小指の対価に生きましょう

別離

 妻夫木つまぶきあきみの、小指との別離の前日。

 あきみの頭に浮かぶのは、自慢の息子けんたのことだ。


 先日、あの子から言われた。


「母さんって何も見てないよな」




 秋口。

 息子の高校の進路面談の日、廊下で順番待ちをしていて、別クラスの母子と隣り合った。自然と発生する世間話。


 息子はいつになく不愛想だった。あきみはすかさず息子のフォローをした。


「ごめんなさいね、この子緊張してるみたいで」


「いえいえ、うちのたくやも、けんた君と同じ野球部なんですよー。それで、話しかけちゃって」


「ええー! そうなんですか? あらー、これからも仲良くしてあげてくださいね」




 それからひと月後のことだった。


 息子が自室から降りてきた。強張った顔つきだ。


「母さんさ、……知らなかったん、だよね……?」


「え?」


「まさたか、覚えてる? 俺が中一の時まあまあ仲良かったやつ」


「うん、もちろん」


「転校したじゃん? それさ、たくやがいじめてたからなんだよ」


「え、そっ……、」


 あきみの狼狽えようを予想していたように、息子は目を伏せた。


「お母さん知らなかったの……」


 息子は「だよね」と口元を無理に笑みの形にした。


 ――あきみは小指を切り落とす。明日の昼、夫も息子も外出している時間に切り落とす。ペンチはもう用意した。


 夫はあきみに家事も育児も任せきりで、あの日だって……なんて、こんな話はありきたりすぎてわざわざ回想するのも億劫だ。




 不意に電話が鳴った。しゅうとめだ。


「……あきみさん、用意できたん……?」


「ええ、用意は、はい」


「あのねえ……ごめんねえ……、あたしやっぱり、怖いんよ……」


「……だいじょうぶですよ、お義母さん、ご無理しないで、私だけで、大丈夫です」


「ほんとう? ……あら、でもねえ、そう……。ごめんなさいね本当に……」


 姑は器用に声を重たくさせた。しかし、その裏には責任を逃れた歓喜が仄見えた。


 でも、責めることはできない。あきみだって怖いからだ。


 姑との通話を切ると、息子が二階から降りてきた。


「けんちゃん、どしたの? 夜食?」


 あきみは意識的に声を明るくした。


「別に、腹減ったら自分で食べるから。いちいち干渉すんのやめて」


「……そうね、ごめんなさい」


「だから! 謝ることじゃないじゃん」


 息子の怒気混じりの声が怖い。


 息子はあきみにどうして欲しいのだろう? まだ、あの時のことを責めているのだろうか?


 息子がテーブルの、あきみの向かい側に座った。


 その手には珍しく携帯端末がない。息子は手持ち無沙汰な様子で、テーブルの傷をなぞっている。


 何か、話したいのだろうか?

 あきみは息子と話す話題が見つからない。ともかく心配を口にするしか思いつかない。


「……眠れないの?」


 息子は小さく肩で溜息を吐いた。煩わしそうだ。


「別にそういうんじゃないから。……てか、母さんのほうこそさ、……何か、あったの?」


 探るような視線。息子こそがあきみを心配していたのだと気づく。


「ううん、何もないよ? どうして?」


 ほんのわずかに、あきみの声が上擦る。


「あっ、そ……。なら、いいけど」


 息子は失意の色を滲ませて、苛立たしそうに再び二階に駆け上っていった。


 あの子の心配を無下にしてしまった……。


 それでも息子に告げるわけにはいかない。




 翌日、小指を切り落とした。


 そして、次の瞬間にあきみは病院にいた。息子と夫が深刻そうにベッドに横たわるあきみのそばに立っている。


 電子時計に目をやって、日付を確認した。


 成功だ。

 これで未来を変えることができる……。


 日付は一週間前に遡っていた。


 夫や息子の話からあきみは自転車に乗っていてこけたらしい。頭を激しく打ったので一日は病院で様子を見ることとなった。




 ――あきみが「小指」にまつわる都市伝説をネットで見かけたのはほんの数日前だ。

 数日前というのは、過去を遡る前においての、数日前だ。


 最初は、小指の爪を七ミリ伸ばして切ると願い事が叶うという噂だった。

 あきみは興味本位で実行した。願いが叶ってしまった。


 それから体の一部を差し出した分が多ければ多いほど、普通は実現不可能な願いまで叶うと書かれているネット記事を発見した。

 目安は、小指を付け根から切り落とすと数日過去に戻れる。


 いよいよ切羽詰まったあきみは、これを実行した。


 そして、成功したのだろう。確実に一週間も過去に来ているし、左手の小指がなくなっている。


 あきみがこれからしなければならないことは、何もしないこと。


 過去に戻り、それが叶った。望みが叶ったのだから「指切り」は金輪際しないつもりだった。




 だが、夫が海外で働くことになった。息子も夫と共に行くと決めてしまった。


 あきみは日本に残りたいと言い張った。あきみは、「妻夫木」の苗字を夫に返すことを決めた。


 渡航日、夫と息子の乗った車が事故に巻き込まれ、大破した。二人とも即死だったようだ。


 夜中、一人になった。あきみは引っ越すつもりでいたので、部屋は荷造り途中のまま殺風景だ。


 ダイニングテーブルに座って、両手を広げた。


 ――あら、小指ってもう一つあるじゃない。




 あきみは右手の小指との別離も果たした。一週間が巻き戻る。


 新しい土地に夢見る夫と息子の前であきみは倒れた。

 病院で受けた診断は過労だったが、思わぬことが発覚した。あきみは乳がんだった。


 海外出張の予定を取り止め病室に駆けつけた夫に、あきみは重々しく提案した。


「離婚しましょう。……迷惑かけられないわ」


「何言ってるんだ、君のことはおれが支える」


 頼もしくあきみの手を握る夫を数年振りに見ることができた。


 闘病中、夫や息子は尽くしてくれたが、彼らの心の奥底に自分の時間があきみの看病に奪われていく不満があった。


 申し訳なさに、耐えられない。


 あきみは、研修医と不倫してしまった。

 その過ちを打ち消すために今度は薬指を落とした。二週間前に遡った。




 それを何度も何度も繰り返した。

 自分の望む未来に辿り着けるように修正して、修正して。




 数年に渡り治療して、なんとか病気が完治した。

 退院日、夫がなにやら改まって病室を片付けるあきみを呼んだ。


 夫はなかなか話し出さない。逡巡している。息子も緊張気味だ。

 やがて、


「あきみ、母さんから全部聞いた。君が何度も時間をやり直していること。おかしいと思ってたんだ……。

 けんたも、おれも、交通事故で死んだ記憶があるんだ、それなのに気づいたらまだ君と離婚する前に巻き戻ってた……」


 あきみは歯噛みした。すべてバレていた……そして、実際はやり直せたわけではなかった。

 二人とも疑問を隠していただけだった。


 二人の口振りから察するに、時間が巻き戻っていることに気づいているのは、あきみと夫と息子だけのようだ。


 けんたがおずおずと切り出した。


「母さん、何でこんなことしたの?」


 ――あきみの最初の願いは、庭の木を元通りにすることだった。


 庭の手入れは大変だ。夫が手伝ってくれるならともかく、あきみの背丈より大きな木の剪定はつらかった。

 だから、姑と相談して、庭の木をすべて切り倒した。


 だが、その木は息子と、息子の友人のまさたかの思い出の木だった。

 まさたかから貰ってきた苗木を息子は大切に思ってきたらしかった。


 高校でいじめに遭い、転校してしまった友人。

 そのことで気が塞いでいる時に、母親に思い出の木を無造作に切り倒されてしまったら……。


 息子の胸中を思うといても立ってもいられなかった。

 だからせめて木だけでも元に戻そうと、小指の都市伝説を信じて実行した。


 そのことを説明すると、夫と息子はあきみを抱き締めた。


「ごめん、あきみ。そんなに思い詰めてたなんて知らなかった……」


「母さん、おれもごめん……」


 あきみは、ああ、と思った。

 両手を見下ろすと、指は十本ともなかった。


 ――指をすべて使い果たしちゃったけど、私はやっと幸せになれるんだ……。


 指を使えないあきみは当然、家事も料理もできない。しなくていい。それでも夫と息子は愛してくれる……。


 あきみは知らず、笑みを作った。


 今度は私が尽くされる側……。


「――それじゃあ、これからしばらくは母さんと一緒に暮らしてもらおっか?」


 それを口にしたのは夫で、夫が「母さん」と呼ぶのは姑のことだ。


 え……?


「そうだね、おれは学校行くし、父さんも仕事あるし……。母さんもそのほうが安心じゃない?」




 ひと月が経った。

 しゅうとめ宅で生活しながら続けた通院も今日で終わりだ。


 あきみの身に変化が起きた。不倫を取り消すために切り落としたはずの薬指が元に戻っているのだ。


 その日のうちに研修医が、個人的にあきみに連絡を取ってきた。

 あきみは再び――研修医にしてみれば初めてだが――不倫してしまった。


 それを夫に告げ、離婚に至った。夫は、あきみが不倫した過去を知っていたのですでに諦めきった顔で「引き留めても無駄みたいだね」と笑った。

 あきみは姑の家を出て、今や研修医だった彼の家で生活している。




 それで悟った。一度やり直した過去の過ちでも、元の筋書きに戻れば指も返却される。

 あきみは、取り返した過去の失敗を、もう一度失敗し直すことで、次々と指を取り戻していった。




 それからもうひと月が経つ頃。

 息子が連絡してきた。


『母さんにさ、会わせたいやつがいるっていうか、見せたいものがあるんだけど』


 あきみは元夫と離婚する前の家を訪ねた。


 庭に立つ木は、あれから何年も経って背をさらに高く伸ばしたが、枝葉はすっきりしていて、定期的に手入れがなされているのだと分かった。


 息子は、友人らを呼んでいた。友人らの中の、まさたか、という名前を聞いてあきみは懐かしかった。


 息子と友人ら、と顔を覗かせてくれた元夫は、総出で庭の木を切り倒した。


 これで指がそろった、ただ一つ、右手の小指を除いて。


 息子と元夫は、あきみの唯一取り戻せていない小指をじっと見詰めた。


 あきみの頬をつー、と涙が伝った。それでも自然と笑みが浮かんだ。


「……これは、いいの。この指はいいの。二人には、私、絶対、生きててもらいたいのよ」




〈完〉





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