2.会いにきてね

 夏休み、日曜日の午後、庶民的しょみんてきなティータイムだった。


 大量のチョコレートブラウニーに、父さんも母さんも苦笑していた。ふみねえは、またドヤ顔だった。


 甘くて、苦かった。


 食べ終わって、ひとしきりの雑談が途切れると、ふみねえ居住いずまいを正した。


「おじさん、おばさん……今まで、本当にお世話になりました。本当に……ありがとうございました」


 父さんと母さんも、ティーカップを置いて、背中を伸ばした。


「御両親から、大まかなことは聞いてるよ……話を、受けるんだね?」


芙美花ふみかちゃん……こんなことしか言えないけど、がんばってね。毎日、お祈りしてるからね」


 父さんと母さんに、きちんと頭を下げてから、ふみねえがこっちを向いた。


 困ったような笑顔だった。


「ふみねえ……アメリカで、結婚するの?」


 今度は、駄目だった。


 声がかすれた。


 ふみねえが、本当に、子供みたいに目を丸くした。


「あれ……? 私、ハルくんに、もう言ってたの? ごめんね……病気、進んじゃってるみたいだねー」


 なにが、ごめん、なんだかわからなかった。ふみねえが、また困ったような笑顔になった。


 ふみねえは脳の病気だった。認知症の症状から運動障害、全身麻痺に進行して死亡する難病で、治療法が見つかっていなかった。


 それでも少しずつ研究が進んでいて、アメリカで、野心的な治験ちけんのプロジェクトがあった。


 特別な施設の、特別な研究らしく、治験対象者ちけんたいしょうしゃにもアメリカ国籍か、少なくとも将来それにつながる永住権が必要だった。


 プロジェクトリーダーの医師は、プロジェクトと同様、野心的な人だった。ふみねえは、まだ若く、体力的に回復を見込める、彼にとって理想的な患者だった。


 それは、彼の誠意だったのだろう。離婚して独身だった彼は、形式だけでも自分と婚姻関係を成立させれば、一ヶ月でアメリカ永住権を用意できると提案してきたのだ。


 雇用や、成人後の養子縁組では、永住権の取得に最短でも二年以上かかる。他に手段はなかった。


「私、こんなだから、今まで全然モテなかったけどさー。アメリカの人なら、みんな大きいし、気にしないんだねー。目からうろこだったよー」


 ふみねえが、無理をして話を茶化ちゃかす。


「なんかお金持ちみたいだし、私、がんばって元気になるから……それで、アメリカのセレブ妻になるからさー。そうしたらハルくん、会いにきてね……二人で、ラスベガスで豪遊とかしようよ! 安心して、ぜーんぶ、おごってあげるからー」


「駄目だよ……ふみねえ……」


 そう、駄目だ。


 なにがなんだかわからないけれど、全部、記憶なんだ。


 未来の記憶だ。


「その人じゃ、ふみねえを治せないよ……ううん、他の誰だって……」


日葵はるき


 父さんが、硬い声を出した。


「難しいのは、みんなわかってる。それでも、生死のかかった問題だ。どんな可能性にも賭けるのが、当然だろう」


 可能性は、ない。


 これが妄想もうそうだろうとなんだろうと、かまうもんか。


 未来の記憶のはるか先、ぼくが七十歳になっても、この病気の治療法は確立していなかった。


 ふみねえはアメリカに行ってから三年後、研究施設で亡くなった。


 誰も面会できず、遺骨いこつも施設内に埋葬まいそうされた。家族でもないぼくに知らせがきたのは、それからさらに一年後だった。


 ふみねえが、手紙を書いてくれていた。


 日記みたいなものだった。さみしいよー、とか、英語わかんなーい、とか、そんな一言だけのも多かった。日付が不規則に飛んでいたから、研究の内容に関係するようなのは、検閲けんえつされたのかも知れない。


 二人で遊んだこととか、ケンカしたこととか、日付が進むにつれて内容は昔にさかのぼっていった。一所懸命に描いたみたいなイラストも、どんどん下手になっていった。


 最後の日付には、茶色の丸だけが描いてあった。


 いつだったか、取り合いになって、一個を二人で分けたハーゲンダッツのチョコレートブラウニーだった。


「行かないで、ふみねえ! 行っちゃ駄目だ!」


日葵はるき!」


日葵はるき……芙美花ふみかちゃんを、困らせないであげて」


 ごめん、父さん。


 ごめん、母さん。


 心の中であやまりながら、まっすぐふみねえを見る。ふみねえの手をつかむ。


「ハルくん……」


 記憶の中のぼくは、ふみねえと過ごす最後だったこの日、ふみねえになにも言えなかった。


 目の前で閉じる扉に、手を伸ばせなかった。


 だから今度こそ、つかんだこの夏の日の扉を、絶対に離せなかった。


「ぼくだって、ふみねえを治してあげられない……でも、ずっとそばにいる! 最後の最後まで、ふみねえを、幸せでいっぱいにして見せる……! それならできる……! だって……」


 情けない。格好悪い。


 わがままに泣く子供だ。


 だからなんだって言うんだ。絶対に離すもんか。


「だって……ぼくが、世界で一番……ふみねえを、好きなんだ……っ!」


 ふみねえが、ますます困ったように、笑った。


「私……ハルくんに、なんにもしてあげられないよー。すぐ寝たきりに、なっちゃうかも知れないよー」


「ふみねえ、ちゃんと聞いてた……? ぼくが、してあげたいんだ。それだけだよ……」


「ハルくんのことも、すぐに忘れちゃうかも知れないよー。認知症って、乱暴になって、暴れちゃうかも知れないんだよー」


「いいね。また昔みたいに、ケンカしようよ……もう、簡単に負けないよ……」


「なに食べたかも忘れて、贅沢ぜいたくしちゃうよー。ハーゲンダッツ、毎日、食べちゃうよー」


「一緒に食べよう。ふみねえは、なんでも好きだよね……ぼくはチョコレートブラウニー、一択いったくだけどさ……」


「そっかー……」


 ぼくは泣いていた。


 涙で、ぐしゃぐしゃになっていた。


 ふみ姉も、ぐしゃぐしゃになっていた。


「じゃあ……いいかなー。すぐに死んじゃっても」


 ふみねえが、思いっきり抱きついてきた。


 片方の手はつかんだままだから、なんだか変な格好になる。


 もつれあって、倒れそうになって、泣きながら力を振りしぼった。


「ごめんなさい、おじさん、おばさん……私も、ハルくんのこと好きです。一緒に……いたいです」


 ふみねえの声が、ぼくを包んでいた。


 ぼくがしてあげたいって言ったばかりなのに、本当、格好悪いなあ。


 ぼくの方が、ふみねえでいっぱいだった。


芙美花ふみかちゃん……ぼくはくわしくないけれど、病気は、必ず進行する。君が言った通り、それほど長くはないだろう」


 父さんの声が、重く響いた。


 母さんがなにかを言おうとして、父さんが抑える気配がした。


日葵はるきも、そんな君を横目に、勉強だの大学だのと言っていられないだろう。君が亡くなった後の、日葵はるきの将来も、大きく変わることになる」


 ふみねえが、初めて身体を固くした。


 ごめん、父さん、母さん。そういうことも、全部わかってる。


 最新鋭の治験ちけんで三年なら、なにもしなければ、もっと短い。それっぽっちの時間じゃ、未来の記憶なんてなんの役にも立たない。


 ぼくは子供で、ふみねえと一緒にいる以外、できることなんてない。なにもかも、めちゃくちゃだ。


 それでも……ぼくは、もう離さない。

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