番外 妖狐初夢奇譚 ナイトメアハント 下

 定期の休みがとりづらい仕事と自分の不器用のせいで、恋人である北里祐実にはずいぶんと我慢を強いてきた。報いなければならないと常々思っている。


 千原斗輝は責任感の強い男だ。


 それには父の影響が大きい。


 斗輝の父は責任感とは無縁の男だった。斗輝が思い出す父はいつも酔っぱらっていた。


 酒を飲んでいるか、ごふうごふうと不快ないびきを立てて寝ているかのどちらかだ。


 暴力を振るわれたことはない。あいつにそんなことはできない。ただ、何もしない男だった。


 瘦せこけた頬、ぼろぼろの皮膚に無精髭。酒の缶を掴む毛の生えた薄汚く太い指。


 斗輝にとって父とは家の中にずっと置きっぱなしの、捨てることのできないゴミのような存在だった。


 昨年父が死んだ時にも特に強い感覚は持たなかったと思う。もちろん悲しい等とは全く思わなかったが、特に嬉しかったとか清々したとか言うこともなかった。


 母はそれ以前に亡くなっていたので兄弟のいない斗輝は所謂天涯孤独になったのだが、それよりずっと早くに精神的な自立は果たしていた。


 母のお情けでただそこにあるだけのお荷物。自分はこうはならない。


 斗輝にとっての父親はそういう存在だった。


 実際に父のせいで苦労したかと言われれば実はそんなことはない。母は父と一緒でさえなければ立派な人だった。女手一つで家計を支え、家事をこなし、自分を大学にまで行かせてくれた。そんな母が父よりも早く、自分が孝行できるようになる前に亡くなってしまったことは残念なことだ。


 母の口癖は「私のことはいいから、自分の為に生きなさい」だった。そんな母が父の為に生きていたというのは、どうにもやるせない物がある。


 斗輝の人生の中で最も幸運だったのは北里祐実と出会えたことだろう。いつも楽しそうに笑う素敵な人だ。こういう生き方ができたらいいと思った。こういう人と一緒に生きたいと思った。その思いに祐実が答えてくれた事が、二番目の幸運だ。


 斗輝の仕事は大変ではあるがその分給料は良い。無駄遣いをしなければそれなりに貯蓄もできる。ただ、休みはないわけではないが直前まで予定が立たなかったりするので、祐実にはずっと寂しい思いをさせた。予定をドタキャンしたことも何度もある。祐実はそれでもいつも、いいよ、と言ってくれた。


 だから、それに報いる為にと金を貯め、一緒に暮らせる家を探した。


 条件は色々と考えた。家賃、お互いの職場への距離、交通の便、周囲の治安や店の位置。ちょっと早いかもしれないが公園や幼稚園、学校の場所。


 不動産屋で情報を仕入れて、良さそうだと判断した場所に足を運び、その周辺を見て回る。中々条件に合う物件は見つからない。少ない休みの日はほとんどそれに費やした。だがそれは自分が好きでやったことだ。祐実と生活するための場所を探すのは楽しかった。勿論祐実と休みが被るようなことがあれば一緒にいることを優先したが。


 去年の十月頃、仕事上で少々面倒な案件が起きた。一件ならば問題はないが数件連続して起きた。誰が悪いわけでもない。たまたま連続して起きた。そこに同僚の体調不良による入院が重なった。


 元より少ない人数で代わるがわる休みを取っていた職場だ。一気に仕事量が増えた。休みはさらに少なくなり、一日の労働時間も増えた。少々疲れてはいたが、新居探しの手を抜くことはしなかった。好きでやっていることだ。祐実のために、自分の為に必要なことだ。


 その甲斐あって十一月。条件に合う物件を発見できた。賃貸のマンションだ。現状考えうる限り最高の立地であり、家賃が安いのも魅力的だ。多少古い建物ではあったが、その辺はご愛敬と言う物だろう。同時期には職場で風邪が流行ってしまい、さらに労働時間は伸びて休みは減っていたが、それは些細な問題だ。仕事も新居探しも自分の果たすべき義務だ。


 見つけた新居のことを直ぐ祐実に伝えたかったが、互いの仕事柄休みを合わせるのは難しい。そんな時に便利なのがネットゲームだ。八百万妖跳梁奇譚、「やおちょう」。祐実がやっているので自分も時々遊ぶゲームであり、少ない時間でも祐実に会うことができる。斗輝自身はゲームそのものにはそれ程嵌っているわけではない。自分にそのような時間はない。だが「アバター」と言う自分の分身が、祐実のアバターと一緒に過ごすのは悪くない。電話やSNSよりも祐実を近くに感じられる。


「やおちょう」の中で祐実に、見つけた新居に一緒に住んでくれと伝えた。OKを貰えた。それは嬉しいことだ。まあ、敢えて残念なことを上げるとすれば、その場所について祐実が特に関心を示さなかったこと位か。かなりの労力を要したわけで、そのあたり興味を持ってくれると嬉しかったのだが、まあ些細なことだ。


 その日は「やおちょう」の中で祐実と出かけた町で、占い屋をしている人を見かけた。祐実はなにやらその人物を見て楽しそうだった。中の人物は祐実の知り合いかもしれないという。二人の今後を見て貰うのは楽しそうだと思ったが、混んでいたのと祐実が他のことをしたそうだったので今度と言うことになった。


 人手不足と休めない日はまだ続いていた。こんな時に限って面倒事も次々やってくる。


 その日も長い勤務を終え、やっと家に帰ってきた。水を飲もうと洗面所に行き、明かりを点けないまま鏡を見た。そこには疲れ果て、落ちくぼんだ眼とこけた頬をした人物が写っていた。長い勤務時間の間に伸びてしまった髭。微かな明かりの中で見る鏡の中の人物は、恐ろしい程にあの男に似ていた。


 十二月に入り、物件の契約の都合で斗輝だけ一足先に一人で新居に住むことになった。入居してすぐにやるのはガスや水道などのライフラインの契約だ。大家から書面一通りが郵便受けに入っているので目を通して記入後ポストに投函するよう言われた。初日に全て終わらせた。休みの日には周辺の探索と生きたいところだったが、最近はその休みの日自体が無くなっていた。仕方がないので遅く帰ってきた後に新居周辺を見て回った。入居前にもしたことだが、実際に住んでからは違う感じ方をすることもあるだろう。祐実に残念な思いをして欲しくない。


 遅くなって帰ってきて、家のドアのカギを開けようとしていると、背後で向かいの部屋の戸が開く音がして、すぐに締まった。振り返ってみたが誰も出てこない。どうにも感じが悪い。監視でもされているような気分だ。同じことが何度かあった。


 たまたま早く帰れた日に、向かいの人物を見た。50代の男だった。出かける所のようだった。向こうもこちらに気づき、軽く頭を下げたが挨拶と言うより視線をそらすために頭を下げたという感じだった。卑屈な感じ。まるであの男のようだ。同じように視線をそらすように頭を下げて家に入った。


 月の中ごろになって、大家からガス使用の届けが出ていないと催促があった。郵便受けにあった書面は全て記入して投函したはずだが、そういえばガスの書面は見なかった気がする。


 大家に改めて書面を貰い、投函した。家に戻ってみると向かいの男が斗輝と祐実の家の前でしゃがみ込んでいた。靴ひもを直している風だったが、近づく斗輝に気付くと立ち上がり、また目をそらすように頭を下げると出かけて行った。自宅の郵便受けが少し開いていた。偶々閉め忘れたのかもしれない。だが隣の男がしゃがみこんでいた位置は丁度郵便受けの前で、嫌な気分になった。


「やおちょう」の中で祐実に会った時にちょっとだけ向かいの男のことを話をしてみた。祐実は考えすぎだといった。そうかもしれないが、そうではないかもしれない。自分の感じる不安感の共有ができずにこの話題は切り上げた。


 同棲することを喜んでくれたと思っていた祐実だが、このところ度々「急がなくてもいい」といった話を出してくるようになった。向かいの住人についても、不安なら住む場所は他の場所でもいいのだ、等と。祐実はここを探すにあたりかけた労力を知らないのだからそういった話も出てくる。仕方のないことだ。これ以上の物件なんて見つからない。礼金だの敷金だのも払ってしまっている。お金だって二人の生活の為に大切なものだ。


 年内には同棲を始められると思っていた。だが祐実の態度の変化と、それに自分が「無理に来なくてもいい」と答えたせいで延び延びになっていた。喧嘩をしたわけではない。祐実のせいでもない。悪いのは自分と―


 そもそもこの部屋は立地のわりに家賃が安い。掘り出し物だと喜んでいたが、もし安さに理由があるとしたら。自分の前にここに住んでいた住人は何故この好条件の物件を手放したのか。例えば前の住人が向かいの住人とトラブルを起こしたから、だとか。だとすれば向かいの住人が新しく越して来た自分を警戒する理由になるかもしれない。


 あるいは逆にあの向かいの住人がおかしな人で、それに耐えかねて前の住人が引っ越したのだとしたら。郵便受けのこと、度々感じる視線、あの男に似た容貌。疑える要素は多い。


 ここは自分と祐実が共に生活を始める大事な場所だ。一片の不安だって残したくはない。祐実を、祐実と自分のこれからを守らなくてはならない。向かいのあいつ以外は完璧なのだ。あいつさえいなければ、自分の選択は完璧で、祐実も心置きなく越して来られる。


 だがどうするというのか。


 嫌がらせ?まさか。地上げ屋じゃあるまいし。世の中には立ち退かせるために色々な嫌がらせを行う地上げ屋がいるのだと聞いたことがある。郵便受けに不快なものを入れたり、外側から窓ガラスを割ったり。そんなことはしない。絶対にしない。が、仮に実行すれば手段としては有効なのではないだろうか。


 例えば、他の住人と仲良くなってその時にこっそり悪評を加える、というのはどうだ。嘘をつくわけではない。悪いうわさを聞いた近隣の住民が何をするかは自分の感知するところではない。見た所向こうはひとり暮らしだ。ここでなくとも暮らしていけるだろう。いづらくなって出て行って、自分に関係のない所で暮らしてくれるならそれは双方にとって利益になるのではないか。向こうだって前の住人を追い出しているかもしれないのだ。


 大晦日。体調不良で休みを取っていた同僚が戻ってきた。これまでの間少ないながらも順番に休みを取っていた他の同僚たちが、今日はもう上がって休めと言ってくれた。迷惑をかけた、今日と明日は任せてくれと。


 まだ夕方だ。大晦日のこんな時間に仕事が終わったのは初めてのことだ。仕事納め、というのだろうか。ましてや元旦の休みなど、望んだこともなかった。


 祐実に今日と明日の急な空きを伝えた。相当驚いていたようだ。せっかく早い時間から仕事を上がれたのだし、うちに来るかと聞いてみたが、疲れているだろうから今日は休んでと言われた。申し訳ないことだが少し安心してしまった。疲れた自分のあんな顔は祐実に見て欲しくない。


 今日は「やおちょう」の中で少しだけ会って明日の朝に新居に来ることになった。今からでは正月向けの食事を用意することができないのは申し訳ないが、元旦でも空いている店はある。それっぽい物を作ることはできるだろう。


 新居の近くの牛丼屋で夕食を取ることにした。店は空いていた。アルバイトらしき店員が一人で店をまわしている。自分が休みの間にも働いている人がいる。この時間に仕事を終えていることに引け目を感じてしまう。ワーカホリックと言うのだろう。軽い物だろうけれど、自分がそういう人間であるという自覚はある。


 家に帰ったがまだ祐実との待ち合わせの時間まで随分と間があった。何かしようと思ったが一度落ち着いてしまうと大分疲れが溜まっていたようで寝てしまった。


 目が覚めたのは夜中の十二時になる少し前。祐実と約束していたのは九時。遅刻どころの騒ぎではない。携帯端末を開いてみると祐実からは一件だけメッセージが入っていた。


<お疲れ様。無理しなくていいのでもし今日中に起きたら連絡下さい>


 メッセージの受信時刻は夜の十一時。さんざん待たせた挙句気を遣わせたようだ。申し訳ない。


 慌てて寝ていたことと今からログインするが問題ないか、等を書いてメッセージを送るとすぐに返信があり、「やおちょう」の中で待ち合わせすることになった。丁度十二時―翌年元旦の零時になるということで、「やおちょう」内にある神社で待ち合わせて初詣デートとなる。今日はそのあとすぐに落ちて、明日のリアルに備える予定だ。元旦から祐実に会えるというのはちょっと想像できないほどの幸運だ。


 ログインして跋妖神社に向かうと祐実―キリは先に着いて待っていた。いつもと違う服、初詣に合わせて振袖を着ている。ろくろ首のすらりとした日本画のような体系に赤の振袖は非常に絵になる。リアルの祐実も綺麗だがゲームの中のキリも綺麗だ。この美しい姿で戦いとなれば長い首で敵の妖怪を絞め殺してしまうのだから不思議なものだ。まあ妖怪と言うのはそういうものかもしれない。


 それに比べて自分はいつもの服で来てしまった。妖怪としても彼氏としても失格かもしれない。せっかく待っていてくれたのに、久しぶりに会えるのも楽しみにして服まで作って待っていてくれたのに、疲れたからと寝過ごしてしまった。あまりにも申し訳ない。


「ごめんな、遅くなって」


「ううん。少しは休めた?」


「うん。今まで寝ちゃってた」


 ひどい言い訳だ。事実なのが尚ひどい。


「そう。それならよかった。今日も遅くならないうちに終わりにしようね。ゆっくり休んで。何だったら明日も無理しなくていいんだよ」


「いや、こっちも会いたいしな」


「ふふ。うん、ありがと。それと、あけましておめでとう」


「お、そうだな。あけましておめでとう。今後ともよろしく」


 跋妖神社に祭られているのは大妖神闇隠たいようしんヤミカクシと言う神様らしい。賽銭箱にお金を入れてお辞儀を二回、拍手を二回、もう一度お辞儀を一回すると、チャリンと音がしてバックの中に正月の記念アイテムである「鏡餅」とおみくじが入った。鏡餅は全ての妖怪の好物と言う希少なアイテムだが、おみくじは役に立たないことで有名だ。


 試しに開いてみる。


 大吉 :失せ物 すぐにいずべし

 転居  わろし


 大吉だというのにひどい結果だ。そもそも大吉で「わろし」なんて言う言葉が出てくるものだろうか。聞きたかったことにはわろしと答え、失せ物に至っては心あたりがない。噂通りの役に立たないおみくじだ。ゲームの中で妖怪の神様がやっているおみくじなのだから仕方ないのかもしれないが、ジョークにしても度を越している。


「すごい、大吉だ。転居良しだって」


 キリが言う。本当ならありがたいお告げだが自分以外のおみくじはゲームの中では見ることができない。従ってこれはキリの気遣いかもしれない。だがそれをわざわざ指摘するのも野暮な話だ。


「こっちは失せ物出べし、だって。やっぱり意味ないの出るんだな」


 キリの配慮に従って、自分の方に出ていた転居の内容については伏せておいた。


「そうだねー。聞きたいこと教えてくれたらいいのに」


 毎年色々なところでネタにされるおみくじだ。あまり気にしないのがいいだろう。鳥居を出て、今日はここまでという話になると思ったが、


「見て、この間の占い屋さんがいる!」


 キリが言うので見てみると、確かに先日橋の所で見かけた占い屋が鳥居の近くに店を出している。



「すいませーん。占い、お願いできますか?」


 キリが占い師に話しかけた。やっぱり見てもらいたかったようだ。空いていてよかった。


「ほら、見てもらいなよ」


「え、俺が?」


 てっきり自分が見て欲しいのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。


 まあ確かにどうにもこのところ不運続きである気もする。見てもらって何か安心するようなことを言って貰えば気も晴れるかもしれない。


「どうぞ~、おかけください~」


 化け狐の占い師が自分の正面に座るように促してくる。席について近くで見てみると狐の占い師はキリと同様正月らしい着物を着ていた。だが離れた所から見る分には気にならなかったが、近くでよく見てみるとずいぶんと奇妙な着物だ。なにしろ模様がいなり寿司だ。この模様にも占いをする上での意味があるのだろうか。化け狐の神様にその身をささげる、とか。さすがに考えすぎだろうか。そういえば先日キリが占い師のことを知っていると言っていた。今度聞いてみようか。


「いらっしゃいませ~、何を見ましょうか~?」


 お稲荷占い師が言う。そうか、見てもらうことを伝えなくてはいけないのだな。何を聞こうか。おみくじでは聞きたいことを教えて貰えなかった。どうせならいっそ具体的に、向かいに住むあの男に対してどうすればいいか聞いて見ようか。それがいい。あいつこそがこの先の祐実と自分の幸せへの障害なのだから。


「この先、生活環境が変わるのですが、その時に注意すべきこととか、しなくてはいけないことがあるか見てもらえますか」


「はあい。この先の生活環境についてのアドバイスですね~。少々お待ちください~」


 お稲荷占い師はリアルで何かしているらしくしばらく動かなくなった。もしかしたら落ちてしまったのではないかと不安になった頃に「おまたせしました~」と戻ってきた。


「一枚目に出ていますのは、≪ペンタクルの4≫と言うカードです~。逆位置で出ています。これは何か守りたいものがあることを示していますね~。ただ、守りたいという気持ちが強くて暴走してしまっているようです~」


「なるほど」


 占いと言うのはもっとあやふやなものかと思っていたが、思った以上に具体的な結果が出たのに驚いた。やはり自分の想像通り、向かいのあの男は自分自身を守ろうとして暴走しているのだ。


「二枚目のカードは≪悪魔≫と言うカードです~。逆位置で出ていますね~。これは悪意を示すカードですが、逆位置ですので正当化された悪意、持っている当人は悪意と気づかずに行使される悪意、と言った意味になります~」


「なるほど、わかります」


 その通りだ。確かにあいつは自分を守ろうとしているつもりなのかもしれない。だがそれを向けられる自分はたまったものではない。本人にとっては自営だとしても、理不尽に悪意を向けられる側としてはたまったものではない。


「三枚目のカードは≪隠者≫。正位置で出ています。これは自分の心を見つめ直すカード。その必要を示すカード。新生活へのアドバイスで言うなら、しなくてはならないことを明確にする、と言った意味ですね~」


「……なるほど」


 しなくてはならないことを明確にしろ、占い師ははっきりそう言った。具体的な方法までは示さなかったにせよ、やるべきことの方向は示された。大事なものがあるのなら、それを守るためにしなくてはいけないことがあるのなら、何だってやってやろう。何にだってなってやろう。


「お気を付けくださいね~。多分悪魔は、ご自身が思っているより近くにいますよ~」


 占い師が言う。その通りだ。二人の幸せを妨害する悪魔は、この家のすぐ向かいに住んでいる。


「はい。わかっています。すぐ近くにいますよね」


https://kakuyomu.jp/users/Kotonoha_Touka/news/16818093080857417913


 個人チャットでキリも見てもらうかと聞いたが、大丈夫とのことだったので占い師に礼を言って離れた。自分たちの後ろにまた列ができていたので長居するのも憚られる。


「明日は朝から行くけれど、こっちのことは気にしないで寝てていいからね」


 キリがそう言ってくれた。また気を使わせてしまっている。申し訳ない。


「ありがとう、お休み」


 キリが自分のアバターのアマニに抱き着いてくる。ぎゅっと両手で包んだ後に、ろくろ首らしくくるりと首を巻き付けてきた。アバター越しにもキリの体温が伝わる。


「ゆっくり休んでね」


 そう言ったキリの言葉に従って、ログアウトしてすぐ床に就いた。


 横になった布団の中。


 身体の疲れは残っている。起き上がろうとしても起き上がれない程だ。だが先ほどおかしな時間に仮眠と言うには長すぎる時間寝てしまったためか、少しうとうとしては目が覚める。



 浅い眠りと覚醒を繰り返す間に、斗輝は奇妙な夢を見た。



 ゲームの中の迷宮の様な場所。長い長い階段。斗輝は一人でその階段を下りていく。何処かでこれは夢だと感じながら。


 階段は何度も曲がりくねりながら続いている。


 時折開けた場所に出る。階段から続く部屋への入り口と、さらに階段へと続く出口以外の扉がない部屋。現実にはあり得ない構造だ。自分はそれに何の違和感も持たず進んでいく。


 入り口にも出口にも、元は堅い格子の扉が付いていたようだが、今はその扉はねじ切られてひしゃげてばらばらになって、部屋の中に散らばっている。


 部屋を突き抜けて再び下り階段が続く。


 いくつかの部屋とも呼べない部屋を抜けて進んでいくと、やがてごふう、ごふうと耳障りな音が聞こえてくる。


 そこがこの一本道の迷宮の終点だ。初めから知っている。何度も来た場所だ。いや、それとも始めて来るのだったか?いずれにしても知っている。ここはあいつを閉じ込めておく迷宮なのだから、最奥に何がいるかはよく知っている。


 いままでの部屋よりずっと広い迷宮の最奥。やはりひしゃげてねじ切られている最後の金属の扉。


 そこにごふうごふうと音を立てる、巨大な怪物がいた。


 部屋の入口から見えているのは、怪物のしっぽだけ。


 大きく太い指のような巨大な芋虫のような体。だが芋虫ではない。皮膚の内側に骨が浮き出して見える。骨があるのだから芋虫ではないだろう。


 その悍ましい表面には毒虫の様に太い毛が隙間なくぼつぼつと生えていて、ところどころにはさらに悍ましい黒く長い毛がぞろりと伸びている。


 ごふう、ごふうと耳障りな音を立てて、その大きくて醜い怪物は眠っていた。


 自分はその怪物の横を歩いていく。


 ごふうごふうと、怪物は呼吸する。そのたびに身体が膨れ上がってしぼむ。


 もうすぐその怪物の顔が見えるだろう。


 見るまでもなくその怪物の顔は知っている。その顔はあいつの顔で……。


 あれ?


 怪物の姿を目の前にしても何も感じなかった斗輝は、その時突如訪れた直感に恐怖する。


 違う。この怪物はあいつじゃない。向かいに住むあいつ、それでもない。では何だ。何者だ。あいつにそっくりなこの怪物は何者だ。こんな迷宮の奥に住んでいるこの醜い怪物は、何だ。


 いけない、止まれ。この先に進んではいけない。このままだと、とんでもないものを見てしまう。たとえこれが夢だとしても、その顔を見てしまったら自分はきっと、壊れてしまう。それが理解できる。


 だが夢の中の斗輝の足は止まらない。必死に止まろうとしている自分がいるのに、それとは無関係に淡々と夢の中の自分は進んでいく。


 自ら歩み続け、あわやその怪物の顔を見てしまうという直前。


 部屋の入り口から何か長くてあたたかなものが飛んできて、斗輝の首に巻き付いた。不思議なことに苦しくはない。それは瞬く間に斗輝を怪物の元から連れ去って、


 斗輝は現実で目を覚ました。


 呼吸が荒く、嫌な汗がびっしょりだ。全然寝れていなかったような気がしたが、もう大分明るくなっている。


 悪夢から引っ張り上げてくれた何かのお陰で怪物の顔は見なくて済んだ。絶対に見なかった。だから帰って来られた。だが斗輝にはその怪物が、どんな顔をしていたのかわかってしまっていた。


 あれは、あの怪物は。


 昨日、あの占い師は最後に何と言った。悪魔はどこにいると言った。近くにいると、自分が思っているより近くにいると言ったのではなかったか。


 占い師の言う悪魔が向かいのあの男でなかったならば、守りたい気持ちが暴走してそれを悪意と気づかずに悪意を行使しようとする悪魔は一体誰で、どんな顔をしているのか。


 昨日まで、自分は一体何を考えていた?一体何をしようとしていた?


 危なかった。自分の妄想で作り上げた罪を良く知りもしない人物に擦り付けて、それを裁こうとした。疲れていたでは済まされない。おかしくなっていた、確かにそうだろう。あと一歩。本当におかしくなってしまう寸前だった。良かった。危なかった。本当に危なかった。まだ何もしていない。かろうじて何もしていない。


 起き上がってみると体が軽く感じる。思ったより大分しっかり寝たらしい。水を飲もうと洗面へ行きコップに水をくむ。何気なく鏡を見た。見た後にしまったと思ったが、そこに映っていたのは疲れて髭を生やしてはいるものの、ただの自分だった。至極当たり前のことだったが。


 ピンポン、とチャイムが鳴った。祐実が来たに違いない。もうそんな時間だったか。まだ顔も碌に洗っていなかったがとりあえず迎えに行かなくては。合鍵は渡してあるので、行かなくても入ってこれるのだがそれはそれだ。


 部屋の扉を開けると、やはり祐実だった。


「あけましておめでとう。まだ寝てた?」


「おお、おめでとう。今起きた所」


「ふふ。昨日もおめでとう言ったんだけどね」


 招き入れようとドアを大きく開けた処、丁度向かいの男が通りかかった。祐実が振り向いてその男に向って言った。


「あけましておめでとうございます。今度こちらに越してきます。よろしくお願いします」


 向かいの男がそれに答えて言う。


「これは、ご丁寧にどうも。どうぞよろしくお願いします」


 あわてて斗輝も頭を下げる。


 顔を上げると、向かいの男は斗輝を見て笑った。全然あの男とは似ていない顔だった。向かいの男は、斗輝にもどうぞよろしく、と言うと自分に部屋と入っていった。


 祐実は何やら食べ物も仕入れてくれて来ていた。冷蔵庫借りるね、と言って買ってきたものを締まっていく。祐実に任せて床に置いたクッションの上に座った。


「祐実、俺この処おかしかったか?」


 食品をしまい終えた祐実が斗輝の隣においたクッションに座る。


「えと、どしたの、急に」


 祐実はそう言ったが、おかしかったこと自体は否定しなかった。


「昨日さ、あの後夢を見たんだ」


「どんな夢?」


 祐実に昨日見た夢を全部話した。


 夢に怪物が出てきたこと。


 それと、今悪夢の中で勝手に進むお話の様に、おかしなことを考えていた昨日までのこと。



「昨日の占い師さんが言ってたこと、多分当たってたんだと思う。多分俺、何か色々おかしかったんだ」


 祐実がこの所、無理をするな、急がなくてもいいと言ってくれていたことの意味を今更ながらに知る。


「多分心配かけてたよな、俺」


「別に、心配したくてしてたんだから、それはいい」


 祐実はいつも通りそう言った。心配をかけていたことは否定されなかった。


「そうか。すまんな」


「ううん。すまないことなんかないよ」


 祐実はそう言ってくれるが、少々自分に自信が無くなってしまっている。昨日までのようにおかしな自分の正当化をしているのよりはマシかもしれないけれど。


「なあ同棲、どうしようか。おみくじもいまいちだったしなあ」


 向かいの住人のことだけが問題だと思っていたが、そこに全く問題がないことに気が付いてしまった今、物件を探していた時の自分の判断も、信頼がおけるかどうか怪しい。祐実に残念な思いをさせたくはないものだが。


「え、だって私のおみくじ、大吉で転居良しだよ?」


 そういえば祐実のおみくじはそうなっていると言っていた。良くない結果のでた自分のは隠したのだった。


「いや、言えなかったんだけど、俺のも大吉なのに、転居わろし、って出てたんだよね。大吉なのにだよ?おかしくない?」


 悪い結果だが祐実に冗談として伝えることができるというのは、今の自分は昨日の自分とは大分考え方が違っているんだろう。良く休めたせいだろうか。それとも。


「え、でも斗輝は転居しないでしょ?するのは私だよ?」


「……なるほど」


 言われてみればそのとおりだ。となると「大吉:転居わろし」と言うのもあながち。


 昨日は文句をつけたくなったおみくじの結果もなんだか良い物に思えてくる。


「んじゃ、改めてだけど一緒に住もう。多分ここ、いいとこだよ。まあその、良かったらだけど」


「うん。改めてよろしく」


 前回と同じ答えが返ってきた。


「その、心配じゃないのか。俺が選んだんだぞ。もしかしたら、なにかその、大きな見落としがあるかもしれない」


 そうだ、結局はそう言うことなんだ。なにかとんでもない見落としをしていて、祐実に見放されるのが怖い。手にしたものを失う怖さに暴走する。占いで言われた通りじゃないか。


「大丈夫だよ。斗輝のことだから多分一杯悩んだんだろうし。それにね」


 ぎゅう、抱き着かれた。首筋に、祐実の首の温かさを感じる。


「何か起きたらその時二人で考えればいいし、何なら今度は失敗しない、っていう場所二人で探せばいい。全部自分のせいで、ってしないで。それだけ、お願い」


「そうか。そういうものか」


「そういうものだよ。二人で暮らすんだからね」


 抱き着いたまま、祐実が言う。そうか、二人で暮らすと言うのはそういう物か。一人で守ろうとして暴走なんて、恥ずかしい話だ。


 あと狐の占い師に言われたのは何だったかな。最後のカード、何というカードだったか。ちゃんと覚えておけばよかった。でも意味は覚えている。「しなくてはならないことを明確にする」。違う、その前だ。確か。


 ―「これは自分の心を見つめ直すカード。その必要を示すカード」―


 参ったな。


「占い師さん、知り合いなんだよな?お礼言っといてくれよ」


「うん。なにかお菓子でも渡しとくよ」


 あの子、甘い物すきだから。祐実はそう言った。あの狐は甘党なのか。


「いなり寿司が好きなのかと思ってた」


「あの振袖でしょ。笑っちゃった。似合ってたけどね」


 抱き着いたままなので、祐実の声は頭の後ろから聞こえる。頭を撫でると、祐実はごしごしと首をこすりつけてきた。祐実のアバターの、ろくろ首のキリのようだ。


 疲れていたのか、焦っていたのか、不安だったのか。それとも他に原因があったのか。ただ自分がおかしなことになっていて、それを祐実がずっと心配していたのは確かなようだ。


「ありがとうな」


「うん」


 誰にも気づかれずに大きく醜く膨れ上がった怪物は、占い師に名を暴かれた後、ろくろ首の首に抱きしめられて、しゅるしゅると縮んでいった。


 縮んで、縮んで、最後にポン、と元の姿に戻った。


 その姿は―


 その姿はどんなものなのだろう。残念ながら自分の目で見ることはできない。


 せめて再び怪物が現れぬように心がけるのみだ。。


 ゲームでも夢でもないこの世界に、歪んでいく自らを映すアバターと言う物はないのだ。




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