざけて夜を明かす。

 隣には愉快な仲間が沢山いて、馬鹿馬鹿しい事で笑い倒して、その時のパーティーの後片付けもしないまま、熱狂的な空気に溺れるようにして眠る。


 そんな日々を。

 ください。


 ……わがままでしょうか。


 ――人を呪わば穴二つ。

 私はもう「あの日」から。あなたがいなくなってしまったあの日から、もう帰れない旅路についてしまっていました。七つの大罪を殺め、悪魔王から決別したその日から運命はきっと、決まっていました。


 きっとこの子は私を許してくれないでしょう。

 あんなに長い時間と、大切な貴重な思い出とを共有してきたのに、突然裏切ることになるのですから。


 それでも、私は、謝りたい。

 許されるなら、一緒にいたい。


「主」の答え云々に関係なく、「あなた」の傍にいたい。


 いたい。


 ……いたい。


 心が、いたい。


「主」との思い出を壊したくない自分が、余りに身勝手で、どうも恐ろしい。


「主」。

「主」……。


 私は――。




(ここから先は文字が滲んで判読ができない)




 * * *




 遠くの方で、アコーディオンの音がする。


 どこか懐かしい、温かく、しかし寂しい曲調。


 少しか――若しかしたら大分前。

 あの時にも確かこんなことがあった。


 若しかしたらあの時からかもしれない。

 僕の中で、何かがおかしくなっていったのは。


 ……。


 嗚呼マモン。

 君の中で君自身が幸せになる道は……マモンの中にはなかったの?




 本当になかったの?




 * * *



「目が覚めた?」

「う……」



 瞼を開くと目を刺してくる眩い光。

 眩む視界に目を細めれば身体感覚も少しずつ戻ってくる。

 温かな春の匂い、どこかふわふわした世界、舞い踊る蝶。

 バックで流れる微かなアコーディオンの音。


「天国?」

「馬鹿」


 横向きになって寝ている僕の頭をデコピンでピンと弾く。

 ちょっと痛い。

「……まあ、ほとんど天国みたいなもんだけど。アンタには一番似合わないわね」

「……エンジェル?」

「そうよ。久しいわね」

「一番会いたくなかった」

「何とでも言えば良い」

 相変わらず無表情、だけど言葉の端々がとげとげしてる。

 変わったよな、そういえば。

「兎に角、ここは『星屑峠』。セレナちゃんと私が住んでるところ」

「ほし……くず」

「前も来たでしょ? 私、この世界の守護者やってるの。それが今の本当のお仕事で、偶には外に出てあなた達が壊そうとしてた物語を……えー、守ろうとはしてたのよ? まあ、どれもこれも上手くはいかなかったけども」

「……、……夢、だったの?」

「夢? 何が? どうして過去形なの」

「だって、外は、僕のせいで……」

「ったく、いつまで夢見てんのよ。早く起きなさいよ!」

「あいたっ!」

 またデコピン。

 妙に痛いんだよ、コイツの。

 起き上がりたくなかったのにエンジェルに無理矢理助け起こされた。

 最悪。

「兎に角、繰り返すようで悪いけどあなたが今いる場所は『星屑峠』。マモンさんの『陰』にアンタが呑み込まれかけてたから私が助けて、まだ無事なここまで連れてきたの! ストリテラはまだ崩壊状態から逃れてはない、以上! 死にかけてたんだから……全く、感謝しなさいよね」

「助けてなんて、言ってない」

「ハア!? 助けたひとに向かって何なのよその態度は!」

「……嫌味言う為に助けたんだ?」

「違うけど」

「じゃあ何の為に? 責める為か」

「何を言ってんのよ。私はマモンさんを助けたくてアンタをここに連れてきたの。それ以外にある? 私、アンタ一人だったら別に助けなかったわよ!」

「じゃあ助けないでよ!!」

 僕が反射的にピシャンと叫んでしまったのを、エンジェルは肩を一瞬びくりと震わせて受け止めた。


「……ようやく死ねたと、思ったのに」


 それでも口が止まらない。


「どうせエンジェルになんか分かんない! 感情無しで、ぬくぬくのこんな世界に居座ってる奴になんぞ……分かるものか! 世界から追われる者の寂しさなんて! 悲しさなんて……!!」

「……」

「命張ったって、どんなに頑張ったって、どんなに僕らの正義に従ったって、いつだって多数派の考えは簡単に少数派を圧し潰す。どんなに抗ったって、どんなに藻掻いたって、その時その人が受け取りたかった結果でしか物事なんて通らないんだ! 伝え方云々以前の問題さ、勿論!」

「……」

「それがどんなに善悪逆転してても……後から気付くには遅すぎる。この世界は間違いなくマモンを崖下まで追い込んでしまった。それを崖の下から服の裾引っ張られたって、助ける義理なんてないよ! その結果に追い込んだのは間違いなく僕達だっていうのにさ! ――そんな世界の悲しい仕組みとかもどうせ知らねぇんだろ、元々無機物のお前になんか! ぬるま湯つかってきたお前になんか!!」

「……」

「激しく死にたいと思う、奴の気持ちなんざ……!」

 言ってて思う。

 何て意味のない八つ当たりだろう、って。思えば思う程、あとからあとから涙が溢れて仕方ない。

 でも止まらないものは仕方ないだろ。散々夢を壊されて、生きる意味も失い、裏切られて、ぼろぼろに使い捨てられて、大事なひとも失って。

 もうこの心に余裕がない。今を切り抜けるのにもう精いっぱいで、精いっぱいで。

「お前になんかどうせ分かんねぇよ! 悪者扱いされる奴の気持ちなんて!! 死にたいほど苦しい奴の気持ちなんて!! 感情無しのお前になんざ――!」

 そこまで唾を吐き吐き叫んだ時だった。


 ――スパン!


 音の後から冷たさと突き抜けるような痛みが頬を貫いた。

 やったのは勿論エンジェルだ。

 動かない表情筋を無理に動かして精いっぱいの怒り顔をしている。



「分かる訳ないでしょ!?」


「あなたの言う通り、私は感情無しですからね! 奪われましたもの。他人の思いだもの! 私どころか誰も分からないと思うよ、アンタの身勝手な気持ちなんぞ!」



「……」

 ごもっともだ。ごもっともすぎる。

 頭が一旦真っ白になった後で、ふつふつとそんな考えが湧き上がってくる。

 何か間違えたかも。

 すっごい遠くの方でそうとも思った。

「それに今までの言葉全部足して考えても、どれもこれもマモンさんを助けない理由になんてなりませんからね!」

「……!」

「馬鹿なのはあなたでしょう!? そうやって周りに当たり散らしてれば可哀想って思ってくれるとか、そんな風に甘えてんでしょ!」

「そこまで言う事ないだろ!」

「いいーえ、ひとの生死が関わってるから敢えて言わせて頂きますけどね。そんな風に自分可哀想可哀想って考えてる内はどうにもなりませんから! そんな風に考えてる内はマモンさんも助けられないし、自分も助けられないから!」

「……!」

 ちょいちょい鋭い言葉を刺してくるな、コイツ。

「良い? 私は、マモンさんを助ける為にはあなたが居ないと駄目だって思ったからここに連れてきたの。別にあなたの不平不満とか失望とかをグチグチ聞く為じゃない。……マモンさんを助ける為には、あの『陰』の中から救い出す為にはあなたの頭上にたった一つ残された『物語の裁量権』が無くちゃだめなの」

「……」

「じゃないと物語の核と一体化しちゃってる彼を助けることなんて、できっこない」

「……」

「あなただって、マモンさんとの日々を取り戻したいでしょう!? そうじゃないの!? ねえベネノ!」

「……」

 詰め寄られて――何故だか素直にうんとは言えなかった。

 マモンが嫌いになった訳じゃない。訳じゃないのに、が出来なさそうで怖い。


 関わりたくない、関わりたくない……。

 一切に関与したくない。


 空気でいたい……。


「マモンさん、あなたから補正を奪った後にね、自分の体内にあった『陰』に呑み込まれてしまったの。それからは自分のチカラの制御が出来なくなってしまって……それで、それで……」

「……」

「本当にやりたかったことも今、出来なくなってしまっている状況なのよ? あなたが目指した世界からも大きく外れてしまってる」

「……」

「勿論、マモンさんの目指した世界もこれじゃない。どこかで間違いが起きたのよ! 恐らくは何か、本来ならば要らない何かまで望み過ぎて!」

「……」

「惑った挙句、強力な『陰』にその体を奪われた」

「……」

「ねえ、ベネノ。本当に他の誰かを憎んでいて、そいつらのいる世界とは別の何かを作りたいってんなら、早くマモンさんを助けなくっちゃいけないんじゃないの!? どうしてそんなにマモンさんの救出を拒む訳!? 意味が分からないよ!」

「……」

 僕だって分かんないんだよ……。

 もうやめてよ、聞きたくないよ。

 何も聞きたくないよ!


「ねえ、ベネノ。あなたは私のこと『感情無しだ』『無機物だ』って散々言うけど、そんな無機物の気持ちも考えたことなんて無いんでしょう?」


「私……天使の杖だから意識や感情だけは元々あったの。それをマモンさんに譲って、そして今の体を貰ったの」


「感謝してる! 本当に感謝してる。杖のまんまだったら見られなかった物うんと見せてもらったし、自分の足で歩いてセレナちゃんに会いに行くこともできたし、この腕で抱き締めることもできた……何よりこれ以上セレナちゃんの大嫌いな戦争の道具にならずに済んだ。だから本当に、感謝しているの」


「――でも」


「悲しいが、分からなくなっちゃった」


「楽しいも、嬉しいも、何もかも」


「……」


「何故だか感じることが出来ないの。全部空虚なの」


「ふと胸に湧き上がってくる何かはあっても、それ、すぐに消えちゃうの。少し経ったら忘れちゃうの……」


「恩返しに一番必要なあったかいものが、未だに何かが思い出せない」


「昔々は感情があったから……猶更その喪失が分かんなくて。多分混乱とかっていうのが一番合ってるんだと思う」


「だって、感じたいって頭で思っても心が追いついていかないんだもん」


「泣きたいのに涙が出ないんだもん。直ぐに昔の話に、私とは無関係な話になっちゃうんだもん!」


「だからあなたの真似して、困った時とか必死だよって時とかは、アピールするために大声出すようになった」


「でも、未だに笑顔と涙だけは……どうしても難しくって」


 そう言って悲しそうに顔を歪ませるエンジェル。

 でもとてもきつそうだった。

 そんな顔すらすることが難しい、感情無しの体。

 本当に、感情取られちゃったんだ。


「ねえ」


「泣いてる暇はあるのに動かないんだったら、私にその涙を頂戴」


「泣き方を教えて? 悲しいの感じ方を教えて!?」


「ねえ、マモンさんの為に流せる涙と、心を頂戴! 泣き方を頂戴!!」


「今までみたいに誰かを強く慈しむ心を……恩を返すひとの気持ちを、誰かを想い恋い慕う気持ちを、彼の為に泣き叫ぶ気持ちを頂戴!!」


「頂戴よ!!」


 余りに必死なその声に――でもその中身は空っぽであろうそれに。

 思わず耳を塞げば彼女は直ぐにそれに反応してきた。


「耳を塞がないで! ちゃんと聞いて!! 一大事なの! 時間が無いの!!」


 分かってるよ……。


「いい加減向き合って!」


 分かってるってば。


「ベネノ!!」

「煩いな!!」


 余りに苛々して、思わず手が出そうになった――






 ――その時。






 僕の振りかぶった手首を掴み、静かに佇む少女がそこには居た。


「セレナ、さん……」


 また責められるんじゃないかと怖くなって身を思わず引いたけど、彼女はその手を掴んだまま離さなかった。

 代わりにこんなことを言う。




「どうしたの、ベネノ」


「困、っちゃった?」




 その悲し気な笑みの柔らかいこと柔らかいこと。

 それを見た瞬間、まるで自分の母を見つけた迷子のように途端に気持ちが落ち着いてきた。

 そしてすぐに心の中に一つの単語がやまびこのようにこだましていく。


 困っちゃった、

 困っちゃった、


 困った、

 困った……。


「う、うう、えぐ」

「そっか。どうすれば良いのか分からなくって、それで困っちゃったんだね」

 がくがくと頷く。

「そっか、そっか。たった一人で頑張って、心、壊しちゃったんだね」

 頷く度にまた視界がぼやけて、鼻水まで垂れてきた。

 震える体を彼女はその柔な腕で優しく包んでくれる。

 こんなだらしない僕を彼女だけは否定せず、ただただ受け止めてくれた。

 わんわん泣いて、彼女の胴をきつく抱き締め。

 そんな僕の頭をただただ静かに、優しく撫でてくれた。


「僕は、僕は――! わああああああっ!!」


 ただただ、無言で頷きながら。

 そっと、聞き続けてくれた。


 * * *


「落ち着いたかな?」


 にこ、と微笑み白いハンカチを差し出してくれるセレナさん。

 またこく、と頷いて彼女からハンカチを受け取る。

 温かくて雲の匂いのするハンカチ。抱き締める度に薔薇の香りがしたアイツを何だか思い出す。

 ……。

 三人でピクニックみたいに木の下に座って。風の匂いを感じて。

 木陰から覗く日の光が嘘みたいに温かい。


 ここが精神世界じゃなくって、現実世界だったなら。


「セレナさんは……」

「ん?」

「……マモン、倒すべきだと、思いますか?」

「んー」

 上目遣いをしながらちょっぴり可愛く悩むセレナさん。その腕にしがみつくようにしてエンジェルが座っていた。

「そうだなぁ。あんまりにも難しい話だから私、よく分かんないけど……」

「……」

「ベネノは、どう思う?」

「僕、ですか?」

「マモンさん、自分の手でやっつけたいって考えてる?」

「そんな訳!」

「だよねー! 安心したぁ」

 そう言ってふふっと笑う。

 やっぱりこのひとはいつもふわふわしてる。

 不思議なひとだ。

「そしたら……ベネノは何を迷ってるのかな?」

「え?」

「倒したくないなら倒さなくてもいい。だって周りのひとはあなたとは無関係なひとばっかり。憎んでいるひとだってちらほらいる。それにこの世界は最初っから崩すつもりではあったんでしょう?」

「……、……まあ」

「それにさっき『光済の杖』が言ってたことだけど――もしも本当にマモンさんがただ『陰』に呑み込まれてしまっていただけで、苦しい苦しい! って藻掻いてるだけだったとしたら、どうかな」

「……」

「そしたらやっぱり、『倒す』じゃなくて『助ける』になるんだろうね」

「……まあ、理屈で考えれば」

「ね」

「はい」

「そしたら、ほら。迷う理由は無いんじゃないかな」

 そう、だけど。

「だけど?」

 ……。

 だけど……何だろう。

 改めて落ち着いて考えてみても、分かんない。

 何か、頭と心がごちゃごちゃしてる。

 ただ、死にたいしか頭にない。

 ――いや、そうだ。僕がいるから皆が不幸になるって、そういう話だった筈。

 ここに、ストリテラに、もう居たくないって。

 そういう――


「本当に?」

「え?」


「本当に、消えちゃいたい?」

「……どういう、ことですか?」

「だって、ここで消えちゃったら」


「マモンさん助けられるかもしれないチャンスを失ってしまうかもしれないの」


 ……。


「それはベネノが本当にやりたいことなのかなって、思って」


 違う。


 ……違う。

 助けられる可能性がある。そうして再会できる可能性がある。

 それが確定的なら僕は絶対にここに残る筈だ。だって今までもそうしてきた。助けられる可能性があるから、僕はいつもいつだって、彼の傍から離れなかった。

 SFで血を流した時も。

 神殿裁判で数多の聖光に晒され、瀕死になった時も。

 鬼火平原で二人のシナリオブレイカーに追い詰められた時も。

 全部全部、自分の頭の上にある補正の「不死」の属性を信じてマモンの元から離れなかった。

 だけど今回は――。


 だけど……。


 だけど?

 あれ、そういえばその「不死」の補正は今、マモンの手の内にあるんだよな?

 あれ、そしたら何で……。


「よーく考えてみよう、ベネノ。頭はね、いじわるなの」


「本当に本当に辛いことがあった時、自然と私達は大切なことを忘れてしまう」


「そうして、それよりもずっとずーっと軽い所へ逃げようとする」


「できるだけ元凶から遠ざかる方法へ逃げようとする」


「それはしばしば『死』の形となって現れるの」


 死……。


 ……。


「ね、ベネノ。何もあなたの一番嫌なものと直接対決をしろ、だなんて言うわけじゃないんだよ」


「でもね、逃げ続けてしまえばあなたの中には絶対に重たいものが残るでしょう」


「確かにね、一番楽なのは逃げることなんだけど……それだと心の中ではいつまでたっても解決したことにはなってないの」


「それが爆発したら大怪我どころじゃ済まないかもしれないの」


「だからひとは傷がかさぶたになった頃にその爆弾を解体するんだ」


「ベネノ。これがトラウマと向き合うということだよ」


 私の持論ではあるんだけどね、とはにかみ笑いするセレナ。

 でもそこには大切な何かがあるような気が若干していた。

 認めたくない自分が結構主張してるけど。


 ……。


「――よし。この話は進まなくなってきたし、話題から変えちゃおっか! ベネノ、まずはっきり言っちゃうけどね。あなたは、何も悪くないよねっ」

「え」


 また可愛くぴしっと指差してくるセレナさん。

 余りに唐突な話題の変化だったので驚いたが……いや、それはそれで何だか違う気がする。

「どして?」

「え、だ、だって、どう考えたって世界に悪影響を及ぼしたのは僕の責任で」

「ん? 何で?」

「え、え? え、えと……だからその、つまり……僕が主人公補正を奪って回って、皆の住む場所とか壊しちゃって、それが巡り巡って世界を壊しちゃったからで……」

「そしたら、あなたは命を以てして償わないといけないの?」

「え?」

「ふふ。そしたら聞くけどね、ベネノ」


「あなたにもし全責任があったとして。あなたが死ねば解決する話になるのかな」

「え」


「世界の崩壊はそこで、止まる?」


 止まら、ない。

 止まらない。

 僕が死んだところでそんな壮大なもの、止まる筈がない。


「そう。あなたが死ぬ必要なんてない。――あなたの頭はまずそれを結論付けた。そして同時にあなたがこの崩壊の主因でないということも結論付けられた。ほら、悪くないっ」

「で、でも待ってください。それでも僕は自分が許せないです!」

「どして?」

 どしてって。

「た、確かに僕が死のうが何だろうがこの崩壊は止められないし、主因とかではないかもしれない……」

「まー、そだねぇ」

「でも……幾つかのは原因になった筈だ」

「なるほどなるほど。例えば?」

「主人公補正を奪って回った。世界を破壊して回った」

 指を折りながら数える。

「ひとの人生を捻じ曲げた」


「物語を破壊しかけた」


「マモンが追いつめられてること知らずに、ずっとそのままでいた」


「全部全部僕がやったことだ……」

「ふーむなるほどね」

 目を閉じうーんと考えるセレナさん。

「確かに、それらは君自身がやったことかもしれないね」

「いや、間違いなくやった。だから僕が世界を壊したんだ」

「……本当に?」

「え?」

「それは本当かな」

「何でそんなこと……当たり前じゃないですか」

「そなの?」

「そうですよ! 主人公補正を全部物語から取り去ってしまったし、キャラクタ達の居場所を奪ってしまったし、それに、それに……」

「それに?」

 それに……。

 そこまで考えた瞬間、心の中で「あれ」と思った。


「……全部、、ね」


 あ、

 あれれ。


「気付いたかな? このからくりに」


 から、くり?

 きっと、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている僕を見てセレナさんがにこ、と微笑む。


「今、ストリテラは確かに崩壊への一途を辿っているけれど、それはマモンさんが今まで溜めてきた『陰』の暴走によるものでね。あなたはそれまで彼にとって必要な『主人公補正』の置き場として利用されていたに過ぎないの」

「置き場?」

「そう」


「確かに物語を崩壊させたことはいけないことだけど――ベネノ、今は、今だけはそうじゃないの。世界が崩壊している本当の主因はマモンさんが『陰』に取り込まれて暴走しちゃってるってこと」


「この世界の崩壊に際してあなたはだけ」


「先生があなたの奪還に力を入れていて、あなたから『主人公補正』を奪い取ろうとしてなかったのはそのため」


「だからあなたがこの崩壊について重く受け止める必要はないんだよ」


「だって、マモンさんのことだもの。きっとだけど、あなたがいなくてもこういう展開は起きてたよ。あなたも何となーく想像できるでしょ? 彼ならやりかねないよ」


 そう言ってからから笑う彼女。

 それらの言葉にようやく事態の全景が見えてきた気がした。

 ファートムがあれだけ散々言ってきたこと、信じたくなかっただけで間違いじゃなかった。勝手に悪者扱いしてただけで、本当は間違いなんかじゃなかった。


 僕は、悪くない。

 悪く、ないんだ……。


 この事実についてもそうだけど、何よりセレナの最後の言葉に救われた。

 そうだ。嗚呼、そうだなぁ。マモンなら絶対やりかねない。僕なんかがいてもいなくてもこの未来はきっと訪れていただろうな。

 遅いか早いかだけの違いなんだ、僕がいるということは。


 でも……それは。


「ここまで分かったら……後はベネノ、あなた次第だよ」

「……」

「色んな道がある。生かすも殺すもあなた次第」

「……そうなの?」

「だって、あなたにはその『物語の裁量権』が残されているからね」

「……」

「マモンさんにコンタクトができるのはあなたと、運命神の二人しかいないんだよ」

「……」

「若しかして、マモンさんはこのことを分かって敢えてその権限をあなたに残したのかもね」

「――でも」

 ぽつ、と口をつく言葉。


「マモンと、これからどう接すれば良いか分かんないよ」


 エンジェルがちらりとこちらを見てくる。


「僕、マモンは、マモンだけは一番最後まで一緒に戦ってくれるって信じてた」


「だから補正の保管も喜んでやったし、補正の強奪も物語の崩壊も、何でも彼の望むものとあれば喜んで手を貸してた」


「でもこうやって……その……裏切られて……」


 じわじわぼやける視界。

 体操座りの組んだ腕に爪が食い込む。


「今までの味方が突然敵になって、僕らの世界を壊し始めてる」


「僕の心もきっとその時壊れた」


「若しかしたらこの一連の流れは全部マモンの仕業かもしれない」



「なのに僕、敵としてアイツに対峙できないんだよ……!」



「殺したくない……」



 ――殺したくない。

 これが一番大きいと思う。

 だって、敵対するってことはマモンをどっちみち殺さなきゃいけないってことになる。ストリテラから追い出さなくちゃいけないってことになる。

 そんなのは嫌だ。

 だって、だって……。


「だって、良いやつだもん」


「僕の友達だもん」


「僕の、僕の影だもん!」


「大切な友達だもん!!」


 鼻水がまた出てきた。

 涙もぼろぼろ溢れて仕方ない。

 セレナが背中にそっと手を置いてくれる。

 その温かさに、また泣いた。


 第五話の終わりの時も、こうだったかな。

 あの時アイツは僕のこと、仔犬でも抱くみたいに優しく、でもしっかりと抱き締めてくれた。

 あの時の力強さと薔薇の香りと彼の体温が、肌の下に蘇ってくる。


 そう、アイツは良いやつなんだ。

 それを僕が一番知ってるんだ。


「僕、まだマモンを信じていたいよ!」


「だって大好きだもん!」


「……でも、僕のこと、また問答無用で突き刺してくるかな」


 それを思い出すと途端に震える体。

 あんなに怖いマモンは初めて――否、第一話以来だった。


 突然敵になったみたいになって、物凄く怖かった。


「怖い、んだよ。またマモンに裏切られるのが」


「傷つけられるのが」


「……


「大切だから、尚更……」




「傷つける? 当たり前じゃないの」




 そこに満を持して口を出してきたのはエンジェル。

 内容に仰天したのは言うまでもない。

 一瞬口ぽかんとしてしまった。


「さっきも言ったけど、彼は制御不能の極悪黒魔術に捕らえられてる。そのまま『陰』がマモンさんの願いや思いを贄に暴走してる。だからあなたがこのまま単身向かっていったって傷つけてくる。そんなの当たり前でしょ」

「……」

「そうじゃなければ彼はとっくにこの世界を変えてたはずだよ」

「……だよね」

「そうだよ」


「それに彼をこんなにしたのは、良くも悪くもだしね、ベネノ」


 ――!?

 更に驚く。

 驚き過ぎてちょっと混乱してきた。

 さっきと言ってること真逆じゃない!?

「え、え、え? ど、どゆこと?」

「あのねー、アンタ馬鹿?」

「え、え、え?」

「良い? アンタとマモンさんは仲良くし過ぎたのよ」

 胸に人差し指をとん、とやってくる。

「し、?」

「だからマモンさんの中にこの世界を吹っ飛ばすにあたっての迷いが生まれてしまった。――なければ絶対に成功するような状況だったにも関わらず」


「あのひとはどんなにボロボロでもその『強欲』さえうまく発動できればこの世界の支配権を完全に握れた筈だったの!」


「だけど『あなた』という大切なひとが新たに出来てしまった」


「『あなた』を守るためにあのひとは自分の復讐にセーブをかけてしまったの!」


「でも力の発動のために利用する筈だった『陰』が同じくセーブされるとは限らない……!」


「そしたらどうなるかなんて分かるでしょ! 馬鹿でも!!」


 聞いててどんどん呼吸が苦しくなってきた。


「いい加減覚悟を決めなさいよ、無責任!!」


「マモンさんは……あなたを、あなたを……」






「あなたを愛してるのよ!! 心の底から!!」






 瞬間、脳を駆け巡る思い出、その笑顔、その挙動。


 その声。


 その仕草。


 ……全て全てに嘘だけは無いと思ってた。

 その全てを信じ、その全てに心を許してきた。

 だからこそ彼が裏切ってきた時、大きなショックを受けた訳だけど――その裏には一つ、大事な理由があったのかもしれない。


 それは。


 だから。


「馬鹿……馬鹿」


「ばかばかばか。マモンの馬鹿!」


「そんなことで迷う位ならさっさと世界壊しとけよ馬鹿! あの馬鹿!! ばかばか!! 馬鹿たれ!!」


「いつも大口叩いてさ、自分こそが未来の王だなんだ言ってたじゃねえか!」


「新世界の王がこんな所で夢折ってんじゃねぇ!! 全くどうしようもない馬鹿だよマモン!」


 ばかばか連呼しながら自分の体を抱き締める。

 嗚咽を何度も何度も漏らした。

 草原を何度も何度も叩いては抑えきれない感情の波を全部外の世界にぶちまける。

 絞り出すように涙を落して、もう今後一生出なくなるんじゃないかってくらい泣いて泣いて泣き腫らして、少しずつ心の汚れを洗い流していく。


「馬鹿……」


「史上最強の馬鹿だ……史上最高の馬鹿だ、お前は」


「そんなやつの夢は俺が乗っ取ってやる……」




「僕がお前の望んだ未来を作ってやる!!」



 そして、顔を上げた。

 その時にはもう、その言葉は口をついて飛び出していた。






「セレナさん、僕、外に帰る」


「僕、僕……僕、決めた」






「マモンを助けに行くよ、僕」






 * * *


「そう言ってくれるのを待ってたよ、ベネノ」


 セレナさんが何かちょっと寂し気な微笑を湛えながら立ち上がる。

「実はね、『光済の杖』と二人で絶対にマモンさんとベネノを助けようねって話してたんだ」

「そう、なの?」

「そうだよ。だからこの子はあなたを助けに行ってくれたし、私はあなたに真実を話せるだけ話した」


「ここまでくればもう大丈夫だね、ベネノ」


「よく頑張りました」


 そうして僕の手を取ってにこ、と微笑む。


 それに何故か、何故か分からない強烈なを覚えた。




「さあ立って、ベネノ。あなたに私から最後の贈り物」




 そう言って僕を立たせ、自分は少し離れた場所にエンジェルと並び立つ。

「私からあなたに、最後の力を与えましょう」


「それは『光済』――人々を広く救済し、その闇、迷妄から開放せんための一本の杖。唯一現世に残る、大罪の力を宿す杖」


 そっと組んだ手に光が宿り、徐々に輝きが増していく。


「その所有権を全て、あなたに」


「この子のこと、未来のこと」




「あなたに全て託します」




 そう力強く言って腕を大きく広げたその瞬間、彼女の胸元にあった全ての輝きがこちらに勢いよく飛んできて――


「ウワッ!」


 同時に『星屑峠』の空や世界の悉くを破壊しながら大量の『陰』が津波のように押し寄せてきた。

 彼女だけが――津波の向こう側に!

「……! セレナさん!!」

「行って!」

 彼女の珍しい怒声に体がびく、と震える。

 そんな彼女の姿は第五話のあの時――黒い過去を思い出し、不安定になったあの時と同じ、残酷な姿をしていた。

「お願い行って! 私のことは良いから早く!」

 折れ曲がった体を引きずりながら、一生懸命訴えかけてくる。

「で、でもセレナさんだけ置いていくなんて!」

「良いの!」

「そんなこと言って、消滅を一番嫌っていたのはあなた――!」


「良いの!!」


 ここまでくると、ほぼ悲鳴だった。

 そこにあるのはたった一つ、彼女の大きな決意。

「私、とっくの昔にもう死んでるから……ここからはどっちみち出られない運命だったから」

 そう言って泣きながら絞り出してきた笑みに胸が張り裂けそうになる。

 そんな……。


「でもあなた達はまだ生きてる。まだその明日に未来が広がっている、思い出があなた達を待っている!」


「大切なひと達があなた達の帰還を待ってる」


「だから生きて欲しいの! 振り返らずに、前を向き続けて欲しいの!」


「だって、死んだ人がいつまでも生きてる人にしがみついてたら、それこそ悲劇じゃないの……」


「ね? あなたもよく知ってるでしょう?」


 ベルゼブブ様……。

 きっと彼はこんな展開、望んでいなかった。

 推測でしかない訳だけど。


「早く行こう、ベネノ。もう私、ここの守護者じゃないから全部が全部を守ってあげられない」

 エンジェルの手がぐいぐい引っ張ってくる。

 その表情をちらりと見ても、そこにあるのはいつもの無表情。

「ね、早く。あなたまで崩壊に呑み込まれてしまえば本末転倒だよ!」

「……!」

 彼女に引きずられるまま、堪らなくなって向こうの方を、セレナさんの方を見た。


「絶対に、絶対に忘れない! この日のこと、貰った物、全部全部忘れない!」


「いつか物語に纏めるから……! あなたのこと、絶対に忘れないように、皆があなたのことを知れるように!」




「あなたの物語をいつかきっと、作ってみせるから!!」




 絶叫を掻き消すように目の前をまた『陰』が覆った。

 その瞬間、二人の体が光のトンネル――この世界の唯一の出入口へと吸い込まれていく。




「セレナさん!!」




 ――、――。


 そうして一人世界に残された少女は『陰』に埋もれたアコーディオンを取り出し、彼らとは反対の方向へと静かに歩いていった。

 この世界も、もうすぐ終わる。

 日が、暮れる。


「カルド」


 ふと、口が愛しい彼氏の名前を呟いた。


「あなたがいつまで経ってもこっちに来ないからこうなるんだからね」


 そんな冗談めいたことを言いながら軽く笑う。


「でも、もうすぐ会えるよ」


「私、生まれ変わるの」


 にこやかな笑みを、夕焼けに混じる藍に向ける。

 北極星が、輝いている。


「生まれ変わったら、一番最初に会いに行くからね」


「そしたら一番最初に見つけてね」




「約束、だから」




 そしてアコーディオンに空気を送り始めた。


 * * *


 エンジェルの手を握るようにしてぶら下がりながら、トンネルの中を進む。

 黙る僕らの耳には彼女が最期に演奏していると思われる歌が響いてくる。


「やさしさの歌」


 マモンの歌。

 僕が彼の過去を知るきっかけとなった歌。

 エンジェルが彼に伝えたかった歌。


 マモンとベルゼブブ様のひと時の物語。


 その「バラッド」を、僕は絶対に、絶対に忘れない。



 ――、――。


 これは優しき七つの大罪が一 第五 強欲の物語


 天と地を揺るがす大厄災の日に あの子の命を救いたり


 あの子はずっと待っている あなたにご恩を報える日


 私も待っている あなたを“真の意味”で救えるその時を


 今こそ私の力を以てして あなたにご恩を一つ 返しましょう


 それがあの子の望みそのものであり 私の望みそのものでもある


 そうしていつか 苦難を乗り越えし時


 あなたは 目覚めの時を 待つことになる


 どうか どうかあなた


 その哀れなひとをお救いください


 そのひとを止められるのは


 最早 あなただけ……


 ――、――。


(つづく)

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