#1 「ほんの少しの違和感」

 昭和三十三年、東京の神田。その街には慎ましくも温もりに溢れた生活を営む人々が住まう一方で、街のはずれの緑地には今年で創立五十周年を迎える中高一貫の学院『聖カタリナ女学院』がある。しかし、多くの人はそこに近づこうとはしない。理由を尋ねても誰一人として教えてくれなかった。こちらが休日に外出することは許されているにも拘らず、である。

 学院の校則は厳しく、漫画や菓子などを持ってきてはいけない上に、最近出回り始めたテレビはおろかラジオすらない。だから、外部との接点はあまりない。生徒は髪を結ぶか切るかしなければならないし、兎に角規則の多い学校だと思う。その上、全寮制であり、門限が厳格に決められていたり、娯楽が少ないし、キリスト教教育ということもあってか、つまらないことこの上ない学校だった。だからだろうか、心のどこかでこの退屈を壊して欲しいと願う自分がいたのだ。

 その日の朝、ホームルームの時間のこと。私のクラスでは席替えがあった。教卓の上には小さな段ボール箱があり、その中には数字が油性ペンで書かれた藁半紙の切れ端がある。仲良しの子とお隣になれたらいいな、と思いながらくじを引くと、箱の中からは「20」と乱雑に書かれた紙切れが出てきた。

「……席、隣だね」

後ろから聞き慣れた声が聞こえてきた。声の主は私がよく知る人物である。

「恋雪、やったね!」

「うん!私もかよちゃんと一緒になれて嬉しい」

私と恋雪はハイタッチをして無邪気に喜んでいた。自分が望まない、例えば嫌いな子の隣や、先生から当てられやすい席になってしまった子を尻目に。今までは席が遠くて、グループ学習さえ満足に出来なかったが、今日からは違う。これから毎日が楽しくなるだろう。私達二人はそう信じて疑わなかった。

 昼休みになり食堂へ向かうと、沢山の生徒に混じって教師の姿がちらほら見える。恋雪や他の数人の生徒を除くこの学校の人は、皆地味な黒や茶などの地味な色合いの髪だが、その中に一人だけ明らかに場違いな髪の色をした人がいるのだ。背が高く、後ろ姿しか見えないが、その姿はほんの数年前までこの国にいたというアメリカ人に見える。輝かしく眩しいその髪は、小麦の穂や金糸を思わせるが、海外からの留学生が殆どいないこの学校では却って目立つ。その風貌から、私はいつの間にか小さい頃に連れて行ってもらった映画館で観た、スクリーンの中の男の人を思い出していた。あんな風にかっこいい人ならば。私は目の前に立っている彼に、邪な想いを抱いていた。早く振り向いてほしいな、と思いながら。ただ後ろに並んでいるだけなのに心臓が高鳴る。彼はこちらを向くことなくトレーを手に取り、その上に取り皿を置いて去っていった。

 私が皿の上に乗せたのは、鱈のフライとほんの少しのフライドポテト。反対側の皿にはレタスとコーン、ソレと円く切られたきゅうり。一番下の皿には二つのロールパンが乗っている。これくらいなら食べ切れるだろう、という量だから心配はない筈。フライの上にはタルタルソースを、サラダの上にはマヨネーズをかけ、ケースの中からフォークとスプーンを取り、飾り気のないグラスにお茶を注ぎ、私は二人の親友がいる席へと向かった。

 恋雪と佳子は私よりも先に、いつもの窓際の席に着いておしゃべりをしていた。皿とグラスの様子からして何にも手を付けていないようだ。聞き耳を立てている訳ではないが、たわいもない年頃の少女らしい会話が聞こえてくる。やれ駅前のデパートで売っている服がどうのとか、映画の俳優は誰が好き?だとかそんな感じのものである。二人ともそうやって私が来るまで時間を潰していたのだろう。そう思うと、何だか申し訳ない気持ちになって、急に謝りたくなった。

「遅くなってごめんね、二人共!」

「大丈夫だよ。かよちゃんが遅いのは珍しいけど、佳子ちゃんとお話してたから。寂しくはなかった」

「三人揃ったことだし、早く食べちゃいましょう」「それじゃあ……」

『いただきまあす‼︎』

 やはり皆で一緒に食事をするのは楽しい。狭い実家にいた頃は両親が仕事で忙しく、何を食べても味を感じることは出来なかった。いや、この言い方には語弊がある。正確には、味を感じることは出来るが、悉く素通りしていったという方が正しい。二人と喋りながら食べていると、どんなにお腹が空いていても楽しくなるのだ。味の濃さに関係なく。まるで青空の下で輪になって踊るような楽しさが、レモン色の心地良い味を紡ぎ出してくれるのだ。ドレッシングが絡んだレタスの味、バターも何もつけていないロールパン。鱈のフライ。それ以外の食べ物も、誰かと一緒にいなければ美味しく感じることは出来ない。しかし、今日は何故だかいつもと違う味がする。レモン色にほんの少し菫色が混じったような。楽しい筈なのに、なぜか違和感を覚えるのだ。

「かよちゃん?」

「何でもないよ!」

「それならいいの」

恋雪が心配そうに覗き込む。それでも私は平気なフリをしていた。三人とも皿とグラスの中が空っぽなのに、それでもおしゃべりを続けている。今しか楽しい時間がないのだ、と自分に言い聞かせるようにして。

 あの違和感の正体は何だったんだろう、と考えているうちに私はいつの間にかうとうとしてしまった。耳元では恋雪が私の名前を呼んでいる。いつの間にか眠ってしまったようで、五時限目が終わっている。時計の針は大分進み、午後二時を指す少し手前まで来ていた。もう少しで先生が教室に入って来るのだ。なのに机には教科書も何も用意していない。一大事である。

「えっと……。六限目はフランス語?この学校、そんなのあるんだ……」

「かよちゃんはここに転校してきたばかりだからびっくりするよね。これからは英語だけじゃなくて、他の国の言葉も勉強しなくちゃいけないんだって」

「ふうん……」

言いながら、恋雪はノートから一ページ破ったものを私に渡した。英語用の、五線譜にも似たあのノートではなく、ありふれた大学ノートである。今は九月の始めで、教科書もノートもそれ程必要ないとはいえ、恋雪の優しさには助けられている。

 扉がガラガラと音を立てて開き、先生らしき人物が入ってきた。その姿は、昼間食堂で見かけたあの男そのもので、こんな顔をしていたのかとも思う。背はすらりと高く、それでいて無駄なところが一つもない。眼はガラスのように透き通っていて、深い海を思わせる色をしていた。小さい頃に見かけた米兵にも、絵本の中の王子様にも見える美しい容姿をしている。だが、何故だろうか。少しだけ違和感を覚えていた。肌が人間とは思えない程白いのだ。人形のように作りものめいた顔立ちはこの世のものとは思えない。

「今日からこの学院でフランス語を教える、ミシェル・カルティエだ。不束者だがよろしく頼む」

自己紹介が終わると同時に拍手があがる。その声は宗教画の天使を思わせる美しい声でありながら、ヒトの心を排したようなものだった。少なくとも、私にはそう感じられた。

 ノートに書くことは思った以上に少なくて、それどころか、この授業は先生の自己紹介だけで終わってしまった。曰く、先生の誕生日や好きなもの、一番の思い出なんかをあの声で語ってくれたのだ。とても穏やかな声と目つきで私達に語りかけている筈なのに、彼の目つきは冷たく感じられる。大半のクラスメイトは気付かず、見惚れているようだったが。私が可笑しいのだろうか。それとも周りが可笑しいのか。答えは出なかった。

 一日の授業が終わり、私と恋雪は文芸部がある図書館へ向かった。この学校に転校してきて感じたのは、何処もかしこも教会や城、ヴィクトリア朝時代の邸宅を思わせる内装だということ。田舎の学校に通っていた時には感じられなかった感動と、驚きがここにはあった。夕陽が窓に差し込み、キラキラと輝いている。特に何の意味もない幾何学的な図形ばかりとはいえ、陽の光がステンドグラスを美しく彩るその光景に、私は思わず心が躍った。

「綺麗だね、恋雪」

「そうだね、かよちゃん。このままずっと一緒に見ていたいね」

二人で神々しい景色を見ている最中、廊下の向こうから乾いた靴音が響いてきた。それはどんどんこちらに近づいて来る。音からして男性だろうか。

 図書館の中はまるで御伽話のお城に出てくるダンスホールのようで、踊り場や二階と思しき場所にも書棚があった。天井にはシャンデリアが吊り下げられていて、これさえなければパーティーを開けそうなのに、と考えてしまう。その中に私と恋雪、そして大勢の少女達が皆思い思いにドレスを着て、外から王子様のような男の人達を招いてダンスを踊るのだ。だから少し勿体無いと思ってしまった。

 俗に『閲覧スペース』と呼ばれる、一つの机に四つの椅子があるエリアに着くと、文芸部の子達がいた。私と恋雪を含めて全部で七人程のその部には、眼鏡をかけた高等部三年の部長さんと、二年の浜嶋さん。後は私達を含めても中等部の子達しかいない。皆『普通ではないから』ここに集まってきたようなもので、他にやることがないという子もいた。私も、暇を持て余してここに来た一人だ。恋雪は小さい頃から本を読んだり、空想するのが好きだから入部したのだという。

「本当は絵を描いてみたかったんだけど、美術の成績あんまり良くないから……。私……」

私が転校してから二、三日頃の恋雪はそう言った。実際、恋雪は本を読むことが多く、自然と物語を好むようになったのだという。百科事典なども好きらしく、昼食を食べ終わるやいなや、走りながら図書館へ去って行ったこともある。私はその様子を見る度に、よくあんなに必死になれるなと、呆れ半分感心半分で見ていた。

 部長の沢田さんがスライド式の黒板に何かを書き込んでいく。

『聖カタリナ祭の為の書き下ろし小説』

まるで、昔書道でも習っていたかのような美しいその字は、ハンサムな男の人に出す恋文に相応しいなとは思うが、年頃の少女のものとは思えない。彼女は校内一の成績を誇り、ゆくゆくは名門大学に合格するだろうと言われている人だ。その風格が充分過ぎるくらい伝わってくる。足元にも及ばないような人だった。

「どんなテーマで統一するのか、皆さんの意見をお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」

沢田さんの澄んだ声が聞こえてくる。

「では、クラシック音楽はいかがでしょう……」

恋雪がおずおずと手を挙げて言った。

「えー、難しいよお」

「そうだな、だったら食べ物とかどうだろう」

一番左端の席にいる実松さんが言う。

「そちらの方が難しいと思いますが。これからの未来を描いた物語にするのはどうでしょうか」

私の向かいに座る佳子が静かに言った。

 黒板には今、

『クラシック音楽』

『食べ物』

『未来の物語』

という白い文字が踊っている。私も何か案を出そうかと思い、

「じゃあ!私は、『神話』がいいと思います!」

すると、黒板には新たに、『神話』の文字が書き足されていった。

 程なくして多数決が始まり、黒板に『正』の字が書き足されていく。回答は一人二回。最終的に一番票が多かったのは『クラシック音楽』だった。レベルの高いことをするな、と常々思う。私とはあまりにも世界が違い過ぎるのだ。楽しそうにこれからのことを話す先輩、同級生の中に、私はきっと入れないだろう。そう思っていたが、

「かよちゃん、かよちゃん……」

「恋雪?」

「どうしたの、ぼーっとして?」

「う、ううん?何でもない……」

私は咄嗟に誤魔化した。友達同士であっても隠したい想いはあるのだ。例え、優しい恋雪であっても面と向かって言えないことの一つや二つはあるから。

 部活が終わり、陽が沈み切ろうとしている時間帯。窓から外を見てみると空はすっかり夜になろうとしていた。橙色の空が藍色に変わりつつあり、その境目は虹のように自然で柔らかな緑、黄色。図書館が閉館しようとしているのに、書棚の目の前には人がいた。恋雪と一緒に、誰だろうと思って近づいてみると、そこにいたのは。

「やあ、君達は確か昼間の……」

六限目に見かけたあの先生だった。

「えっと、私は……。加代子……です……」

「わ、私は、こ、恋雪です‼︎えっと、カルティエ先生で……すよね?」

驚いたことに恋雪が少しだけ積極的な態度を見せている。同時にかなりの面食いであることが解ってしまった。いつもは大人しいのに。そんな私達に対して先生は、

「そうだよ。ここで気になる本を読んでいたのだが、少しばかり時間が経ってしまったみたいだ。それと、私のことはミシェル先生と呼んで欲しいな。それじゃあ、アデュー……」

にこやかに言いつつ去っていき、後には私達と司書の先生だけが残された。

 恋雪の顔を覗いてみると、さくらんぼやりんごのように赤くなっている。風邪を引いて高熱を出した時のように、彼女は躰中に熱を帯びていた。

「ちょ、恋雪大丈夫⁈」

「ミシェル先生、また会いたいなあ……」

ぽやーっと天井を見つめながら呟いている。佳子は先に寮へ戻ったのか、もういない。私は恋雪を引きずって寮の食堂へと向かった。

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