最後のチャンス
「もしも」
「神様がいるのなら」
――か。
確かにあの時は、私の中に神様がいた。
* * *
彼を初めて知ったのは中学校の文化祭公演。
眩く輝く汗、心震わせるその声の不思議。
圧倒的存在感、渦潮のように回る心に、眩暈のような感動。
あの時から彼はずっと役者だった。
そこで彼を知ってから初めて舞台に興味を持つようになって、様々な公演を少ないお小遣いはたいて観に行った。特に『銀の狼』や『エリザベート』や『Never Say Goodbye』等といったミュージカルに好んで手を伸ばすようになった。
私に似た人。
私とはかけ離れた人。
彼に似た人。
彼、彼――。
歌を歌っては劇中人物にこの身を重ね、その世界に身を溶かした。居づらさに泣く日々。それを埋めるように夢の中に逃げた日々。
憧れになり切って、いつかその手を取りたいと焦がれた日々。
届かぬ想いだった。でも叶えたくて必死に手を伸ばした。
そう。あれは、確かに「恋」だった。
『君はこれからその恋を目覚めさせ、「愛」に昇華させるんだ。人生の主人公になって、新たな物語を展開させなさい。そうしていつか、自分の中で尽きない夢を実現させるんだよ』
『これからが、君の本当の物語なんだ』
高校が決まって、いじめっ子グループとの決別が決定的になった時、自分の中で神様がそう言った気がした。
それからというもの、勉強に手が付かなくなって本来だったら入学までにやっておかなければならない宿題にはほとんど集中できなかった。
兎に角先輩に再会できることが嬉しくて。
高校できっと演劇部に入って、彼の傍で例え小さくとも演じられる幸せに身をよじらせて。楽しみを毎日夢想しては頬が緩んだ。
毎日毎日、沢山沢山、楽しく派手で煌びやかな歌を歌い続け、踊り続けた。
道を歩いても口から溢れ出る喜び。胸のときめき。
笑顔が増えた、綺麗になったと言われた時はそうかな? なんてとぼけつつも内心凄く嬉しかった。
本当に、本当に新しい物語が始まったんだ、って思った。
――思ったのに。
「敵役にも人生はあるんだよ。誰しもが最初から善悪を定められて生まれたわけじゃない」
「正義の対義語は誰かの正義。決してそこに善悪を当て嵌めることはできないんだ」
どこで聞いたか今ではすっかり忘れてしまったその言葉を、教室の隅で泣きながら痛感した。
皆のゴミでも見るような目。
震える紅い手。
鉄臭いその場に、目の前で悪役と信じて疑わなかった少女の無残な姿。
何より先輩からの絶交宣言。
私の目の前で私の偽物はあんなに輝き、満たされていたというのに。
この世は自分と相反するものに対して厳しすぎる。
……そう思ってはいけないのでしょうか。
そう思うのは果たして罪なのでしょうか。
もう今では分からなくなってしまった。
またうずくまって外の楽し気な雰囲気、音に耳をすませた。
歌が口をついて零れ始める。
「愛の真実」。『Never Say Goodbye』で歌われたキャサリンのジョルジュへの想いを綴った主題歌。
彼女達のドラマと比べて私のそれは本当に汚くて愚かだけど、その歌だけは私の人生を代弁しているように感じた。
歌えば歌う程、涙が溢れてやまなくて。声も震えて、最低なのに何故だか心だけはずっとずっと震えていた。
否、その震えは自分に対する恥辱の表明だったのかも。
――嗚呼。私は何をしていれば許された?
――嗚呼! どうしてこんな人生ばかり歩まされた?
正解は、どこにあった?
本当に、本当に悔やんでも悔やみきれない。人生の転換点を作ったのは貴方だったのに、私は貴方の人生に何も返せなかったばかりか、心を傷つけ、消えない汚点まで作ってしまった。
でも、でも……本当に貴方の心を取り戻したかっただけだったの。
こっちを見て欲しかったし、手をずっと握っていて欲しかったし、何なら私の顔を見て私の名前を呼んで欲しかった。
生きる意味や楽しみ、実らせるまでの苦しみも痛みも……人生の意味の全てを作ってくれたのは貴方だった。
これだけは紛れもない真実。揺らがない私が生きる意味!
――でも結局「恋」は「恋」のままで、「憧れ」は「憧れ」のまま終わり、一度だって「愛」に昇華されることはなかった。
神様なんて、最初からいなかったのだ。
* * *
何もかもに絶望したあの時、手を差し伸べてくれた彼女。
自分の居場所を物語から完全に失してしまった私は彼女のアジトの隅っこを貸してもらいながら色んなことを話した。
『エンジェルはどうして私に手を差し伸べてくれるの』
『私にも助けたいひとがいる。その姿が、何だか似ている気がした。それだけ』
『助けたいひと?』
『とある思想を盲信するひとがいる。その信仰のおかげで私はこうして生きられたのだけど、彼は崩壊に向かって歩みを止めない』
『……』
『先生からその事についての懸念を言われた時、直ぐに思った。助けに行きたい。出来ることなら、手遅れになる前に私のこの手で』
『エンジェルも戦っているんだね』
『……だから今の私達には違う意味で「シナリオブレイク」が必要。あの偽者達に狂わされた物語を元に戻して、追い出して、そして世界を再建し直す必要がある』
『……それが私達の歩むべき道?』
『補正が元の場所に戻れば、どんな紆余曲折があろうとも物語は絶対に元の場所へ戻る。どんな犠牲があろうと、どんな屈折があろうと』
『……』
『誰かを殺そうと、大元の世界たる「ストリテラ」に影響は出ない。彼らも本当に死ぬわけじゃない』
『死なないの? 何しても』
『キャラクタ達が命を賭した戦いをしているように見えるのは、実はその背後で確実な命の安全が神の手によって保障されているからだよ。それに「ストリテラ」における本当の意味の死は「紙に戻ること」。貴方も知ってたとは思うけど』
『いや、それは知らなかった……けど……そう、なんだ』
だから、紙にさえ戻らなければあの女に何をやっても良いと説かれた。
逆にそれぐらいしなければ彼女達は止まらず、私達の明日は刻一刻と短くなるだけだとも説かれた。
それを頑なに信じ、正義を振りかざして今までを走り抜けてきた。
それがまずかった。甘言、だったんだと思う。
兎に角謝りたい。誠心誠意を込めて、謝って、罪を清算……いや、そんなこと許されるはずはないのだけれど、でも。
彼にだけは伝えたい。
これまで何があったのか、どうしてこんなことに手を染めてしまったのか。
貴方をどれだけ想い続けてきたか、貴方にどれだけ憧れてきていたか。
どれだけ反省しているか、どれだけ貴方を愛しているか。
話を例え聞いてもらえなくても、例え許してもらえなくても――いいえ、本当は許して欲しい。
そして改めて私を愛して欲しい。恋をしたい。
許して、許して……こんな私を許して欲しい……!
言い訳にしか聞こえないかもしれない、けれど……!
「富士子」
その時。
不意に教室の扉が開いた。
校庭に一人置いてきてしまった彼女が立っている。
……何を今更。
苦く思い、そっぽを向くと視界の外側で彼女は小さく言った。
「ごめん」
「分かってはもらえないかもしれないけど、私達は正しい事をしていた。その意味は三話程後にきっと、明らかになる」
「だけど、それが結果的に貴方の心を傷つけてしまった。踏みにじってしまった」
「……こんなことを言っても言い訳じみて仕方ないかもしれないけど、私には感情が無いから」
「一つ一つこうして経験を積んでいかなければ、分からない。それに、巻き込んでしまったの。ごめん」
無言を貫き通した。
許せはしなかったけど、でも、同情はした。
でもそれは伝えられなかった。
結局私は誰よりも弱虫なんだと思う。
「お詫びと言ってはなんだけど、先輩ならこの後四時に三年三組に来る。そこであの偽者の少女と彼の恋愛が確定的なものになる」
「彼の心を取り戻せる最後のチャンスになる」
最後の……。
「それだけ、だよ」
「……」
「じゃあ。またね」
そうして羽ばたく音が聞こえたかと思うと、何枚かの羽根だけを残して彼女は消えてしまっていた。
その一枚を手に取って、床に投げつけてやろうと振りかぶって。
……。
……、……。
――出来なくて、何だか困った。
(つづく)
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