#2「日曜日とおはじき」

 カーテンの隙間から、優しいレモン色の光が私を包み込む。同時に小鳥たちの囀りが聴こえてくるが、目覚まし時計はまだ鳴らず、秒針の音だけが部屋の中に響く。私は二段ベッドの上段から梯子を伝って下り、恋雪が眠っている下段を覗き見た。すやすやと眠っているが、私のベッドとは違い、ぬいぐるみが枕元にある。二、三個あるうちの一つはテディベアで、一つはうさぎ、そして一つは可愛らしいが、何なのか形容しがたい小動物だった。彼女はこれら一つひとつに名前をつけて可愛がっている。ぬいぐるみたちと一緒にいる時の彼女はとても楽しそうで、その輪の中に私も混じることがあった。内心では、小さい子じゃあるまいし、と思いながら。

 布団を引っぺがすと、恋雪はテディベアを抱いて眠っていた。だらしなく口からよだれを垂らしながら、幸せそうに。どんな夢を見ているのかは分からないが、きっと楽しい夢を見ているのだろう。だが、週に一度の休日だとしてもちゃんと朝は起きなければいけない。寮の規則が厳しいから、とかではなく、「健康な体は早起きすることで得られるものよ」と言われたからだ。ついでに、寮長が煩くなるという理由も無いわけではない。

 その時、目覚まし時計が鳴り出した。部屋中に煩く響くベルの音。恋雪は「……うるさい」と呟きながら起き上がり、目覚まし時計を止めに行った。彼女のネグリジェは薄い黄緑で、裾や袖にフリルが付いた、上品で可愛らしいものである。スリッパは飾り気のないシンプルなデザインだが、アクセントとして緑色の五弁花のステッチが入っていて可愛らしい。スリッパそのもののカラーは白で、お姫様のようにも見えるが、恋雪自身は長い前髪で目が隠れているのもあり、何処か幽霊のようにも感じられた。

「かよちゃん、おはよう……」

振り向きざまに、澄んだ声で恋雪が挨拶をした。中性的だが年頃の少女の声。同い年の私より、少しだけ声が低い。

「おはよう、恋雪」

私はにこやかに返した。

 カーテンを開けると、硝子の向こうには青空が広がっていた。ほんの僅かに白い雲が浮かび、椋鳥が空を駆ける以外は何もない。白紙のページのように清らかで、こちらの気分も自然と明るくなってくる。太陽はまだ半分も傾いていない。私達は着替えを済ませ、階下にある食堂へと向かった。

 大きな一対の扉を開けると、そこには高級ホテルか大きな教会を思わせる、開放的な空間が広がっていた。その中に数百人分の椅子と数脚の大きなテーブルが置かれている。私と恋雪を含めた学院中の少女たちがそこに座り、食事をする筈だが、今はまだ水も食事も、更には食器さえも置かれてはいない新しいフォークやスプーンは、自分で取りに行くことになる。私は恋雪を連れて、人混みの中から佳子を見つけ出した。

「おはよう、佳子ちゃん」

恋雪がにこやかに笑いかけ、佳子が上品に挨拶を返す。漸くいつもの日常が始まったのだと、私は実感した。

 私が皿に乗せたのはバターたっぷりのクロワッサンと目玉焼き。そして自分の思うままに盛り付けたサラダ。マヨネーズをたっぷりかけてあるから、上は割とクリーム色に見える。見た人が見たら気持ち悪いと感じるかもしれない。恋雪は小さな食パンと鮭のムニエル、それと器に沢山のフルーツを乗せていた。

「一回やってみたかったんだ」

彼女は悪戯っぽく笑い、鼻歌まじりで窓際の席へと向かった。最後にやってきた佳子は、

「遅くなってごめんなさい」と詫びつつも何処か楽しそうだった。

 あちこちの席から楽しそうな話し声が聞こえてくる。いつも通りの、根も葉もない噂話やたわいもない話が聞こえてくる。中には誰かの悪口を言う人もいるが、それらは溶けて消えていく。田舎の実家にいた時から、こういうのが当たり前だと思っていた。都会の学校に転校したら何かが変わるだろう、そんな想いを胸に抱いてこの学院に来たのに。結果はあまり変わらなかったが、大切な友達ができた。だから今はこうして、一日の節目に楽しい時間を過ごせている。

 恋雪の側にあったフルーツの器は、ライチ二、三個を残して殆ど空になっていた。スライスしたバナナや種無しぶどうが何粒か入っていた筈だが、サラダとデザートを兼ねたようなこれらは、その甘さのせいか、貴重で美味しい動物のように食べ尽くされてしまった。そして遂に残ったライチに手が伸びていき、柔らかな皮が爪で剥がされ、白い果肉が現れた。それを口に含んで噛み始めると、彼女は目を輝かせた。大袈裟といってもいいレベルで、躰全体を駆使しつつ『おいしい』と言っている。それを横目で見る佳子は、

「はしたなくてよ、恋雪」とたしなめた。

言われた本人は顔を赤くしている。我に返ったのだろうか。

 三人で一斉にご馳走様でした、と手を合わせ、返却口に皿を下げにいく。カスやバターの塊、シロップやドレッシングで汚れていても、それらは街のお洒落なレストラン顔負けの輝きを放っていた。汚れそのものは、庭園にある噴水のようにチョロチョロと流れ出る水に洗われていってしまったが。下洗いが済んだ皿は安っぽいプラスチックのカゴに入れられていく。その様子を見届けた私は、恋雪と佳子を追いかけた。別に、私が食べ終わった順番の中で一番乗りという訳ではない。現に、この時点で既に空席が目立っている。

 寮の自室に戻ると、そこには外出の準備をしている恋雪がいた。

「何処かに行くの?私も一緒に行きたい!」

「近くの駄菓子屋さんに行くだけ、だよ?」

「連れてって!私、そこ行ったことないの」

恋雪はうなずき、私の手を取った。

 実は私の実家は神田よりも遥かに田舎にあり、周りは田んぼや畑ばかりであった。私自身は社長令嬢ということもあり、とても大きな家に住んでいた。兄弟姉妹の数は私を含めて五人。私は二番目で、兄とその下に弟と妹がいる。妹は双子で、いつも仲良しだった。それとねえやとばあやが一人ずついて、ねえやは一切の家事を担い、ばあやは多忙な父と何もしない母に代わってお小遣いをくれたり、おやつを作ってくれた。店は見慣れた商店しかなく、元いた学校までは歩いて五十分。数少ない屋根付きのバス停には、一時間に一本しかバスが停らず、ローカル線とはいえ、電車などこの学院に編入する直前にたった一度乗ったきり。だから東京に初めて足を運んだ時には、余りに人が多いこと、映画やデパートがあって華やかなことにとても驚いた。同時に、私が生きてきた世界はちっぽけなものなのだと思い知らされた。

「私の家さ、田舎にあるから。駄菓子屋さんなんてなかったの。だから行ったことないの」

「じゃあ、一緒に行こうよ。かよちゃんと一緒なら楽しくなるし」

ドアを開けて、私と恋雪は二人で寮を出た。寮母さんに挨拶を忘れずにしていきつつ。

 まだ紅葉の季節ではないけれど、街の人たちは薄いとはいえ長袖を着ている。少し涼しげな色の服が多かった春よりも温かみのある色のスカートや、ワンピースを着た女の人、長袖のシャツとベージュの短パンを穿いた男の子。田舎では見られなかった、絵に描いたような優しい街の光景がそこにはあった。

「かよちゃん、こっちこっち」

恋雪が転ばんばかりの勢いで駆けていく。躰が急ブレーキをかけた瞬間、彼女は転んでしまった。泣きはしなかったものの、傷口を押さえながら小さな声で唸っている。そこへ通りがかったおばさんが、恋雪に手を差し出した。

「あんた、大丈夫?」

「は、はい……‼︎」

「女の子なんだから痕が残ったら大変でしょう?これ貼っとけば治るから」

そう言って、彼女は鞄から絆創膏を取り出し、傷口に優しく貼り付けた。

「あ、ありがとうございます!」

「それじゃ、あたしはもう行くからね」

おばさんはそう言って去っていった。

 それから少し歩くと、目的の駄菓子屋に着いた。店先を覗いて見ると、開けられたばかりのシャッターがある。その近くには、小さな男の子が喜びそうな拳銃のおもちゃや飛行機、ネットに入ったおはじきやビー玉などといったおもちゃがあった。くじの景品や、カラフルなお菓子がのれんのようにぶら下がっている光景は、私にとって異様に思える。普通の店ならまずしないだろうから。それ以外にも、棚の中には五円十円で買えるような、安っぽくビビッドな色合いのパッケージに入った菓子がところ狭しと並んでいた。ふと、空を見上げると大きな三つの文字が目に入ってきた。

『あずま』

店名だろうか。ひらがな三文字だけのシンプルな構成。でも大きな筆で書いたような力強い字だ。建物自体は少し前に建てられた木造の平家建てであるせいか、店のスペースとその奥にある居間は狭く感じられる。店そのものは、五分もかからずに回り終えてしまうようなところだというのに、何故か恋雪は楽しそうにしていた。

「おばさあん、いらっしゃいますかー?」

恋雪が大声で店主を呼ぶ。

「あら、恋雪ちゃんいらっしゃい」

「おばさん、こんにちは!」

「……こんにちは」

店の奥から優しそうな初老のおばさんが出てきたので、私と恋雪は挨拶をした。おばさんは私に気づいたのか、

「あら、恋雪ちゃんのお友達?」

「は、はい。加代子っていいます」

「見ない顔だけど、ここに来るのは初めて?」

「は、はい……」

「かよちゃん、こっちこっち!」

恋雪は私の手を引いて、目と鼻の先にある大きな飴玉のある棚を指差した。

「これ、美味しいんだよ」

「へえ。ネズミとかリスみたいに頬張るつもりなの?佳子から今朝言われたばっかじゃん」

「だから口の中に入れるのは一度に一つずつが限界なの。いつもここで三つくらい買っていくんだけど……」

「いくらくらいなの?」

「三つで六十円かな。特別な日はお小遣いが少し多く貰えるから、五つと別のを一つ買ってくの」

恋雪は嬉しそうに話した。

 会計が一通り終わった後、恋雪はネットに入ったおはじきを見つめていた。黄色いネットに入ったそれは、陽の光でキラキラと輝いている。量はそれ程多いわけではないが、ゲームが成立するだけの数は入っている。

「欲しいの?」

「……うん。でも、今日はもう買っちゃったから」

「買っちゃいなよ、お金あるんでしょ?」

「そうなんだけど、くじとかもやりたいし……」

恋雪はひどく悩んでいる。唸りながら考えを巡らせ、そのまま五分が経った。

 悩み抜いた末、恋雪はおはじきを買うことに決め、おばさんにお金を払おうとしたその時だった。

「あーっ!恋雪ちゃん、加代子ちゃん!」

私より少し歳上の、若い女の人の声が聞こえてきた。

「その声は……!」

「東先生⁈」

「あら、おかえりなさい。繭子」

 私と恋雪はで居間に通された。六畳程のその部屋には、一脚の四角いちゃぶ台と四人分の座布団が用意されていた。ちゃぶ台の上には、三人分の番茶が入った白くてつるつるの湯呑みがある。座布団に座って湯呑みに触れると、温かいを通り越して熱く感じられた。隣にいる恋雪は舌を火傷してしまったようだ。それを見た東先生は、

「ほらほら、そういう時はふーふーするのよ」

と、優しく教えてくれた。

私はあたりをキョロキョロと見回した。壁には古ぼけた柱時計があり、ちゃぶ台の向こう側には大きなラジオがある。

「ここが先生のご実家だなんてびっくりしました」

私は思わずそう口にした。

「あははは、そうよね。びっくりするわよねー。でも、私から見たらさ、恋雪ちゃんにもびっくりするようなところあると思うんだ」

「それって……?」

「他の子たちみたいにハメを外そうとは思わないの?ってこと。大人しすぎるんだよ。デパートとか映画館には行かないの?」

「私、貰えるお小遣いがちょっと少なくて……。そういうところには月に一回行ければいいと思うんです」

恋雪は自信なさげに答える。そこに東先生の真剣な言葉が入って、

「どんなに頭のいい子でも、たまにはハメを外さなきゃいけないの。そうしないと、どんどん壊れていっちゃうから。ここは親御さんのいない環境でしょう?自分で調整する必要はあるけど、ほどほどならハメを外していいから」

「そう、ですね……」

恋雪はうつむきがちに答えた。東先生の声と態度に押されているのだろうか。

「でも、恋雪ちゃんと加代子ちゃんに会えてよかった。だって恋雪ちゃん、一学期はいつも一人だったもん。それが今はお友達と一緒にいるんだよ?恋雪ちゃんの成長ぶりを見られて私、嬉しいなって!」

 タイミングよく磨りガラスの戸がガラガラと開き、菓子鉢を持ったおばさんが入ってきた。器の中には醤油が塗られ、一枚の海苔が貼られた円い煎餅が八枚入っている。器そのものは漆で外側が黒く塗られていて、電灯の光でキラキラと輝いていた。きっと高級品なのだろう。少しこの小さな家には不釣り合いだが、それがちゃぶ台に置かれると美しく映えた。

「さて、ラジオを点けようね。二人とも、ゆっくりしていってね」

そう言うと、おばさんは部屋の隅にあるラジオのスイッチを入れた。

 ノイズ混じりの音声がスピーカーから流れてくる。どうやら大人向けのドラマのようで、若くて綺麗な女の人と、それより少し歳上の男の人の声が聞こえてきた。私達がそれに聴き入っていると、番組は次週の予告を流した後、ニュースに切り替わった。つまらないな、と思いながら聴いていると、

「昨晩、神谷一丁目で二十代の女性が倒れているのが発見されました。病院に搬送されましたが、命に別状はないとのことです」

ラジオの中から淡々とした男性の声が伝える。女の人に何も起こらなくて良かったという思いと、私もいつかこうなるのかな、という小さな想いが胸の中に生まれた。

「かよちゃん、どうしたの?」

「う、ううん。何でもないよ」

「そっか、それならいいんだけど」

 この時、私はラジオのニュースを遠い世界の出来事として片付けようとしていた。住んでいる方向が反対だから、まだ大丈夫だと思い込もうとしていたのだ。

 嫌なニュースが流れてからしばらく後も、ラジオからはいいニュースと悪いニュースが流れ続け、少し経ってからラジオからまた新しい番組が流れてきた。今度はクイズ番組のようだった。

「恋雪ちゃん、この問題分かる?」

「えっと、この諺はシェイクスピアの劇に出てきた、『終わりよければすべてよし』でしょうか?」

「おっ、知ってるんだ。恋雪ちゃんすごい!」

「いえ、それほどでも……」

恋雪は照れ臭そうにそう言った。

 帰り際、東先生は物置らしき小部屋からラベルの剥がされたジャムのビンを持ってきた。鮮やかな青と白のストライプが印刷された円いフタには、『おはじき』と下手くそな字が、マジックか何かで書かれていた。ビンから中を覗き見ると、色鮮やかなおはじきが沢山入っていて、その量はこの店で売っているよりも多かった。

「今日はありがとうね。これ、私のお下がりだけど持ってって。買うの、邪魔しちゃったからさ」

先生はジャムのビンを恋雪に手渡した。

「いいんですか?」

「もう使わないものだから。かといって物置の肥やしにしておくのも勿体無いし」

「ありがとうございます‼︎」

恋雪は彼女に何度も頭を下げた。よく見ると、顔が嬉しそうに緩んでいる。欲しかったおはじきが買えなかった分、喜びも二倍くらいにはなっているのだろう。

 気づけば壁の柱時計が午後の一時を差そうとしている。東先生とおばさんに見送られた後の恋雪は鼻歌を歌い、楽しそうだ。

「ねえかよちゃん、次はどこ行こっか?」

「どこ行こっかね」

手には大事そうにあのビンが抱えられている。鞄には入らないからだろう。

 私と恋雪は少し歩いてから、小さな洋風の建物の前で立ち止まった。ドアの前にある看板には『ベーカリーナツメ』と書かれている。

「ここにしよう」

恋雪が静かに、だが楽しそうに言い、ドアの取手に手をかけた。小さなベルの音が店の中に響くと同時に、私達は店の中に足を踏み入れるのだった。

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