第94話 ジャスティス・キューティー

 親譲りのこの性格で子供の頃から損ばかりしている。


 そのこと自体はいい。


 構わない。損をするなら自分がいい。



 クリスマスイブの日。


 林田 正雪はやしだ まさゆきは自分の仕事を後に回して面倒な要件を三つほど片付けた。


 出来る事なら早めに帰って後輩のデビューを応援したいものだが、さて間に合うかどうか。


 幼い頃には悪いことをすればバチが当たると教わったが実際にはそんなことは無い。せめて悪人が死後に落ちるという地獄なんてものが本当に存在するのならいいのだが、それだって怪しいものだ。


 大人になってそんなことは理解した。まあだからと言って手を染める気にはならないが。



 だってそれは美しくない。



 雪の降る夜に生まれた自分に、清く正しく美しく、真っ白に生きて欲しいという願いを込めて両親はこの名を付けたのだという。


 正しくありたいとは思う。だが世界はそんな風にできていない。



 万引きしてきたという漫画本を読ませてやるというのを断ったらクラスで浮いた。


 いじめられっ子を庇ったら次のターゲットは自分になった。


 自分を殴れば見逃してやるとそそのかされた元いじめられっこはこぶしを握って自分に向ってきた。



 同じようなことを何度も繰り返した。



 でもそれは我慢できた。大したことではない。



 恐ろしいのは自分に良くしてくれたものが嫌な思いをすることだ。



 正雪自信を屈服させることが出来ないと知ればやつらは正雪の側にいるものを攻撃した。




 それは、堪えた。




 間違っていると感じても世界と折り合いをつけて行かなくてはならない。できるだけ目立たぬように生きていくしかない。そうしなければ優しいものが傷つくのだ。




「坂月さんこれ、あとでチェックを頼む」



 正雪は分厚い書類の束をどさりと同僚の坂月 双葉さかつき ふたばのデスクに置いた。



「えっ、あ、はい!」



 一瞬遅れて双葉が返事をする。



「早めに目を通してくれ」



 声のトーンを下げて突き放すように言い放つ。向かいの席では他の女性社員たちがこちらを見てこそこそと何か話している。大体内容は想像がつく。一瞥してやると慌てて目をそらした。無理もない。正雪の目つきは鋭い。人相が悪いと言って差し支えないだろう。


 会社と言う世界において仕事が出来るものは優れている。そこは間違いない。


 だがそれとは別に、できると見せかけることに長けた者がいる。


 仕事をしている振りが上手く、嫌なことは巧みに別の者に押し付ける。狙うのは頼みやすい者、断れない者、文句を言わない者。



 町を出たあの子や、この坂月双葉のような者だ。



 案の定終業時間になっても正雪の仕事は終わらなかった。要領のいい者達はとっくに帰ってしまっている。自分で選択したことだ。致し方ない。急いで帰ってもやることと言えばネットゲームくらいなのだが今日は少々特別な日だ。早く帰りたければ仕事を終わらせるしかない。


 ある種達観したような気持で仕事を続ける正雪の所に坂月がやってきた。先ほど渡したファイルを手にしている。



「林田さん、あの、この書類……」


「まだ残っていたのか。何か不備があったか?」



 出来るだけ冷たく聞こえるように対応する。どこで誰が見ていて、何が双葉の不利に働くかわからない。



「いえ、その」


「問題がないのなら早く上がるといい。もう終業時間は過ぎているんだ。無駄に残っているのは会社の不利益になる」


「……」



 正雪は自分が周りからどんなふうに見えるかよくわかっている。ただでさえとっつきにくい自分にこんな言い方をされれば大抵の女性社員は何も言い返せなくなるものだ。双葉のような気の弱い人間ならなおさらだろう。



「あの!」



 しかし声を大きくした双葉に驚いて正雪は顔を上げた。



「いつもありがとうございます! この書類も私の仕事だったのに」


「……君の仕事ではないだろう。この課に回された仕事だ」



 正雪が先回りして片づけた案件はそもそもが彼女に振られたものではない。この課に回された後、別の人物に振られた仕事だ。


 あれこれと理由を付けて押し付けられた仕事を彼女は断ることができない。


 嫌な顔をしないという理由でただでさえ上司から面倒な仕事を振られている双葉に、さらに自分の仕事を押し付けようとする者たちは狡猾だ。


 彼女たちは現場を見ていない上司からはよく気が付き仕事ができるという評価を受け、徒党を組んで生贄を選ぶ。


 気が付いていても正雪には何もできない。声を上げても何も変わらない。そこには女性同士の複雑な人間関係が絡み、自分が関わればかえって双葉の立場を悪くする。



「……すいません、ありがとうございます」


「礼を言われるようなことじゃない」



 何もできない自分に礼など言わないで欲しい。


 周りに気づかれぬように双葉の負担を減らすのが自分にできる精一杯だ。それだって役に立っているかどうか怪しいものだが。



「仕事が終わったのなら早く帰れ。このところずっと残業だろう」


「でも、代わってくれた林田さんが残っているのに申し訳ないです」


「……君が気にすることじゃない」



 これは親切ではない。贖罪だ。だが自身が優しい彼女には、正雪の贖罪も優しさと映ってしまうのだろう。


 自分はそんな人間ではない。これは贖罪。あの時何もできなかったこと、今なお何もできずにいることへの代償行為に過ぎない。そもそも、彼女に押し付けられた仕事の一つ二つを片付けた所で何が変わるわけでもないのだ。彼女たちの要求に際限などないのだから。



「あ、あの、林田さんは今日はこの後、何かご予定は……」


「友人と会う予定だが、まだ何かあるのか?」


「あ、いえ。すいません。そうですよね。そりゃそうですよね。あはは、あはは。何でもないんです」



 まさかまだ自分の知らないところで負担を強いられているのかと焦ったがそうではなかったらしい。ふう、と安堵のため息が出た。


 双葉は正雪から大量の仕事を押し付けられている。そんな状況を演出する茶番に多少でも効果があるなら幸いだ。多少でも双葉に押し付けられる仕事が減ればいい。



「お邪魔してごめんなさい。お言葉に甘えてお先に上がらせていただきます。彼女さんにも時間をとらせてしまってすいませんでしたとお伝えください。それでは良いクリスマスを」


「……ありがとう。良いクリスマスを」



 ああ、そうだった。今日はクリスマスイブだったな。それで祭り好きの友人が張り切っているのだった。会う予定なのは彼女等ではなく友人とその弟子なのだが、わざわざ訂正するような内容でもない。


 自分の仕事が片付くとかなり時間がたっていたが、もともと友人達のログインは遅い。問題ないだろう。クリスマスと言うこともあり飲食店はどこもいっぱいだった。腹も空いていたが夕食は家に帰るまでおあずけと言うことにしよう。

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