3.ありがとうございます

 ふみねえに触れている手を、握り直す。


 指と指をからめて、離れないように、でも傷つけないように、しっかりと握る。


 ふみねえこたえてくれたから、迷いなんかない。ぼくが、ふみねえを支えるんだ。


 少しして、父さんがため息をついた。


「病気も将来も、たかがその程度だ。わかっているなら良い」


「……え……?」


「なんだ、その間抜けな声は」


 思わずもれた、ぼくの、確かに間抜けな声に、父さんが口をへの字に曲げていた。


「馬鹿にするな。おまえたちがかじるすねくらい、もう少し残ってる」


 への字口のまま、そっぽを向いた父さんを、母さんが満面の笑顔で思いっきりどついた。


「あらあら。これじゃあ、ちょっとせわしないけど、おとなり御挨拶ごあいさつにうかがわなきゃいけないわねえ。礼服、どこにしまっちゃったかしら」


「痛たた……まあ、仕方ない。一緒に探そう。どうも、しばらく見つかりそうにないがな」


 なんだか小芝居こしばいみたいな会話をして、父さんと母さんが廊下に出て行った。


 呆然と見送って、静かながあった。


 ふみねえに、こつん、とひたいを合わせられて、やっと我にかえった。すぐ目の前に、まっ赤に泣きらした、それでも夏の空みたいにまぶしい、ふみねえの笑顔があった。


「えへへー。今日が、結婚式みたいになっちゃったねー」


「ふみねえ……」


「もうめる時しかないし、末長すえながくもないけど……幸せにしてね、ハルくん」


 ぼくは、まともに答えることができなかった。


 ふみねえを抱きしめて、キスをした。


 長い、長い、夢のようなキスをした。



********************



 鏑木かぶらぎ日葵はるきの目から一すじ、涙が流れた。


 後を追うように心拍しんぱくが停止して、人工呼吸器も役目を終えた。


 死亡時刻を記録して、担当医であり、鏑木かぶらぎ博士はかせの最後の教え子だった一条いちじょう桃弘ももひろが、瞑目めいもくした。


「博士……実験は成功です。お見事でした」


 鏑木かぶらぎ博士はかせのベッドと、一条いちじょうの間には、いくつもの計器と機材、モニターを組み合わせた、大きな試作発明機が横たわっていた。


 一条いちじょう右隣みぎどなりには女医の三鷹みたか茉子まこが、左隣ひだりどなりには専門技師の五乃ごだい蓮支れんしが座って、コンソールに置いた手をふるわせていた。


 二人とも、まだ若い。三鷹みたかなどは、こらえきれなくなったように、泣き顔を両手でおおい隠した。


「切ないです……医学会の革命児なんて呼ばれて、なにもかも手に入れていた博士を、最後に突き動かしたものが……こんな若い頃の、たった一つの後悔だったなんて……」


 一条いちじょうも、同じ思いだった。


 この試作発明機は、個人こじん意識野いしきや遡行そこう再構成機さいこうせいき、パーソナルタイムマシンと名付けられていた。


 脳は、記憶を再構成して夢を見る。外部から照射した信号波で脳神経に干渉、膨大ぼうだいなパターン解析から個人の意識野いしきやを解読し、感覚信号も再現しながらリアルタイムで方向性を整える。


 過去の記憶を、本人の深層意識しんそういしきが望む形に、ほぼ完全な仮想現実かそうげんじつとして再構成する機械だった。


 脳組織への負担ふたんが大きく、終末医療しゅうまついりょうにしか使えない。不確実な要素も、まだまだ多い。


 それでも、あらゆる心的外傷しんてきがいしょうを、人が生きることの苦しみを、最後に救済する手段となり得ることを博士自身が証明して見せた。


「そりゃあ、まあ……そうですけれど。でも、これ……結局はフィクションですよね? 八尺やさか芙美花ふみかさんが、五十年近くも前にアメリカで亡くなった現実は、変わらないじゃないですか」


 五乃ごだいが、少し無理をするように鼻を鳴らした。


 五乃ごだいの気持ちも、一条いちじょうには良くわかった。


「おまえは正しい。人はそれぞれの環境で、精一杯に手をつなぎ合い、現実の人を救うべきだ。だが、人は神にはなれない……博士ほどの人でも、現に、救えなかった人がいた。生涯しょうがいやみ続けた傷があったんだ」


 一条いちじょうは五十五歳になる。医師として、無力さに泣いたことも多い。二人よりは、ずっと鏑木かぶらぎ博士はかせの心痛が近しかった。


「人が、すべての人を救うことはできない。だが、この技術が普及ふきゅうすれば……どんな無力な人でも、最後に、自分自身を救うことはできる。それは、すべての人が救われることへ、確実につながる一歩じゃないか」


「そう、ですね……! 本当に、そうです……!」


「そりゃあ、まあ……そうですね……」


 三鷹みたか感極かんきわまったように、五乃ごだいしゃに構えて失敗したように、涙をこぼした。


 一条いちじょうは、もうなにも映していないパーソナルタイムマシンのモニターに、改めて瞑目めいもくした。


「博士……あなたは人でありながら、神の御業みわざにたどり着きました。イエス=キリストさえ成し得なかったすべての人の救済に、道を開いたのです。いずれあなたの名前が忘れ去られても、あなたが残した道は、これから生きる多くの人を、救い続けるでしょう……」


 一条いちじょうの横に、三鷹みたか五乃ごだいも並んで、瞑目めいもくした。


 静謐せいひつで、敬虔けいけんな時間だった。


 その静謐せいひつを破って、みしり、と異音いおんがした。


 一条いちじょう三鷹みたか五乃ごだいが、痙攣けいれんして背中を伸ばす。ゼンマイのびついたカラクリ人形のように、薄目を開けながら、ゆっくりと後ろを振り返る。


 病室の壁ぎわで、上品な和服を着た老婦人が、椅子いすから立ち上がっていた。


 高級天然木こうきゅうてんねんぼくと軽量ジュラルミンの歩行杖ほこうづえが、細い両腕にねじ曲げられて、みしり、みしりと、悲鳴を上げ続けていた。


「みなさま……夫が、お世話になりました。最後まで、本当にありがとうございます」


 鏑木かぶらぎ小百合さゆり、この大病院の理事長で、鏑木かぶらぎ博士はかせの御夫人だ。


 菩薩ぼさつの笑顔で、修羅しゅらの炎を背負っていた。ように、一条いちじょうには見えた。多分、三鷹みたかにも五乃ごだいにも見えていた。


「それで、その……おかしなことを聞くようで、申しわけないのですが」


「はッ! なんなりと、お申しつけ下さいッ!」


 一条いちじょう三鷹みたか五乃ごだいも、直立不動で斜め上を見て、これで敬礼すれば海兵隊の閲兵式えっぺいしきだ。空気が帯電たいでんしたように、ひりついた。


「その……遺体損壊いたいそんかいというのは、どの程度から、問題になるのでしょうか?」


「はッ! 当院には超一流のスタッフがそろっており、どのような状態であっても、必ずや御満足いただける遺体衛生保存エンバーミングほどこして御覧に入れますッ!」


「まあ。本当に、なにからなにまで、ありがとうございます」


 小百合さゆり夫人ふじんが一歩、動いた。その瞬間が限界だった。


 一条いちじょう三鷹みたか五乃ごだいが、団子だんごになって病室を転がり出る。扉をしっかり閉めて、背中で押さえて、冷や汗を流れるままに滂沱ぼうだとこぼす。


「あ、あ、あの……だだだ、大丈夫、なんでしょうか……あれ……っ?」


「博士は、もう死んでいる!」


「そりゃあ、まあ……心拍しんぱくも呼吸も、脳波も完っペキに、止まってましたけど……」


「痛みは感じない……はず、だ……!」


 一条いちじょうは、天をあおいだ。


 三鷹みたか合掌がっしょうして、五乃ごだいが十字を切った。


 とある夏の一日、とある大病院の、VIP用の特別病室の扉が、謎の開かずの扉となっていた。



〜 夏の日の扉 完…… 〜

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