#2.5 陽の下を歩きたい訳
外から雀の囀りが聞こえてくるこの時間帯、私は未だ布団の中に篭っていた。壁にかけられた、古めかしい柱時計のチャイムは既に七度鳴っている。ふらふらと起き上がって障子を開けると、そこに広がっていたのは曇り空だった。雨が降りそうな程ではなく、かといって晴れそうな空模様でもない。このある意味珍しい天気を窓の外から覗き見た私は確信した。
『今日は大丈夫、外に出られるだろう』と。
太陽の光が苦手だ。眩しいだけではなくて、私の身を土砂降りの雨か石打ち刑の小石のように痛めつけてくる。小さな頃から、晴れの日に外へ出て友人と遊ぶことは叶わず、今も晴れている日は夕方から夜にかけての短時間にしか出られない。だから私は次第に夜という時間帯を好むようになっていった。いや、夜にだけ生きているような感覚に陥るのだ。そんな私が『昼に生きたい、せめて少しだけでもいいから』と思える小さな出来事がつい先日に起きた。
人間誰でもちょっとしたきっかけで人生が変わることはあって、それが気づかないうちに、小波から絵画に描かれるくらい大きな波になることさえある。とはいえ、凶か吉かは後々になって漸く気がつくものだが。ほんの数日前のこと。夕方とはいえ、小腹が空いてしまった私は『ベーカリーナツメ』というこ綺麗なパン屋に入った。様々な店がひしめく商店街の一角、駄菓子屋の『あずま』からそう遠くないところにその店はある。ドアを開けて中へ入ると、焼きたてパンの香ばしい匂いと共に、若い女の店員が出迎えてくれた。名札の白いネームプレートには棗と刻まれているが、これが苗字だろうか。赤いギンガムチェックの三角巾に、明るいベージュの髪をポニーテールに纏めた彼女は、こちらに和やかな笑みをくれた。
朱色の光が窓から差し込むその時間帯、木組みの棚にあるはずのパンはほんの少ししか残っていなかった。食パンの棚は既に空だったし、あんパンやクリームパンといったものでさえ一つ二つ残っているだけである。サンドイッチなど殆ど取り尽くされているし、逆に残っているのはロールパンや切るのが面倒なバタールくらいだった。棚に並んでいるパン以外にも、木のテーブルの上に乗っている籠には、店の目玉か何かだと思われる変わった色のパンが入っていた。ただ、よく見るとその籠は小さく、中身のパンも一口サイズに切り分けられている。鉄のクリップで留められた雲形のポップには、『お一つどうぞ』と、太く丸っこい字で書かれていた。試食用だろうか。
「一口頂いてもよろしいですか?」
「ええ、構いませんよ」
私はなんだかふわふわした食感のパンを、小さな籠の中から一つ掴み取り、そのひとかけらを口にした。口の中にほんのりと広がる、いつか飲んだ緑茶の味。それが砂糖の甘さに包み込まれて、なんとも奇妙な、だが悪くはない感覚を味わった。
「いかがでしょうか……」
棗さんは心配そうに尋ねる。
「これは売れますよ。小さな子供のおやつとしても、大人のランチとしても、ね。私としても良い味だと思いますし、時間が経てば素晴らしさが必ず伝わりますよ」
私が素直な感想を述べた瞬間、彼女の顔がぱあっと明るくなった。
「新商品の抹茶蒸しパンです!一ヵ月の間だけ試験的に売り出そうと思いまして」
「常設メニューにした方がいいと思いますが。一月と言わず」
私が思わずそう言うと棗さんは目を輝かせて、
「ありがとうございます!宜しければ、他のパンも見て行ってくださいな」
屈託のない笑みを見せてくれた。
「ふふ……。では、お言葉に甘えさせて頂きますね」
他の籠を見てみると、そのうち一つにカレーパンが入っていた。熱さは感じない。作られてから少し経っているせいだろうか。籠の外にあるポップを見てみると、『ゆでたまご入りカレーパン』と書かれている。見た目は普通のカレーパンにしか見えないのだが、トングで掴んでみると少し重い。揚げたパンの中に何かがゴロゴロと入っているのは明白だった。ここの人は随分と面白いものを作るな、と思い、私は少しニヤけてしまった。
結局私は、紙袋がパンパンになる量のパンを買ってしまった。件の蒸しパンやカレーパン、売れ残っていた野菜たっぷりのサンドイッチ、一袋に五個入ったロールパン、瓶に入った普通の牛乳をレジに持って行くと、棗さんは少し戸惑いながらも会計を済ませてくれた。
「ありがとうございました!」
そう言ってお礼をしつつ、彼女は去っていく私を見送った。
今の私は旅館で暮らしていて、三食しっかり出ては来るのだが、それでも間食はしたいし、学院で教鞭をとっている間、食堂に並んでまでランチを食べるのは億劫だった。それに、あのパン屋は朝七時から営業している。朝早くから起きるのは辛いが、あのパンにはそれに見合うだけの価値があった。このパンのお陰で日中も頑張れるのだから。
尚、後日聞いた話によると『ベーカリーナツメ』では原料にこだわっているのもあり、商品となるパンにはマーガリンが使われていない。棗さんに訳を尋ねてみると、
「身体に悪いって言われてますから。それに、私はあくまで材料にこだわりたいんですよ」
と、苦笑いしながら答えた。私も、マーガリンよりバターが好きだから助かっている。というのも、あの味にどこか違和感を覚えているからだ。理由こそ違うとはいえ、同志が増えてくれるのは嬉しい。
私は近くの大きな公園のベンチに腰を下ろし、紙袋の封を開けた。モニュメントと思しき時計台を見ると十七時になっている。休日だからか、遊び回る子供達の数がいつもより少し多く感じられる。サッカーボールを追いかける子、滑り台に並んでいる子、ブランコを立ち漕ぎする子。親の姿は見えない。私はその光景を横目で見遣りながら、袋の中のサンドイッチに手を伸ばした。
innocence regret 縁田 華 @meraph
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