1.長い夢だったな

 医学博士、鏑木かぶらぎ日葵はるきの人生は、満足するべきものだった。


 医学部大学院で医療機器メーカーとの共同研究に没頭し、プロジェクトの出資者である大病院の院長に見込まれ、娘婿むすめむことして跡取あととりになった。


 経営の才覚があった妻と、優秀なスタッフに恵まれて、大病院はさらに大きくなった。


 日葵はるきは研究を続け、多くの医療機器メーカーと協力して、医学を発展させる発明を次々と成功させた。


 医学会の革命児として、国内外に名声が響き渡り、地位も、あり余る財産も手に入れた。


 息子二人、娘一人を授かって、みんな立派に独立した。孫の顔も増えた。


 大、がつく成功者として、晩年を迎えた。


 それでも最後の研究に没頭して、ついに完成させた新発明機の、最初の被験者となった。



********************



 頭が、ぼうっとしてる。


 目を開けるより早く、背中を湿しめらせる汗を感じて、気が滅入めいった。


 一休みのつもりが、だいぶしっかり昼寝したようだ。


「なんか……長い夢だったな」


 身体を起こす。良かった、まだ明るい。


 まぶしい日差し、せみの声、それから、あんまりすずしくない風が、網戸あみどから遠慮がちに入ってきていた。


 急に、頭の中に衝撃が走った。


「ぼくは……向咲こうさき日葵はるき……だよな……?」


 慌てて、部屋の中を見る。


 散らかるほどの趣味の物もない。机の周りには、教科書と参考書が山になっていた。卓上カレンダーは二〇二二年の八月、夏期講習と模擬試験の予定が、びっしり書き込まれている。


「高校、三年……そうだ、医大の受験で……確か……」


 実家の二階の、自分の部屋だ。記憶のままだ。


 いや、おかしい。実家もなにもない。生まれてこの方、住んでいる家だ。


 記憶? なんの記憶だ?


 思わず、髪の毛をかき混ぜる。少し長くなっていた。


 同級生の中でも背は低い方で、日焼けしにくい白い肌と、女子みたいだとからかわれる顔、ひげはる必要もないくらい薄かった。


 一つ一つ確認して、ようやく、笑いが浮かんできた。


「はは……すっごい都合つごうの良い夢、見たな……! ぼくの人生、バラ色じゃないか。一つでもA判定、取ってからにしろっての」


 言いながら、汗まみれのTシャツを脱ぎかける。


 部屋着の適当なTシャツ、適当な短パンだ。昼寝をしていたベッドに、座ったままの姿勢で、たくし上げたTシャツが止まった。


 笑ったはずなのに、怖かった。


 部屋の扉から、目が離せなかった。


 記憶じゃない、夢だ。追いつめられた受験生の妄想もうそうだ。そのはずだ。


 扉が、静かに開いた。


「あれー? ハルくん、起きてるー。つまんないのー」


 ドアノブより下、四つんいの格好で、きれいな顔がタヌキみたいにふくれた。


「ふみねえ……どうして……?」


「勉強がんばってるハルくんに、いいもの買ってきてあげたんだよー。ほら、ハーゲンダッツ! 今、なんか昼寝してるみたい、って聞いたから、背中に入れてびっくりさせようって思ったのにー。ざんねーん」


 パンパンのトートバッグをかかげて見せたり、ドヤ顔で高価なアイスクリームを取り出したり、小学生みたいに口をとがらせたり、くるくると忙しい。そのまま四つんいで、部屋に入ってきた。


 ふみねえ八尺やさか芙美花ふみかは、おとなりさんの幼馴染おさななじみだ。


 三つ歳上だから、今年で二十一歳だけど、やわらかく長い髪と化粧けしょうのない感じが、いつまでも子供みたいだった。


 手足が長くて、背も高い。小さな頃から頭一つ見上げていた位置関係は、今も変わっていなかった。ふみねえの両親は共働きだったから、よくうちに遊びに来ていて、昔はいつも一緒だった。


「まあ、大きくなったハルくんのお着替えが見れそうだから、いいかなー。おばさんたちも下で待ってるから、みんなで一緒に食べよー。ハルくん、なに味にする?」


「……チョコレートブラウニー」


「ハルくん、いっつもそれで、時々取り合いになったよねー。なので! んっふっふー、じゃーん! ぜーんぶチョコレートブラウニーでーす!」


 ふみねえが、ドヤ顔の中のドヤ顔で、トートバッグをひっくり返す。


 大量の、ハーゲンダッツのチョコレートブラウニーが、白っぽいしもにまみれて部屋中に転がった。


 ふみねえもちょっとだけ汗ばんでいて、白いロング丈のワンピースがひらひらで、季節外れの雪の妖精か、季節まっさかりのアイスクリームの妖精みたいだった。


「ちょっと、ふみねえ……拾い忘れたら、大変なことになるんだけど……」


「大丈夫、たくさんあるよー。二個でも三個でも、食べられるよー」


「そうじゃなくて、何個なのさ。ちゃんと数えようよ」


「んー、二十個くらいかなー? マルヤマノさんで、あるだけ買ったからー」


 マルヤマノさんは、今時もう珍しい、個人経営の食品店だ。御近所はみんな顔見知りで、おまけもしてくれる。あんじょう、レシートを見せてもらっても、十個としか書いてなかった。


 とにかく二人で、拾い集めたのをトートバッグに戻す。


 新しいTシャツとジーンズに着替えて、ふみねえに引っぱられるように部屋を出かけて、どくん、と心臓が鳴った。


 部屋の中を、ゆっくりと振り返る。


 机の脇、参考書と学校のかばん隙間すきまに、手を差し込んだ。


 やっぱり、あった。


「ハルくん、すごーい。私、そんなところ気がつかなかったよー」


 ふみねえに渡した、最後の一個のハーゲンダッツの冷たさが、てのひらに残っていた。


 そう。


 気がつかなかった。


 ちょうど使い終わった参考書と学校のかばんにはさまれていたから、新学期まで気がつかなかったんだ。


 ふやけて、横倒しにひしゃげた紙カップから中身が染み出して、ベトベトになっていたんだ。


 ふみねえが来た時も、まだ寝ていて、汗ばんだTシャツの背中にハーゲンダッツを入れられて飛び起きたんだ。


 夢じゃない、記憶だ。


 どういうことなんだ。


 一階に降りると、父さんと母さんがいた。


「なんだ、思ったよりまともな顔で降りてきたな。芙美花ふみかちゃん、空振りだったかな?」


「そうなんですよー。ちょっとだけ遅かったです」


「着替えた服あるなら、ちゃんと洗濯に出しておくのよ。部屋、くさくなるわよ」


「わかってるよ……母さん」


 かすれた声にならないよう、少し努力が必要だった。

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