後編

 それからというもの、午前中にホテルで仕事をこなし、午後には団地へ向かう日々が続いた。アポイントはとっていない。訪ねては断られ、「また来ます」と言い残してホテルに帰っていく。出てくれることもあれば、留守なこともある。こちらから押しかけているだけなのだし、まだ警察に通報されてないだけましなのかもしれない。留守のときには駐車場から見える四階の端、水色のカーテンが閉められたままの窓を見つめるだけだった。


 もう五泊しているビジネスホテルの部屋は荒れていた。コンビニで買ったビールの空き缶がデスクに散乱している。夜更けに仕事を終え、また買ってきたビールを空けながら、パソコンでデータを開く。あの原稿だった。数文字読み進めれば物語の光景が浮かぶ。心臓を直接撫でられるようなこの感覚。私は一人、文章を読み進めた。


 それは孤独な男の話だった。誰からも理解されず、ただ独りで生きていこうとする男の話だ。人と出会い、安らぎと裏切りを知り、苦しみもがき、それでも生きていく。精緻さは感じられない。ただ単純に素直な男の姿を書いた作品だった。言葉にすると平凡な話でしかないのに、滲み出るこの感情はなんなのか。

 私はもう何度も読んだその文章を、液晶の中でひたすらに追っていた。いつしか頬に、涙が伝っていた。


 田中からのメールには、受賞発表に間に合わせるにはもう明日しか時間がないこと、最終選考の先生方と話して、次点に据えていた作品も受賞に足りうるという結論に至っている、ということが書かれていた。次点は技巧的な作品で、読者を納得させられる力がある。文章も、磨けばさらに輝きを増すだろう。文学賞を主催する出版社としても体裁を十二分に守れるはずだ。田中には「明日には東京に戻る」と返信しておいた。あの女性と話せるのも、明日が最後になる。


 私は慣れた歩調で階段を上がり、インターホンを押す。不在であれば、一貫の終わりだ。私の不安をよそに、扉はゆっくりと開いた。


「毎日押しかけて申し訳ございません」


 もう名乗らずとも問題ない関係になっていた。


「またですか。 何度も申し上げますが……」

「はい、またです。でも、これだけ人を動かすだけの力が、貴方の文章にはあります」


 扉を閉めようとした女性の手が止まった。私の顔を見て、そのままじっとしている。私は続けることにした。


「今でこそ私は編集者をやっていますが、もともとは自分も書いていました。書くことこそが、私の使命だと。私は書くことしかできない人間なのだと信じていました。でも違った。ふと小説を書くことを止めてみれば、他にもできることがたくさんありました。ただ、知らなかっただけだったんです。自分がやりたいことと、できることの違いを」


 私はこの女性に何を伝えたいのだろうか。伝えたいことがまとまらないなんて、編集者の面目丸つぶれだった。ただ私も彼女の作品の主人公の男のごとく、素直に伝えてみようと思った。


「貴方の作品を読んで、ああ、才能って何だろうと思いました。私が欲しかったものを、貴方はいらないと言う。でも私は、貴方が書く小説を多くの人に知ってほしいと思っています。羨ましく、悔しく、それでいて……」


 私はその次の言葉が出てこず、ただ拳を握りしめて玄関に立ち尽くしていた。女性は扉の隙間で静かに私の話を聞きながら、目を伏せていた。もう、彼女の気持ちが覆ることはないだろう。私は悟った。深呼吸してから、自ら切り出した。


「すみません、今日でもうこちらに伺うのは最後になると思います。受賞者発表が近づいてますから。このたびは大変ご迷惑をおかけしました」


 彼女に頭を下げてここ数日の非礼を詫びてから、私は、失礼します、と踵を返した。階段を二段ほど下りたときのことだった。


「あ、あの」


 女性に呼び止められた。私はもう一度階段を上り、彼女の前に立つ。不意に、女性の目から涙がふたつぶこぼれた。すみません、すみません、と詫びながら目元を拭う彼女に、私は驚いた。震える声で、彼女は告げた。


「本当に申し訳ありません。あの作品は、私が書いたものではないのです」


 背中を丸めて涙を流す彼女のその言葉に、私は衝撃を受けた。頭をガツンと殴られたようだった。彼女が書いたものではない? では一体だれが? 盗作なのか? いくつもの疑念がわいてくる中、彼女は少し落ち着いたのか、「おあがりください」と部屋に招き入れてくれた。私は動揺したまま、靴もろくに揃えず初日と同じ客間に通された。皺が深く刻まれている目尻をタオルで拭いながら、彼女はゆっくりと話し始めた。


「あの作品は……私の息子が書いたものです」

「息子さんが?」


 この部屋に訪れたこの数日間、この家は彼女が出るか不在かしかなかった。息子さんはこの家には住んでいないのだろうか。


「息子さんの作品を、勝手に応募したということですか? 息子さんは、なんとおっしゃってるんですか?」


 彼女は迷いながら言葉を選びつつ答える。


「息子は、今も奥の部屋にいますが、その……話せないんです」

「話せない?」

「もう年齢も二十を超えましたが、言葉を口にすることはいっさいありません。聴覚は正常です、人並みに聞こえます。ただ、人とコミュニケーションをとることが難しいのです」


 私は視線を廊下の奥に移した。客間から短い廊下を挟んだところにある、奥の部屋。扉は何事もないかのように静かに閉ざされている。彼女は静かに語り始めた。

 息子さんの様子が他の子と違うと気づいたのは、割と早かったという。親である彼女の呼びかけに応えない、話しかけてもぼーっとしていることが多かったようだ。高名な医者様にもかかったが、『治るものではありません』とはっきり言われたという。


「言葉をかけても笑いかけても、あの子は応えない。父親が家を出て行くまでそう時間はかかりませんでした」


 彼女は膝の上でタオルを握りしめていた。肌が白くなるほどに、力がこもっていた。視線を送っているのは、廊下の奥の閉じられた部屋だった。


「あの子の父親は読書家で、かなりの蔵書がそのままになっていました。不思議なことに、私がパートから帰ってきたら、あの子が奥の部屋にいたんです」


 部屋の床は本で埋め尽くされていた。その本の海の中を泳ぐように横たわりながら、彼は本の文字を目で追っていたのだという。その目には光が宿り、彼女は「ああ、息子がやっと言葉を手に入れたのだ」と思ったそうだ。


「いつしか、小説を書くようになっていました。小学生の頃には、新しい大学ノートを買い与えても数日で書き尽くしてしまうほどに。中学生になってからは、親戚にいただいた古いパソコンを使って、小説を書くようになりました。ときには寝食も忘れて書いていたこともありました」


 壁にかけられた時計から、穏やかなメロディが流れ始めた。針は午後二時をさしていた。


「あるとき、ふと思ったんです。あの子は声に出す言葉さえも小説にしてるんじゃないかって。言葉を一つもこぼすことなく、文字に落とし込んでいるんだって」


 声も出さず、ただひっそりと独り部屋に閉じこもって言葉を紡いでいく。彼はどんな気持ちで、小説を書いているのだろう。


「小説を書くことしか取り柄のないあの子です。このままではあの子の言葉があの部屋で埋もれて消えていってしまうと思いました。だから私は……」


 先ほどまで堰をきったように話していた彼女が言葉に詰まった。彼女は、息子の言葉を誰かに届けようとして、作品を文学賞に出したのだ。出版社の人間に、下読みの担当者に、作家たちに、そして私のような編集者に読まれることを願って。一人でも多くの人間に、息子の言葉が届くことを願って。


「……息子は小説を書きますが、それを仕事にできるほどではありません。今回も選考が進んでいくたびに、受賞すれば本になっていろんな人たちに読んでもらえる可能性があると私から伝えました。それを聞いた息子の表情は変わらず、パソコンに向き直って文章を書き始めました。その様子を見て、辞退することをお伝えしたのです」


 作者の母である彼女は、そう言ったきり俯いてしまった。私は黙っていた。そうしていると、この家には不思議と生活音がしないことに気づいた。あの奥の部屋には人がいるにも関わらず、ただ時計の針がコチコチと時を刻む音だけが宙を漂っている。人の声は、聞こえなかった。ただひっそりとした空気が、そこにあるだけだった。


「息子さんとお話しさせていただくことはできますか」


 母親は首を振った。そうですか、と私は応えた。

 母親から何度も頭を下げられた。きっと、今までもそうして周りの人に謝り続けてきたのだろう。少し髪が薄くなったつむじが、彼女の今までの苦労を語っていた。私は部屋を後にすることにした。廊下の奥、物音のしない彼の部屋に向かって一礼する。おそらくもう、彼と会うことはないだろう。本名も知らない、声も顔も知らない彼とは。彼女に見送られながら、私は団地の階段を下りるしかなかった。


 団地の街路樹のそばには、白いペンキがハゲたベンチがあった。私はそこに腰掛けて手帳を取り出し、白紙のページに彼への手紙を書くことにした。


 きっとあの小説は、彼の声だったのだ。私には確かに聞こえた。だから、返事をしたかった。小説を書く彼はどんな姿をしているのだろうか。どんなふうに指をキーボードの上で踊らせるのだろうか。想像もつかない。ただ私には、彼の声が届き、それに対して返事をしようとした。あなたの声は聞こえる。あなたの声は、誰かに届く。


 手帳からメモを破り取り、母子の部屋番号が書かれた郵便受けに投げ入れようとベンチを立った。ふと四階の端の部屋を見た、そのとき。

 視界の端で、水色のカーテンがはためいたような気がした。人影だ。私は目を凝らしたが、小さな窓枠の向こうのカーテンは開いていなかった。誰もいなかった。


 手紙と一緒に名刺も郵便受けに入れようかと考えたが、それはやめた。たぶん二度と連絡はないだろう。これからもあの部屋で、ひっそりと声を紙に綴るだけの日々を送るのかもしれない。

 私は錆びついた郵便受けに手紙だけを投函し、団地を後にした。



 終

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声を綴るひと 高村 芳 @yo4_taka6ra

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