湯気の向こう、或いは巣立ちの手前に

橘 永佳

第1話

 要するに、陽菜子は面食らったわけだ。

 今まで、自分の目の高さまで顔を下げてくる人はいなかった。それが、大きな男の人の顔が目の前にある。

 まだ幼い陽菜子の高さに合わせるために、窮屈そうに身体を折り畳みながら。

 しかし、それでも届かなかったらしく、のぞき込むように、四角張った顔を傾けていた。

 □が◇になりながら、厳つい顔つきを歪ませる。

 笑顔、らしい。


「ええっと、陽菜子、ちゃん?」


 目が細いのは笑っているだけではなくて、元々――などと取り留めなく思ってしまったのは、母親を筆頭に今までの大人からはなかった、思いもしなかった話しかけられ方だったからだ。

 だから、気付くのが遅れた。


 合わせてしまった。目を。


「ひぅっ」


 上半身が退く反動で喉から空気が絞り出され、遅れて足が一歩下がる。反射で、陽菜子は目をつぶり歯を食いしばって身を強ばらせた。


「ああっ! ごめんごめん、怖がらせてもうたかっ」


 とっさに身構えた陽菜子から、男の人は飛び退くような勢いで間をとった。そして、「おっちゃんの顔、怖いもんな、びっくりしてまうわな、ごめんごめん」とさらに謝る。


 ……叩かれ、ない……の?


 母なら間違いなく殴られていた。母親は陽菜子の目が特に癇に障るらしく、目を合わせてしまうと必ず平手が飛んだ。不機嫌な時であれば拳が何度も。

 そのうち、楽しそうに。

 だから、陽菜子は常に相手の胸元を見るように、視線を直接絡ませないように注意するのが習慣となっていた。

 もっとも、結局「大好きなのに」と言われながら殴られることには変わりなかったが。

 そして、そう言われるのだから、きっとそうなのだろうと陽菜子は思っていた。身体の反射はどうしようもなかったけれど。


「ええっとな? 大丈夫やで陽菜子ちゃん。おっちゃん顔はこんなんやけど、中身は怖くないからな? ちょっとお話、ええかな?」


 ちゃんと距離を空けて、また高さを下げて、男の人は笑いかける。

 陽菜子は視線をずらしたまま、小さくうなずいた。


「そうか、ありがとな。で、陽菜子ちゃん、お母さんの――いや、まあ、なんっちゅうか、その」


 男の人は安堵して話始めたが、そのとたんに、今度はしどろもどろとし始めた。


 言いにくいこと。

 お母さんのこと。

 お母さんが死んだということ。


 母親の死は、話としては既に陽菜子は聞いている。ただ、「死」を理解しているかと言われると、かなり怪しい。

 陽菜子の自覚としては、「お母さんはもういなくて会えなくなった」というところまで。それ以上でもそれ以下でもない。

 だから陽菜子はきょとんとしてた。

 そんな陽菜子に、男の人はおろおろした挙句に話を切り替えた。


「と、それはそれとしてやな、今日からおっちゃんとここで暮らすっちゅうのは分かってもらえてるんかな?」


 こくん、と陽菜子はうなずいた。

 母親が死亡した後、保護された陽菜子を誰が養うかの話し合いは紛糾した。近縁の親族間で敬遠された末に、母親の従妹の夫の叔父の弟という遠縁の男に白羽の矢が立った。四十になる男やもめで、突然子供を引き取って養育できるのかが一般論として指摘されたが、ただそれだけで、話はあっさりと進んだ。

 そして今、男のアパートに陽菜子は居た。


「まあ、あまりきれいとは言われんけれども、何、ちょっと片づければ見栄えも良うなるやろし」


 男の人がばつの悪そうに部屋を見回しながら言葉を探している。

 が、陽菜子にしてみれば、何が悪いのかが分からなかった。

 台所に洗い物が放置されているのも、ゴミ袋が積まれているのも、部屋のあちこちに服が散在していることも、今まで見てきた景色とさして変わらない。

 何なら、全体的に2、3割ほど少ないぐらいだ。カーテンが開いている分、外の光が射し込んで気持ちもすっきりする。

 雨戸が閉められた部屋に比べれば、曇り空でも十分明るい。


「とにかく、お腹空いたやろ? ご飯にしよ、うん」


 独り頷いて、男の人は台所を漁り始めた。「うぉっ、しもた冷蔵庫カラのままやったわ、ほなこっちに……って菓子すらあらへんやないか、何しとんねん! ってわしやがな」と独り芝居のように続けながら棚の中をひっかき回す。


 ほんの少しだけ、陽菜子は可笑しくなった。


 しばらくして、男の人が戻ってきたときに、手にしていたのはカップめんだった。


「あかん、赤いきつねしかあれへんかった……陽菜子ちゃん、こういうの食べれるかな?」


 しょぼくれながらも、男の人は取りあえず座卓の上のモノを払いのけてカップめんを置く。


「うん」


 小さく頷く陽菜子。

 もちろん食べられる。これまでの食事の大半はカップめんだったのだ。この赤いパッケージもよく見た、見慣れたものだ。


「そか、とりあえず赤いきつねにして、晩は――そやな、一緒に買い物に行こな?」


 そう言いながら、男の人は湯を沸かして注いだ。

 立ち上る湯気をじっと見る陽菜子。「珍しいんかな?」と言われて、頭を振る。

 何か、不思議だったのだ。

 馴染みきっているはずなのに、何故か、湯気が初めて見るもののように感じられたことが。

 蓋をしてしばらく待ち、蓋を開ける。

 また湯気が立ち上る。

 やっぱり、見たことが無いような気がした。


「お、せやせや」


 何かを思い出した、まさにそれをそのまま体現して、男の人が席を外す。すぐに戻ってきた手に、小ぶりのお椀があった。


「出来立ては陽菜子ちゃんには熱いやろ」


 軽く冷ましながら麺とスープを取り分けて、男の人が陽菜子へお椀を差し出す。

 おずおずと受け取ったそれは、温かかった。

 今までにない感覚に戸惑いながら、陽菜子はお椀に口をつけ、スープを啜った。

 

 ……温かい。


 熱湯で食べさせられるのでもなく、放置され冷めたものを口に入れるのでもなく。

 それは、ただ、温かく、柔らかく、優しかった。

 一口、二口と口にしながら、繰り返し感触を確かめる。

 変わらない。

 何が違うのかが不思議で、陽菜子はお椀の中身を凝視したが、何だかはっきりしなかった。


「だ、大丈夫かいな陽菜子ちゃん」


 男の人の声が心配そうに響く。

 振り返った拍子に、目に溜まっていた涙がぽたりと落ちた。


 自分が涙を浮かべていることに、陽菜子は気づいた。


 気づいたとたん、それは一気にあふれ出した。

 スープが温かいこと。

 お母さんが死んだこと。

 お母さんに叩かれたこと。

 部屋が暗くて寒かったこと。

 この部屋が明るくて暖かいこと。

 男の人が同じ高さで話したこと。

 スープをお椀によそってくれたこと。

 お母さんが「大好きなのに」と叩くこと。

 お母さんが「大好きだから」と微笑むこと。

 どれが理由か分からない。一つじゃないかもしれない。どれも違うかもしれない。

 とにかく、ただひたすらに流れ出す涙。

 それをどうすることも出来ずに戸惑って、どうしたらいいか分からなくなって――だから、陽菜子は声を上げて泣いた。


「うわああああああっ」


 わあああ、わあああと泣きじゃくる陽菜子に、男の人は驚いて右往左往したが、おずおずと陽菜子の背中に手を当てて「よし、よし。よし、よし」とさすり始めた。

 とん、とん、と穏やかに当たる掌は、とてもとても大きかった。

 泣き声が徐々に小さく、か細くなった頃に、男の人が「ちょっと冷めてもうたけど、食べよか?」と声をかけ、陽菜子は頷いてまた口へ運び始める。

 確かにぬるくはなったけれど、やっぱり温かくて柔らかかった。

 食べ終わるぐらいに、携帯の着信音がけたたましく鳴り響いて、陽菜子は思わずびくっとした。


「っと、ごめんごめん、うるさかったな」


 携帯を手に「たく、どいつや――あーー……」と、語尾になるほどテンションを下げつつ、ため息と共に男の人は電話にでる。


「陽菜子ちゃん、おっちゃん少しお仕事で行って来なあかんことになったんや。お留守番してくれるかな?」


 陽菜子が頷くと、「すぐに帰ってくるからな? 心配せんでも大丈夫やからな?」と繰り返し繰り返し、振り返り振り返りしながら出かけていった。




「ただーいまぁーっと」


 軽く驚く陽菜子。今日は父の定年退職の送迎会だったので、てっきり真夜中まで引っ張るものだとばかり思い込んでいた。


「あれ? 早かったね?」


「明日があるのに何時までも飲んどれるかい」


 貰ったのであろう花束を陽菜子へ預け、ジャケットを脱いでハンガーへかける父。振り返りざまに「ヒナぁ、小腹が空いたわ、何かあらへんか?」と陽菜子へ声を投げる。


「んな急に言われてもなあ――あ」


 思いついた陽菜子は、湯を沸かし始めた。

 部屋着に着替えて座卓前に腰を下ろした父の前に、陽菜子が夜食を一つ。

 赤いきつねを。

 共に暮らし始めてから20年強。初めて笑った日も、初めて喧嘩した日も、初めて父と呼んだ日も。

 二人に何かあった日には、これがあった。

 二人が二人を始めたときの思い出と一緒に。

 停止する父を前に、居住まいを正して、陽菜子は静かに頭を下げる。


「お父さん、今日までありがとう」


「な、なんや急に」


「明日嫁にいく娘やねんから、当たり前やろ?」


「そりゃまあ、そうやけどな」


「お父さんと暮らせて、幸せやった」


「これから孝君と幸せになるんやろうが」


「うん、そうやね」


 父が赤いきつねを引き寄せて、ふたを開ける。立ち上る湯気に顔を埋めるように食べ始めた。

 湯気の向こう側にある父の顔。

 その目に涙があった。


「あっついのぉ、目にしみるわ」


「そうやね」


 幼い頃には山のように大きいと思ったものだが、今では可愛らしいと思うことさえある、父の姿。

 独り残してしまうことになる。

 だが、陽菜子は、実は心配はしていなかった。


 お父さんと孝のお母さん、お似合いやからきっと大丈夫だよ。

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湯気の向こう、或いは巣立ちの手前に 橘 永佳 @yohjp88

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