『すれ違い-3(傀儡の座敷童)』


 * * *


2.


 △月□日


 主。

 この座敷童、厄介ですがちょっと面白そうです。


 急な黒い蛇の覚醒に遭い不服ながら使い魔という存在に落ち着くこととなってしまいましたが、この童、中々面白いです。


 シリアス展開によくあるキザ的な「面白い」ではなく、どちらかというと展開によくある、あの「面白い」です。

 何と言うか、一々ツッコミのキレが良すぎるんです。


 誰に鍛えられたのでしょうか。

 そんなに運命神は馬鹿なんですかね。――おっと失礼。


 まあ、何よりもまずはこの「異世界ファンタジー」の世界を巡ることでこの少年の望みを早々に叶えてしまおうと思います。

 そうして契約を早々に成立させて、彼の魂を奪います。


 傀儡に出来たらもう、あとはこっちのものでしょう。


 悪魔王が授けてくださった「猛毒」という能力。

 彼は使いこなせていないようですし、どうせなら私がこの「強欲」や主の「暴食」で使いこなして差し上げましょうか。

 それが能力の「本望」というやつでしょう?


 だから彼には悟られないようにニコニコして……。


 ……。


 ふふ、おかしくなってきました。

 だって、最初はあんなに憎い王から能力を頂き、あろうことか私の主とか勝手に抜かした――なんていう認識の憎い憎いだけの子どもだったのに。

 今となっては才能の未開花により、私の手足となろうとしている。

 何と言うか、人間万事塞翁が馬ということなんでしょうね。


 一応、才能の開花を促しているようにアピールはしておきましょう。

 良い煽りになって無駄に焦ることと思います。


 * * *




「ベネノ! ベネノ!!」


 小屋の中では「まだ」安全な隅の方まで「陰」の粘液でぬらぬらとした少年を運ぶ運命神。

 すぐさま彼のことをひしと抱き締めた。その体から淡い聖光が発せられる。

 彼が誰かを「回復」させる時はいつもこうだ。第五話で悪魔王がぶっ倒れた時も無意識の内にこの行動をとっていた。

 困っている誰かを見ると放っておけない。味方であろうが敵であろうが善であろうが悪であろうがどうしても助けたくなってしまって、慈母のように相手を抱き締めては自分の聖光で癒していく。

 ジャックは確実にファートムに似たといえる。――いや、思想が反映されたのか。

「生きろ、生きろ……頼むから死なないでくれ……」

 それを小屋の外で「陰」を警戒しながら死神達が黙って聞いていた。

 ハッと息を呑む音。直後、後ろで衣擦れの音が聞こえた。


 音だけで分かる。焦っている。

 きっとあの時の悪夢を自分の中で永遠に反芻してしまっているのだと思う。


 第六話終盤、即死もおかしくない程の猛毒を大量に流し込まれ今も生死の境を彷徨い続ける彼の吐血の臭い、鉄臭さを。

 そういえば彼も同時刻に腹を刃に貫かれていた。


 自分が気にかけているをふと重ね心配になった斧繡鬼がちらりと後ろを見ると、丁度彼は少年のその胸元を露わにした所だった。

 肩で息をしながら赤黒く変色したその体を撫でる。

 全身を彼の頬のあの血管のような模様が覆っているが、一箇所だけ真っ白になっている部分がある。

 もう一人の息子が目も当てられない程の大ダメージを負っていたその場所が。

 その少年は天使の羽のように真っ白であった。

 父はその主因であろうターコイズブルーのペンダントを手に取り、はらはらと散花ちるはなの涙を落す。

 あれは……。

「ペンダント……? 誰の?」

「守ってくれたんだ……ジャックが、守ってくれたんだ……うう……」

「……」

 斧繡鬼の声は聞こえているような聞こえていないような、そんな呟き。

 そのまま彼は泣きながらベネノをまたきつく抱き締め存在確認なんかするように、しっとりとしたその頭を優しく撫でた。温かな聖光が彼を覆う粘液を少しずつ溶かしていく。アドアステラのペンダントも彼の聖光に共鳴するように光り、少年の回復を助けた。


 そして。


「おええー!! げほっげほげほっ!!」

「ベネノ! ベネノ大丈夫だ、お父さんだよ! ゆっくりお吐き。ぜーんぶお吐き」


 突如聞こえたその声に死神二人も慌てて小屋の中に飛び込んだ。

 父は不安そうに背中を撫でたり叩いたり。少年は彼のその動きに合わせるように少しずつ、しかし大量に体内の「陰」を吐き出していた。青白い呼吸困難を起こしているその顔が見るに堪えない。

「そうだゆっくりだ。胸の奥から全部吐き出しちゃうんだよ。……よく帰ってきてくれたね、ベネノ」

 父の悲哀に満ちたその顔も、苦労と疲労が刻まれたそのも。

 みんなみんな見るに堪えない。

 たった一つだけ、その悲哀に安堵が混じっているのが唯一の救いだった。

 ……。


 ……。




「ベネノ」

「……」

「全部、吐き出せたかい」


 暫くしてようやく落ち着いてきた少年に恐る恐る語りかける運命神。

 水筒で持ってきた温かいスープを一杯、蓋に移し替え始めた。

「怜が教えてくれたレシピ。初めて作ってみたんだよ、コンソメスープ。ほらお飲み。温まるよ」

「……」

「……ベネノ?」

 横顔をふと覗き込めばぎょっとする。その目に光はなく乾いた筆で瞳に絵の具を塗りたくったようでどこか虚ろ、視線はじっと自分が吐き出した大量の濁をみつめていた。

 ――どうしたの、ベネノ。

 父がそう問う間もなく少年は突如、その「陰」に手を突っ込みその半身を沈めようとした。

「……!」

 それに驚愕したのは言うまでもない。

「何やってるんだ、ベネノ!!」

 手に持っていたスープを放り投げ、自傷行為をやめない座敷童を羽交い絞めにする運命神。

「放せ、放して! 死なせて!!」

 その言葉が神の胸をガツンと殴り付ける。

「何てことを言うんだベネノ!」

「うるっさい、アンタには関係ないだろ!」

「……! やめろ!!」

 今度は自分の胸に無理矢理「猛毒」を植え付けようとする。

 その胸を自分の腕で覆うように彼を今度は後ろから抱き締め直し、絶えず体から聖光を発し続けた。

「どーだコノヤロ。これで、これで死ねねェだろ!」

「ウウウー!! アアアアアッ!!」

 奇声を発しながら滅茶苦茶に暴れ回る。

 死神二人が鎮静化を図ろうと各々の武器を構えたのをファートムは睨み一つだけで収めた。

「ここは親子二人だけの問題なんだ」

 そう一言、言葉も付け加えながら。


「なあ、ベネノ。よく聞きなさい」

「ヤダ!! 死なせろ!!」

「聞きなさい!!」

「嫌だ!! お前の言う事なんてこれっぽっちも聞きたくない!」


 髪の毛を引っ掴んだり、すねに蹴りをぶち込んだり。力の限りを尽くして暴れ回る彼を父は必死に抑え込んだ。

 だがこれは制圧ではない。制圧にだけはなってはいけない。

 悲しい気持ちに必死に蓋をして、涙を必死に引込めて、「滅茶滅茶に暴れ回りたいのはこっちの方だ」なんて怒声を必死に喉の奥に隠して。

「良いか……! ベネノ! 俺はお前の父親だぞ! どれだけ頭を痛めてお前を産んだと思ってるんだ!」

「キャラクタが死んでも別に気になんてしてない癖に! 代わりなんて幾らでも量産できる癖に!!」

「馬鹿言うな! この頭の痛み、全員分覚えているんだぞ! 全員が全員可愛い可愛い俺の子ども達だ! だからそんな簡単に人を殺す話なんて書きたくないし、死にそうになってたら全力で助けに行く……命を賭そうとしていたら隠し子送り込んででもその運命を捻じ曲げてやる!! 俺はずっと前から……自分のこの手で教え子を殺してしまったあの日からそう決めている! お前が生まれるよりもずっとずっと、ずっと前からだ!」

「……」

「だから……頼むよ。お願いだから親の前で死にたいだなんて言わないでくれよ」

「……」

「お前は俺の、命より大切な可愛い子どもなんだよ!」

 涙と鼻水で顔をぐっちょぐちょにしながら胸の中全部吐き出す。こうやって抱き締めてやればまだまだこんなに温かいのに、まだまだ将来、時の向こう側に数多の道が隠れているというのに、まだまだ心臓は動いているっていうのに!

 冗談じゃない、そんな簡単に死なせたりするものか! 願われたって請われたってそんな望みは絶対に叶えてやらん!

 今までだって、自分が著した物語で人が死んだことは殆ど無い。あるとすれば本当に止むを得ない時だけだった。

 ――それをしなければ誰かが前へ進めない時。

 ――それをしなければ運命が崩壊してしまう時。

 ――覆せない、悪魔王と愛し子からの妨害を受けてしまった時。

 でも、それ以外の時は物凄い時間と労力をかけてキャラクタ達を死の淵から救ってきた。それこそシナリオを書き換えてでも。予定していた展開を全て擲ってでも。


「じゃあ」


 動悸はなおも激しいままの興奮した体。

 暫くは黙って父の言う事を聞いていたが、彼の言葉がふと途絶えたその時。

 声をくしゃ、と悲しそうに歪めたベネノがぽつりと小さな声で言い始めた。


「何でマモンには平気で刃を向けることが出来たの……?」


「何で怜さんに殺しの道具を持たせたの?」


「何でジャックの心を壊したの!?」


「何で僕らの話を聞いてくれなかったの!!」



 目を見開き、顎をガクガク震わせる。

 何で? 何で……。




「貴方の敵が……貴方の敵が僕の英雄だったことを、幾ら言ってもあなた達は耳を貸さないで、目も向けないで……!」


「散々虐めるだけ虐め倒して、あんなに滅茶苦茶にして! 彼のことを、皆のことをあれだけ追いつめて! 暴走させて!」


「それで僕を助けるだなんだって勝手に言って、自分は良い父親ぶるって訳なんだ? 僕の友達のことには全然目も向けてくれなかった癖に!!」


「冗談じゃない、どんだけ傲慢なんだよ!」


「どの口が僕を助けるなんて言ってるの!? 生意気な人殺しの癖に!!」




 少年の双眸から溢れんばかりの涙がぽろぽろ零れ落ちる。

 もうその喉はすっかり枯れ果てた。それだけ、とげとげした気持ちが彼の胸中を埋め尽くしていたこと。そのとげとげが彼の心と喉と、その他大勢の「何か」を傷つけながら飛び出していったこと。

 想像に難くなかった。


 そこに自分は多くの責任を感じている。


 だが自分は、彼の問いに答えることができない。

 ただ唇を噛みしめながらただ黙るしかない。


 何で何でと、泣き叫びながら運命の理不尽さを問う少年。

 その言葉を唯ひたすら聞くしかなくて、聞くしかなくて。


 俺は汚れた大人だと。

 いつだか怜がぽつ、と言っていたのをふと。

 思い出したりしながら。






 * * *






 ――、――。


 マモンの願いはこの世界から苦しみをなくすことだった。


 僕だって同じだ。親友のジャックが物語に心を壊された。それからずっと彼らを憎み続け、今日この日まで戦い続けてきた。


 ――そして今も。

 戦い続けている。


 心の奥で。

 時の奥で。


 ――、――。



『ベネノ。嗚呼、私のchico lindo愛し子


『もう、これで終わりにしましょう』


『約束、しマすよ。もウこれ以上、貴方、を、傷つケハしナい』


 そこで目の前の影はげぼげぼと何かをしとど吐いた。

 もう、ボロボロ。


 手を伸ばしたくても届かない。

 最後に一目と思っても。視界がぼやけてしまって仕方がない。


 その顔をもっと近くでよく見せて。

 お願いだよ。お願いだよ。


 最後まで一緒に戦うって、約束したじゃん。


『この体ガ、限界を迎えても。コの世界が、もシモ終わりを迎えタとしても……私は「主」ヲ、必ず助けルト、心に誓ッたのです』


『ね、主』


『……』


『……、……』


『……ふ』


『フフ、不思議』


『こんな子ドモ、あの時の衝撃で意識なぞ今は無い筈なのに』


『……』


『……、……』


『……利用してキただけの、唯の子ども』


『私のの主ハ紙となってもう久シい筈、なのに』


『なのに……』


『私、ハ、貴方――、――――テ――――ナイ』


 何? よく聞こえないよ。


『――――――』


『……』


『……』


『主』


『私ヲ――』


『――』


『――――サイ、――』


『主』




『さよなら』




 ――、――。


「あの時怜さんがぐったりしてるのを見て、周りで皆が怜さんのことを心配してるのを見て……その瞬間世界が全部粉々に崩れたみたいになった」


「真っ暗になるんだよ……」


「余りにあの時と似ていたから、かな」


 言いながら少年は悔し気に組んだ自らの手をももの辺りに置きながら、またぽたぽたと雨雫が葉から垂れるような小さな涙を零す。


「僕を膝に抱えてジャックが泣き叫んだんだ。ごめん、ごめんって何度も何度も謝りながら」


「……」


「……よく覚えている。嗚呼よく覚えているともさ! 僕の脳天かち割ったのは自分なのに……それが逆に耐えられなかったんだよ、彼は優しい男の子、だから」


「なのに」


「なのに!」


 自分を殴り付けたくて仕方のない拳がももを叩きつける。


「僕がこれまでの経緯から導き出した答えは、そんな世界の再来だった!」


「ろくに力も活用できず、猛毒を薬に変換して誰かを助けることもできず」


「マモンのことを慰められるほどの大きな器も最後まで持てず、唯目の前にある物を壊して回って……うぬぼれたまま世界を、皆の住む場所と皆の命とをいたずらに奪ってしまった……!」


「そうして、こうやって生意気にも僕だけがこうして生き残ってしまっている」


「皆、一つずつ涙と痛みを飲み込んだのに……僕だけが、僕だけが!」



「……謝れるなら今からでも謝って回りたいぐらいだよ」




「でも」




「でももう、遅いんだ。全部が、何もかもがもう遅いんだ」




「世界は壊れた……」


「僕のせいで、壊れてしまった……」




「皆を壊したのは、怜さんを殺したのは、マモンを追い詰めてしまったのは僕のせいだ……! この世界をこんなにしたのも僕のせい、僕が生きてるから皆が不幸になる!! 僕のせいで、僕のせいで……!! みんなみんな僕のせいで!!」



「それは違う!!」



 堪らなくなって話に割り込んで、今度は彼のことを真正面からぎゅうと抱き締める。こんなにかたかた震えて……一体幾つの重荷をこの小さな体にしょわせてしまっていたか!

「お前のせいじゃないよ……この物語が始まったその時からこうなることは分かっていたんだよ……きっと」

「……」

「今の俺達には力不足だった。だから避けられなかった。唯それだけなんだよ」

「でも、でも僕が居さえしなければこんな展開にはならなかったし、そもそもこんな物語も生まれなかった」

「ベネノ」

「マモンだって、もっと時間をゆっくり使って考え直していたかも分からない。怜さんだって今頃元気に誰かと話していたかもしれないし、異世界のあの蛙の王様もあの町も平和なまま何気ない日常を送っていたかもしれないし、千草も幸せな生活を送っていたかもしれないし、SFだって、もっと、もっと面白くなっていたかもしれないし!」

「ベネノ、そんなに自分を責めないで」

「責めないでいろなんて、そっちの方がどうかしてるよ! だって! だって」

 そこまで一気呵成にまくし立てて突然過呼吸を起こし始めるベネノ。


「だって」


「だって」


「僕、さえ……いなければ……」

「やめろベネノ。そんなはずはない!」


「僕さえ生まれてこなければ! 今頃日常は!」

「変わる訳はない! 『運命の書』は良くも悪くも絶対だ!」

「じゃあその未来を見せてよ!!」


 胸倉に勢いよく掴みかかり、わんわん泣いて訴えた。


「僕が居なくっても、僕なんかが居なくても不幸になる世界があるんなら見せてみろ! 今直ぐに!!」


「どうせ無理なんだろ……適当な事言って、適当に慰めるために言ってんだろ!」

「そんなこと……!」


「お願いだよ……もう限界なんだ。もう疲れたんだよ。殺してよ、殺してよ……」


「こんな、罪だらけの世界になんてもう居たくないよ……」




「追い出して……紙にして」




「幸せな顔した皆に……マモンに会わせて」




 そこまで言って、遂には泣き崩れたベネノ。自分の直ぐ隣の窓から見える世界の様子は――。


 首を振って唯ひたすら息子を抱き締める父の寂しい背中に斧繡鬼は苦い思いを噛み潰していた。

 自分にも相当な希死念慮を抱く時期が何度かあった。

 その度にな天の助けがありその度に一命を取り留めたわけだが、あの時はどうして自分なんかがこんなにも助かってしまうのかと不思議でならなかった。


 人はよく、止まない雨はないという。


 今この瞬間を生きる身からすればそれは正しい言説であろうと、今ならば納得できる。辛く苦しい出来事の先には必ず良い出来事が待っているものだ。人生とは、運命とは幸と不幸の半分半分で出来ているのだから。


 しかしそれは雨が止んだ朝を迎えた人がいう言葉。


 雨止まぬ夜を何日も何日も迎えてきた人にそんな言葉が響く筈がない。ずっとその言葉を信じて雨に打たれ続けてきたのに止む気配のない雨。その雲の向こうの「日」をどうして信じていられようか。

 そう。

 この子に真に必要なのは朝が来ればきっと止むという希望論なんかじゃない。

 その雨に打たれている人に傘をさしてやり、一緒に雨を凌いでくれる仲間。

 隠れ家だ。


 そう二人に言おうかと足を一歩踏み出したところで、彼らのもとに一本の通信が入ってきた。

 宛先は「ファートム」。だが、どう見ても相手が通信を受けられるような状況ではないので代わりに出ておく。

「もしもし、こちら斧繡鬼。先生が今取り込み中で出られないのでこちらが代わりに受信した。要件は何だ?」

『ゲッ、死神』

「……その声はナナシか?」

『ボク、今喋る気分じゃなくなったから黒耀に代わるね』

「え? じゃ、じゃあ何でお前が連絡してきたんだよ!」

『あー煩い煩い』

「おいナナシ! あの時はめっちゃ一緒に戦ったじゃないかぁ!」

 そのまま物凄い滑らかな流れで黒耀に渡された通信。

 少し傷ついたが気にしてない風にふむふむと彼の説明を聞いていた。

 暫くして。

 最後にその口から発せられたのは驚くべき内容だった。


「何……? !? いつから!」


 驚きの余り叫んだ言葉に同じく驚愕の表情を向けた剣俠鬼と運命神。


「マモン、僕を同じ場所に連れてってよ」


 ベネノが父の腕の中でそう小さく呟いたのと全くの同時刻であった。


 * * *


 物凄い音と地響きに襲われたのはその直後のことである。


「うわわっ!!」

「先生!」


 壁を突き破り幾つもの「陰」の手がファートムと少年に絡みつく。

「この……!! 【光よ!!】」

 疲れ果てた体に鞭打って眩い聖光を繰り出せば、その瞬間は引込んだが増援が止まらない。

「マモン! マモン来てくれたんだね!」

 おまけにベネノはそちらに向かって手を伸ばす始末。

 なるほど、この「陰」を呼び寄せたのは主人であるベネノというわけだ。

「斧繡鬼、剣俠鬼、この子を早く! 神殿まで! 急いで!」

「嫌だ! 放して! マモン助けて!」

「先生は! どうするんですか!」

「勿論一緒に行く。だけどここを脱出するまでは俺が食い止めないと――」

「何言ってんだ馬鹿野郎! お前が死んだら意味ねえっつってんだよ! 話聞いてんのかお前は!」

「あれ、あれれれれれ」

 首根っこを引っ掴まれて一緒に脱出すれば、眼下で隅谷の宿が完全に破壊されるのを直後、目撃する。

 そこで蠢いているのはおびただしい数の手、手、手。

 主人であるベネノをうぞうぞと探している。

「早く。この子の願いが彼に届かぬ所へ!」

 そうして三人と一人で神殿へと急ぐがベネノがそれに対して大人しく応じる訳がなかった。第五話の冒頭のように、両掌を合わせた状態で拘束されながら移動している訳だが、その状態で何と剣俠鬼の手を通して腕に「猛毒」を打ち込みやがった。

「グァ……!」

 余りの激痛に思わず体を離してしまう。

 しまった、と手を慌てて伸ばすも、ベネノが剣俠鬼に打ち込んだ「猛毒」を体中に広げるものだからたまったものではない。

「ギャアアアア!!」

「蛇! しっかりしろ!」

 慌てて目玉を潰し事なきを得たが、少年の方はもう間に合わない。

 勢いよく落下していった小さな体を空に伸ばされた「陰」の手が捉えた。そのまま自身の「陰」の海まで引きずり込んでいく。

「クソ! ベネノ!」

 慌てて向かおうとするも数多の「手」がその救援を阻む。

「ベネノ! ベネノ待ってくれ! いかないで!!」

 生温かい海にどんどん沈んでいく彼のその表情に心がまた痛む。

 折角取り返したのに……!


「ベネノ!」


「帰ってきてくれ!!」


 隣でそんな悠長な事、もう言ってられないという斧繡鬼。

 もう駄目です、退避しましょうと叫ぶ剣俠鬼。


 でも聞こえなかった。

 聞きたくなかった。


 それでは自分が何のためにここに来たのか分からないじゃないか!

 自分は、自分はあの子を取り戻す為にこうやってずっと戦ってきた……戦ってきたのに……!

 こんな終わり方、あんまりじゃないか!!


 まだ姿が見えるなら。

 まだその瞳が俺の姿を捉えているのなら!


 まだ希望があると信じたい。

 まだ君を救えると信じていたい!


 お願いだから帰ってきてくれ……。

 帰ってきてくれよ!


 ベネノ!






 ベネノ!!






「ベネノォォォーッ!!」






 喉をちぎらんばかりの絶叫が空にこだまし、肩から外れんばかりの勢いで腕を彼の方に向かって伸ばした。






 ……、……。













 ――その時。


 ベネノの願いにマモンが応えたように。

 ファートムの願いに応じるように一筋の光が彼らの横を鋭く駆け抜けていった。


 空虚な幸せに身を沈めていく座敷童の消えゆく手を勢いよく掴み、引きずり出そうと懸命に羽をばたつかせる。


 それは……。




「エンジェル?」




 * * *




「帰ってきて……帰ってきなさいよ!」


 一本だけ空に伸びる座敷童の手。それを掴みながら必死に訴えかけるエンジェル。


「あの時マモンさんの記憶を見て……アンタ覚悟したんでしょ!? 忘れたわけ!? ねえ!」


「私一人じゃ無理なのよ! あなたがいなきゃ……! あなたがいなくちゃいずれ本当にダメになる!」


「私はマモンさんを助けたいの! あなたが必要なの!!」


「あなたの感情を真似する事しかできない私には……空っぽの私には、あなたが必要なのよ!!」


「お願いだよ、起きてよ!!」


「この意気地なし! 無責任!!」


 必死に訴えかけるも、その手にはずるずると「陰」が這い上がってきていた。

 エンジェルの滞空している体がどんどん引っ張られていく。

 遂には首にも巻き付いた。


「ねえ、起きてよ! 皆が待ってる! 読者が待ってる!! お父さんが待ってる!! 友達が待ってる!!」


 それでも叫ぶのをやめない少女。

 元は命なき少女。

「執着」に利用され続けそうになったところをマモンに助けられた少女。


あなたの大切なひとマモンさんが待ってる……!!」


 ベネノと出会って、自分に足りないものを少しずつ理解していった少女。

 この座敷童に運命を変えられたもう一人の少女。


 その姿を運命神の瞳が捉えていた。


 震える手が、もう霊力も僅かしか残っていない手が万年筆をもう一度強く握り直す。――友とお揃いのその万年筆を。

 友の真似なんかをするように。

 最後の力を振り絞って「運命の書」にそのペン先を当てた。


「剣俠鬼、斧繡鬼。護衛を頼む」


 それだけ言った後、物凄い速度で一つの展開を書き上げ、彼はその数頁を勢いよく破った。

 それは第六話、人生の創造者シナリオブレイカー小沢怜が物語を作り替えた時の景色。

 あの時も、世界は――。


 世界はこんな風に美しかった。






「物語よ。世界を新しく作り変え、吾らを導き給え」






「どうか誰かの幸せとなりますよう」






 そう言って紙束を風に乗せ、世界へと美しく巡らせていく。


 淡い、無数の光となりながら物語は世界の端々へと溶けていった。

 それはまるで春の終わりに桜が散るかのような美しさと儚さで。




 その瞬間「天使の梯子薄明光線」がエンジェルとベネノの上空から降り注ぎ、二人の体を温かな光の中に浮き上がらせた。

「陰」から解き放たれた座敷童の体を転瞬、勢いよく引っ掴み、抱き締めたエンジェル。そのまま自分が目指す先の方へと飛び去って行った。

 それを「陰」の手が追いかけて行くが全て運命神が放った「天使の梯子」によって全て打ち砕かれていく。


「エンジェル……息子を、頼んだよ」


 そこで運命神はとうとう目を閉じ、静かに意識を失った。

 突然のことに一瞬心配した死神一同だが、ただ疲れて気を失っているだけだと知ると途端に安堵の息を零した。

「そりゃ疲れるさ。運動不足だもん」

 取り落としかけた大事な書と万年筆を大事に彼の胸元にしまってやった斧繡鬼。

 これから死神二人は行動を別にする。

 剣俠鬼はシェリング博士の研究所へ運命神を運ぶべく出立、斧繡鬼は行方不明となっている和樹を探しにいくために彼らとは逆方向を向いた。

 結ってある髪を結び直して気合を入れる。

 組み紐は死神の姫が編んでくれた物だった。

「斧繡鬼」

「あに?」

「絶対に、生きて帰ってきてください。先生を送り届けたら私もそちらに参りますから、それまでは絶対に死なないように」

「分かってるよ。ごちゃごちゃうっさいなぁ、この蛇は」

 冗談交じりにからから笑う彼の大きな手を握り、剣俠鬼はもう一度


「絶対に死なないで」


と念を押した。


「あなたを待っている物語もあるのだから」


 その必死な顔に一瞬きょとんとしつつもふっと笑み、

「ありがとな」

と一言。


「だがお前は俺のよりも自分の心配をした方が良いかもな」


「だって、俺。お前より何億倍も強いんだもん」


(つづく)

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