第五話

 普段は全く長瀬くんと関わりのない私だけれど、実は私の記憶に残る印象的な出来事がある。


 あれは去年、私が高校一年生の頃のことだ。

 あの日は天気予報は晴れだったが、下校時には雨が降っていて、やむ気配など微塵もなかった。


 その日も図書室に寄って少し帰宅が遅くなった私は、玄関口で降りしきる雨を見て途方に暮れている長瀬くんを見かけた。彼は有名だったし、家が徒歩通学としては遠いらしいというのも噂で聞いていた。ギリギリ自転車通学の許可が下りない距離だ。

 この雨の中、濡れながら数キロもの道を歩いて帰るというのは……絶望するのもわかるというものだ。私なら絶対にごめんだ。

 普段の彼なら誰かに傘を借りるなり、入れてもらうなり、どうにでも手段があっただろう。だが事情は知らないが、その日はたまたま中途半端な時間になってしまい、誰も捕まりそうになかったのだと思う。


 しかし外は雨。やむ気配もなし。

 なんとなく気になり、どうするのだろうと遠巻きに見ていた。すると彼はやがて意を決したかのような表情をして雨の中に飛び込もうとした。

 こんな中、濡れながら帰ったら絶対に風邪を引いてしまう。私は咄嗟に「あの!」と声をかけた。


 私の声を聞いた彼は雨に飛び込む直前で止まり、こちらを見ると「何か用?」とぶっきらぼうに言った。その視線には訝しむような色が見てとれた。当然だろう、それまで話したこともない人間に突然話しかけられたのだから。もしかすると彼に好意を持っていて、何らかの下心ありきで話しかけたとでも思われたのかもしれない。よく告白されていると聞いたことがあったし。


 そんな視線は無視して、私は「これ、使って」と自分の傘を差しだした。

 彼は面を食らったかのような顔をしてこちらを見た。それはそうだ。だってこの雨だ。誰が好き好んで自分の傘を差し出すだろうか。

 彼は「いや……それ借りたら綾瀬が濡れるだろ」と、固辞しようとした。私の名前を知っていたことは意外だったが、むしろ好都合だ。完全に知らない相手から借りるよりは警戒心も薄いかもしれない。


 そこで私は鞄を軽く叩いて「折り畳み傘も持ってるから、私は大丈夫」と言った。すると彼は暫し逡巡したものの、急ぎの用でもあったのか傘を受け取ると「じゃあ……悪い! 借りるな! サンキュー!」と走って雨の中へと消えていった。


 さて、困ったのは私だ。勢いで言ったものの、折り畳み傘なんて気の利いたものは持っていない。だが、私の家は学校から比較的近く、走ると一〇分もかからない。

 まー、なんとかなるでしょー、と腹を括り、鞄が濡れないように抱きしめて雨の中を走りだした。


 結果は……お約束通りと言うべきか、風邪を引いた。それほど重いものではなかったが、次の日学校は休まざるを得なかった。

 もし長瀬くんに知られたら私の嘘がバレるかもしれないな、と危惧したものの、彼のクラスは別だ。多分大丈夫だろうと思い、しっかりと休むと一日で風邪は治った。


 結局、おそらく嘘はバレず、その次の次の日に傘は返してもらった。どうやら雨が降るか微妙な天気の日を選んでくれたらしい。折り畳み傘を常備している私なら、微妙な天気なら傘は持ってこないと考えての配慮だろう。意外と気が利いている。傘って晴れの日に渡されると邪魔だし、雨の日に二本あるとそれはそれで邪魔だしね。


 私と彼はそれっきり、年度が変わって同じクラスになるまで言葉を交わすことはなかった。せいぜい廊下ですれ違ったときに軽く手を挙げる彼に、私が会釈をする程度だ。

 同じクラスになってからも事務的な会話は何度かしたものの、それ以外で特に話すことなんてない。

 私もそれ以上恩に着せるつもりはないし、彼にとってはただ雨の日に傘を借りただけ。気にもしていないだろう。


 だから、彼とは本当になんでもないのだ。

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