第2話


「何故出来ぬのかが分からぬ」

 ――かつて。腹の底から息をつき、肩を落としてそう言ったのだ、父は。八島払心流四代宗家は。倒れた剛佐を見下ろすその目はまるで、不治の病にある者を見るかのようだった。三十年ほど前のことであった。

 道場の床板の上、汗だまりに突っ伏して、剛佐は目だけ上げていた。口を開いても、かすれた息が漏れるだけで言葉は出なかった。それ以前に、何を言うつもりであるかも分からなかった。


 弟、紘孝ひろたかが進み出る。

「父上、左様におっしゃられずとも。兄上ならきっと、この技もいつか必ず習得なさいましょう」


 差し伸べられた手につかまり、身を起こしながら。剛佐は見た、優しげに微笑む弟を。その目の奥を。

 握り潰したかった、その手を。けれども指は震えただけで、剛佐は力なく弟にもたれた。もうそうしたことは幾度目か分からなかった。

 そして、父がこう言うのも。

「この程度の技でその様では、到底宗家を継ぐことはなるまい。無論、修めることもできまいぞ。秘太刀“斬壺きりつぼ”をの」


 斬壺。八島払心流初代宗家が編み出した奥義である。初代をして生涯五度しか成功しなかったというその秘太刀は、術理のみ伝わるも、使い手は絶えて久しかった――





 部屋に残していた銭から代金を叩きつけるように渡し、文を出すよう宿の者にことづけた後。

 八島剛佐は駆けていた。宿場の人の間を縫い、肩がぶつかるのも構わず駆けていた。夜が青黒く覆いかぶさる空の中、行く手に沈む日だけが赤々と燃えていた。

 人影のない町外れ、道から外れた草むらで。剛佐は腰に手をやった。手が空をつかんだところで、刀がないことをようやく思い出す。顔を歪ませたまま、辺りの木立から枯れ枝を拾う。枝葉を払い、木刀のように構え、振った。打ち据えるように。

 何故だ。

剛佐はそう問うた。何故だ、何故だ、と、そう問うた。

 頭の内に童の顔が浮かぶ。歯を見せて笑った顔、そこに父の、弟の顔が重なる。

 まとめて打ち払うように、剛佐は強く枝を振った。

 何故だ。越えたはずなのに、なぜまた嘲笑われねばならん。何故だ、何故だ。

 そう、越えたはずであった、父のことも弟も。秘太刀“斬壺”の会得を以て。





 ――その夜の剛佐も今と似ていた。父になじられ弟にかばわれた稽古が終わり、気絶するように眠った後。一人庭に出、腰の刀を近くに置き、木刀を手に素振りをしていた。打ち据えるように何度も何度も。打ち据えたかったのは父か、弟か、それとも己かは分からなかった。

 素振りの後、その日教えられた技をさらい、型をなぞる。いつしかその動きは教えられたものではなく、父が稽古していたのを見た“斬壺”の型になっていた。


 伝によれば。初代宗家はその技を以て、壺を斬ることが出来たという。無論、壺など割ることは誰にでも出来る。初代はそれを、斬った。生涯のうちに壺を二度、漬物石を二度。いずれも、下に据えた台には傷もつけずに。五度の秘太刀のうち最後の一度、それは墓石に、己の墓に据えるための石に、ずか、と切れ込みを入れたという。


 斬壺の術理、その骨子は二つ。太刀行たちゆきと手の内である。

 太刀行きとは、すなわち剣速。常の技のような一歩の踏み込みではない、三歩の助走。その勢いを足裏から足首、足首から脛、脛から膝。腰、背骨の一節一節、肩。腕、肘、手首、手指、柄、刀身、そしてようやく切先へと余すことなく、加速しながら伝える。これにより生まれる神速の太刀行きが、切先に限界まで破壊力を与える。

 その破壊力を切断力へと変えるのが手の内、すなわち柄の握りである。太刀を振るう向きによって握りを変えるのが常の剣術であったが、斬壺はそれに留まらなかった。太刀が当たった瞬間、その感触に応じて、斬りながらも自在に握りを締め、あるいは緩める。それにより刃は物体に抵抗することなく滑り、食い込み、撫で切り、断ち斬る。脆い壺を砕くことなく、硬い石に刃を折ることなく。


 両手で持った木刀を、剛佐は右肩の前で立てた。左足を半歩前に出す、八双の構え。三歩踏み込み、振るう。再び構え、踏み込み、振るう。重く夜気を裂くその音は、どうにもいつも通りだった。


「兄上、精が出ますな。秘太刀の稽古にござりますか」

 弟が庭に下りていた。手には二振り、袋竹刀ふくろしない――割竹を細長い袋に入れたもの――を提げている。

「しかし兄上。お言葉ですが、別の稽古をなさった方がよろしいのでは」


「……どういう意味だ」

 剛佐の視線を避けるように、弟は首を横に振る。笑って。

「いえ、言葉どおりにござります。我らが流派の秘伝とはいえ、誰も使い手のおらぬ技。実在すら怪しいのではないかと……正直、左様に思いますので」


 剛佐は表情を変えなかった。強く握る手に、だらりと下げていた木刀の先が上を向いた。

「嘘ごとと、そう申すか。我らが剣が、その最奥さいおうが」


 弟は変わらず笑っていた。

「いえいえ、仮の話にござります。それより一つ、竹刀稽古でもいかが」


 弟が差し出す竹刀を、何も言わずに取った。一礼の後、互いに構える。

 いつもの稽古と同じだった。剛佐の竹刀が当たる前に、弟のそれが剛佐を打った。振り上げる出がかりを抑えられ、振り下ろしたところを弾かれ、その隙を打たれ。三本に一本取り返せればよい方だった。

 最後、苦し紛れながら全力を込めた、斬壺の型は。あっさりとかわされ、胴を打たれた。


「よい稽古になりました。ありがとうございます、兄上」

 額の汗を拭う弟は、変わらず笑っていた。


 剛佐に表情はなかった。汗も拭わず、あいまいにうなずいて立ち尽くしていた。

 弟が部屋へと戻ってしばらくの後。剛佐は立てかけていた刀を取った。鞘を放り捨て、構えるのももどかしく振るう。柄を絞り折るような力を腕に込めて。砕くように歯を噛み締めながら。己の腕を千切ろうとするかのように、剛佐は剣を振るい続けた。


 どれほどの時が経ったであろうか。気づけば空が白んでいた。荒かった息はかすれ、途切れ途切れにさえなっていた。汗に濡れそぼった着物は外気と同じ温度をしていた。疲れ切ったはずの腕は、何故だか刀の重みを感じなかった。指も柄から離れようとしなかった、まるで、ぴたりと吸いついたように。刀の一部になったかのように。

 剛佐は口を開けていた。空が白いと、ただそう思った。それ以外の思考はなかった。空を映す刀身のように。

 ふらり、と刀が動いた、気がした。その切先の方を見れば、庭石があった。肩ほどの高さがある庭石。斬れそうだな、と、そう思った。口を開けたまま。

気づいたときには構えていた。八双の構えだった。考えたわけでもなく距離を取る。岩へ向かって三歩の間合い。


 駆けていた。地を蹴る堅い反動が、足の裏から土踏まずへ走る。足首へ巡り、骨を伝い肉を駆ける。腰のひねり、背骨のしなり、腕の力がそれに加わる。斬り下ろす刀が庭石に触れた瞬間、勝手に左手が締まり、右手は緩まっていた。手に感触はなかった。わずかにかち合う音だけが聞こえた。気づけば庭石の頭に、ずかりと刀が食い込んでいた。


 未だ柄から手が離れぬまま、どうやって刀を抜いたものかと考え始めたとき。寝間着の父が、裸足のまま駆けてくるのが見えた。

 その朝の内に、剛佐は壺を両断した。父と弟、幾人かの直弟子の前で。初代の伝にあるとおり、据えた台には傷一つつけず――





 今。剛佐は枝を手に、斬壺の構えを取る。何度も繰り返した動き。三歩の運足、地を蹴る勢いを刀に込め、振り下ろす。空を裂く音はどうにも重かった。もう一度繰り返しても、音は変わらず重かった。

振り下ろした姿勢のまま、剛佐は身じろぎもせずにいたが。やがて息をつき、肩を落とす。

「こんな枝ではどうにもならぬか」

 分かっていた。木刀で素振ろうが、刀で試し斬りしようが。斬壺を使えたことは、若き日の二度だけであったことを。どうしてそれが出来たのか、自分にも分からないことを。

 いくらか残った小枝を丁寧に払い、再び振ったが。やはり、音は変わらなかった。

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