蛙の王
「何、これ……」
「今更ですよ、主」
力を振り絞って開け放った扉の先。泥沼のようにそこら中にこびりつく「陰」の量に眩暈がした。
手すりから絨毯から床から天井から調度品から……何から何まで覆い、ねばねばと糸を引く「陰」。その量の多さについては窓から殆ど光が入ってこないことを見れば一目瞭然。
むわっとした空気と命でぶくぶくと肥えた陰が放つ独特の雰囲気。泡立ち盛んたるその粘液はずっと上、そしてずっと奥の方まで続いていた。
「臭っ」
ジャックが思わず袖で自らの鼻を塞ぐ。
間違いない。相手は「陰」にこの町の生命を悉く与えている。捧げた上でそれがもたらす強大な力を我が物にしているのだ。
不気味な程の静けさ。
「やっぱ城ん中も人いねぇな……物音ひとつ立ちゃしねぇ」
「『陰』のせいじゃなくてもここには長くいれないよ。もう吐きそうだもん」
「同上。ガスマスクとか欲しいね」
ふと見るとマモンが近くに溜まった「陰」の一部を手に取りよくよく観察している。――って、ちょ、お前!
「何してんだよ! 危ないだろ!」
「失礼な、私だって『陰』の操者ですからね。これ位何ともないです」
ちょっとムッとしながら言うマモン。可愛くないからな、冗談も顔も。
「それより主、ご覧ください」
「何」
「この『陰』の操者、姿を隠すのが下手ですよ」
そう言って「陰」を尚も持ちながら手を引いたマモン。するとずるずると一本の縄か紐かのような形状の「陰」が引きずり出された。次のそれを掴み引き出せば、また同様にずるずると出てくる。
「な、どういうこと……」
「まるで木の根のようだ」
ほんのり笑みなんかも浮かべつつマモンはやがて全ての「陰」を引っ張り出し尽くした。
その先端を次々に壁に貼り付け、行く先を示していく。
おかげで、全て同じ方向に収束しているのが一目で分かった。
「この先に、居るの」
「間違いなく」
ごくりと喉を鳴らした。明らかに奥の方から禍々しさが溢れ出てきている。
怖い。
「よ、よし、行こうぜ。全員離れるなよ」
「うん」
歩き出した隣で先程の陰溜まりから勢いよく触手のようなそれが城の外に向かって伸びた。
――また喰うんだ。
遠くで悲鳴が聞こえる。
見ていられなくてジャックにくっついた。玄関から廊下に出て曲がった瞬間、扉で死角になったそこで嫌な音がした。
早く何とかしないと。
* * *
「陰」を避けながらそこら中を探索する。
途中、溜まったへどろのようになった「陰」が台所で山になっていたのを見た。
その中からだらりと力なく垂れた腕が突き出ている。
慌てて駆け寄ろうとしてマモンに止められる。
「やめておきなさい。もう助からない」
「……」
「二の舞を演じたくなければ迂闊に手を出さないことです」
こんなことが二、三度。
奥に行くにつれてどんどん息苦しさと「陰」の量は増していった。ジャックは一度吐いてしまった。
「ジャック、しっかり」
「わり。カッコ悪いとこ見せたな」
「仕方ないですよ、それだけラスボスの居所が近いということです」
「おうよ……」
ふらふらと立ち上がる。腰に提げた袋から小さな丸薬を二つ取り出し、口の中に放り込む。毒消しだ。
「おかしい。ペンダントの聖光は……?」
その後小さな声で呟くのを確かに聞いた。
……。
* * *
「ここですね」
根――否、ここまでくると最早血管のような「陰」に誘われるまま最終的には城の中心部「玉座の間」まで辿り着いた。扉を突き破りそうな程の量がこびりつく周囲。音も臭いも全てが致命的。隣でジャックがまた毒消しを口に放り込む。
この奥でぶよぶよと民の命で肥え太った個体が動く音が微かではあるが確かに聞こえた。
間違いない。最終到達地点はここだ。
「二人は下がっていてください。『強欲』で何とかしてはみますが絶対に飛び散らないとは言えません。胸に付けば命を吸われますよ」
「陰」の操者であるマモンが率先して前に出る。
「ジャック、動ける?」
「何のこれしき」
相当ふらついているジャックを庇いながら距離を取る。
「凄い汗だよ? 本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だってば。今までもこんな事では倒れなかったんだから」
本当に……? 本当に大丈夫なのかな。
【ヒトより生まれ出でし憎悪と負の怨念よ、今一度我が手に宿り道を拓き給え】
その間にもマモンは右手を発光させ精神を統一。その後一気に目を見開いて彼は目の前の相当数の「陰」をその身に取り込んだ。
ズオオ……!
「まるで掃除機だな、アイツ」
「そう、だね」
やがて全ての「陰」が取り除かれると、玉座の間に繋がる扉は勝手に開かれた。
その奥に居たのは見上げる程の醜い巨体。
ぬらぬらとてかった肌、ぎょろぎょろと動く飛び出そうな目玉。その表面や周りを「陰」が糸引きながら覆っている。口周りは常時ごぼごぼと零れ落ちる「陰」でべたべたで床には大量のへどろのように溜まっている。
これにはどんな蛙好きでも流石に引くかもしれない……。
「これは……『陰』の汚染が相当進んでいますね」
「あわわわ」
「キモ」
一言ペッと吐き捨てるように言ったジャック。
背負った釘バットをジャキンと相手に向けて突き出す。
「蛙の王、いざ覚悟!」
相手も咆哮し、戦闘態勢に入った。
僕もマモンを鎌として召喚し、開眼する。
「行くぞ!」
ジャックの合図で二人一気に飛び出した。
* * *
僕ら二人で飛びかかった瞬間口から大量の「陰」をげぼげぼと吐き出す王。
「うわわ!」
慌てて跳躍し、回避。
酸性の液体でもかかったかのように床がじゅうと言って焼ける。
『大丈夫ですか、二人とも!』
「問題ねぇよ」
「何とか!」
『何度も繰り返すようですが、「陰」が胸に触れればそこから染みて心臓を意識ごと乗っ取られます。体に付けば振り落とさない限り心臓の真上を目指すでしょう』
「……」
またがばりと毒消しを飲むジャック。個数がちょっと増えていた。
『要は変幻自在な巨大ヒルです。王の吐き出す「陰」には細心の注意を!』
「分かってらぁ!」
踏み込み、飛び出すジャック。後に続いた。
「見ろ、ベネノ!」
「どこ!」
「奴の王冠の中だ」
ジャックの人差し指が真っ直ぐ指すその先。王が飛び上がって「陰」を撒き散らす瞬間、確かにそれは見えた。
――第三の、目?
「目ん玉がもう一つある!?」
「隠すからには何かある! ゲームじゃ常識だな!」
「確かに!」
「二手に分かれよう、元気そうなお前は跳躍してアイツの頭上を目指せ! 俺は奴の攻撃を引き付ける。弱点を奴が晒したら俺がペンダントの聖光でぶっ潰す――どうだ? 相手に対策取られるまではこれを暫くは続けようと思うんだが」
「えっ!? 大丈夫なの!?」
「何が」
「え……その、体調とか色々……」
「何言ってやがる! それは大丈夫だって言ってんだろ!」
「あ、じゃあ良いと思う。うん、ばっちり」
「よぉし」
それでも何だか胸のつっかかりが取れない。
勢いよく首を振って、頭からその考えを取り払う。
今は信頼だ。
ここで流れを乱す訳にはいかない。
「そういえばお前は悪魔の愛し子だか何かだって言ってたな!」
「そ、そうだよ」
「聖光がやばいなら直ぐに退避しろよ! 躊躇せずぶっ放すからな!」
「相分かった!」
返事をした瞬間ジャックが釘バットで王を殴り付けにかかった。その勢いに王が押され片脚が持ち上がる。その瞬間を見逃さず股下を滑り込むようにして移動し、反対側に回った。
「マモン、飛翔できるよね!」
『勿論です。でも手は絶対に離さないでくださいよ!』
「分かってる!」
『いちにのさんで飛びます!』
王が蛙らしく舌を伸ばしてジャックに向かって振るう。大きく跳躍して避けた先、舌が壁に亀裂を入れ、ガラス窓を衝撃波だけでぶち破った。かなり高い位置にこの部屋があるからか、大風が吹き込んでくる。
目を開けるのも大変で息が出来ない。
ジャックは!
「ウグッ――ジャック、大、丈夫!?」
「俺のことは良い! 早く弱点を!」
「あ、そ、そうだ、そうだった!」
「頼んだぞ!」
一気に決める!
『行きますよ! いち、にの』
ぐっと踏み込む。
『さん!!』
翼が風を受け、揚力で舞い上がるような感覚をその日初めて知った。
一気に上空へ飛び立ち、王の頭上を捉える。
一直線、王冠へ!
「どりゃああああああ!!」
青白く刃を閃かせ王冠を薙ぐ様にぶっ飛ばす。
「出た! 第三の目!」
「避けろ、ベネノ!!」
ジャックが首から外したペンダントを天に掲げるように突き上げる。
王の目が見開いた。させまいと慌てて舌を伸ばす。
「いけ、ジャック!!」
【
瞬間――!
――、――。
『愛し子よ、勝手はいかんな』
「……!?」
『補正は“勇者”のものだぞ』
ディア、ブロ……?
――瞬間。
視界に確かにそれは映った。
聖光が全く出ないペンダントを掲げながらジャックが口先で呟く。
何で。
舌は一寸の狂いなく彼の体に巻き付き、陰がごぷりと溜まるその中に一気に連れ去った。
口の中から手が弱弱しく伸びる。ペンダントがその手から零れ落ちた。
「ジャック! ジャック!!」
『行くな、今は私だけを見ていろ!』
助けに行かなければと手を伸ばすが、悪魔王に羽交い絞めにされた。力が強い、抜け出せない!
「やだやだ! マモン、助けて!」
『主!』
手を離れ、飛びかかろうとした鎌のマモンを悪魔王は足蹴だけで向こうにぶっ飛ばす。
『グアアア!』
「マモ――!」
『マモンじゃないんだ、愛し子よ。――嗚呼、お前なら愛してくれるな、私のことを』
「嫌――んぐ!」
仰向けに引き倒され、あの時みたいに唇を塞がれる。
喉に大量の陰が流し込まれた。直感でそれを悟った。
駄目だ、そんなことすれば……。
体が自分の物でなくなる……!
自分の、物、で……
な
* * *
衝撃で元の姿に戻ったマモンの元に飛び込んできたのは目の光を失したベネノ。
「……!」
慌てて腹から出したサーベルで受けるが彼の黒魔術の一発一発が重い。
――なるほど、そういうことか。
ミステリの後半、自分との戦いで見せたあの異常な強さ。
あれは元からこの子の物ではなかった。だから敵わなかったのだ。
あれは王の力だ。
しかし王の手駒になりながら彼は確かに自分の意識を取り戻した。――それも無意識の内に。
それ程の適性が生まれながらにあるということだ。
だからこそこの少年を自分は手放す訳にはいかない。
『マモン、諦めろ。罪を償え。この少年の命と引き換えだ』
「嫌、だ……!」
『ならば白状するか?』
「……!」
『どうして他の七つの大罪に手をかけた?』
「言うものか……! お前にはどうせ、分からない!」
『なら補正を返せ。もうお前にはそれしか残されていない』
「それも断る。主と私の夢だ!」
『主? 大層な言葉を覚えたな、マモン。使い魔如きが主君に抗えるはずがないのに。わざわざ自分の願いを叶えんとそれでも欲するか』
「それが約束というものだ」
『私の契約よりは軽いんだろうな』
「煩い、お前とはもう縁を切ったはずだ! 口出ししないでくれ!」
その瞬間頬を掠めた黒い炎に頬が焼けた。
その向こうで蛙の王が上を向きながら口をもぐもぐ動かしている。
今、この瞬間、不滅の勇者の身が溶かされている。
危機的状況。かなりマズい――!
今回だって入れ込まれた「陰」の量の多少に関わらず彼はその意識をいずれ取り戻すだろう。
その時目にする光景に彼はどんな言葉を発するか。
最悪の状況は避けなければならない。
全ては補正を取り込んだこの少年にかかっている!
「起きなさい、ベネノ! 貴方は何のためにここに降り立ったと思っている!」
『言うだけ無駄だ、やめろマモン』
「一緒に世界を手に入れると言ったあの約束はどうする気だ、親友が喰われたんだぞ……本当にそのまま王の言いなりになって良いのか!」
言葉を投げ続けても彼の目の光は一向に戻らない。
それでも、苦しくても自分は絶対に諦める訳にはいかなかった。
「いい加減にしろベネノ、私が見込んだのは弱虫の奥に確かに光る小さな野望だ! 誰かの言いなりになっていつまでも脇役で居続けるへなちょこなんかじゃない」
「……」
「未来の王だ!!」
彼の両手と自身の両手を組ませ、押し倒した。自分の出した陰で黒炎の出口を塞ぎ、頬を両手で挟んで必死に叫び続ける。
彼はそれを拒否するかのようにマモンの首に手をかけた。
「覚醒しろ、ベネノ! 頼む! 負けるんじゃない!」
「……」
「しっかりしろ、負けるな!」
「負けるな!!」
「お前は、私の、私の――」
「私の光じゃないか!」
(つづく)
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