声を綴るひと

高村 芳

前編


 第三会議室の件が私の耳に届いたのは、第二選考会も終盤にさしかかった午後四時頃のことであった。選考会で使っていた会議室を五時から使う予定だった私は、近くの部下に選考会の進捗を尋ねたのだ。部下の田中は時間通りに終わりそうだと答えたあと、早口で付け加えた。


「なんか面白い作品があるって話題になってましたよ」


 そう聞いて現場を覗きにいかない編集者がいるだろうか。私は会議の準備もそこそこに、第三会議室に顔を出すことにした。

 会議室の扉を静かに開くと、和やかな雰囲気に包まれていた。選考会が行われている間は、床にペンを落とすだけで空気が凍りつくような空間だ。雪解けの春のようなこの空気感は、選考会が無事に終わったことを告げていた。緊張をほどきながら、私は既知の下読み担当に声をかけた。


「下川さん、終わりましたか」

「ああ、島田さん。たったいま終わりました。今年はたぶん決まりましたよ」


 下読み歴が長い彼がそう断言したということは、私の経験からして八十パーセントの確率で受賞は間違いないだろう。どれですか、と尋ねると、下川さんは私に原稿を渡してくれた。彼の分厚い手が、しっかりと紙の束を握りしめていた。


「結構意見が割れたんですけどね。意見が割れるのは文壇に新しい風が吹く前触れですから。売れますよ、これは」


 慎重派で有名な彼がここまで言うのは珍しいことであった。私は「売れてくれるならウチの会社としては大歓迎ですよ」と笑いながら、席について原稿を読み始めた。


 いや。読み始めた、という表現が似つかわしくないほどに、私は引き込まれた。ただの三十センチかける二十センチの紙面に印刷されたインクからすぐに目を離せなくなった。たった数枚。それなのに周囲の音が消え、両腕を力強く掴まれて物語の中に無理やり引きずり込まれたのである。文章が理路整然としているわけではなく、むしろ独特の癖があった。ただ、文字一つひとつが「こちらへおいで」と誘惑してくる。私はその誘惑に抗うことができず、ページをめくる手を止められなかった。ただひたすらに、文字に耳を傾け続けた。


「……島田課長。島田課長?」


 私はようやく、文字の海から第三会議室に戻ってくることができた。目の前には部下たちが集まって、私を不思議そうな表情で見つめていた。いつの間にか選考会はお開きとなり、下読み担当の人たちは会議室を後にしていた。壁にかけられた時計は五時を過ぎている。一時間弱、この原稿に目を通していたことになる。


「そんなに面白かったんすか?」


 田中が私をからかうように問うた。私は手元の紙の束を見て、答えた。


「面白い、なんてもんじゃない」


 田中には聞こえなかったようで、既に会議を始めるためにパソコンの準備にとりかかっていた。私は頭を切り替えて会議に臨もうと、かけていた眼鏡を外し目元を押さえた。指先まで熱くなっていた。机に置かれたわずか一センチの厚みに、これだけ視線を奪われ続けた。私はあの文字群が紡ぎ出す世界に、溺れてしまっていたのかもしれない。それからの会議は珍しく、あまり集中できなかった。


 下川さんの予言通り、最終選考会でもあの作品は話題をかっさらった。文壇の重鎮と中堅、若手のホープが集まる旅館の一室で、意見は二分された。


「こんなモン、送ってくる方がおかしいよ。下読みの子、何してるの」

「これが受賞じゃなきゃ、どの小説が受賞するっていうの?」


 同席していた編集者はストレスで胃が荒れたと胃薬を服用していた。普段言葉少ない大御所と若手が活発に意見を交わしあったのだ。一人のアマチュアの文章に国内の文芸を背負っている人間たちが躍起になるその光景は異様なもので、静かな和室がまるで闘技場のように熱気に沸いたと、彼は言っていた。その逸話を聞き、私の心は奮い立った。これではっきりした。私の目に狂いはなかった。作者は、何十年に一度の逸材なのだ。


 最終選考会の翌日、私は作者に受賞を伝える電話をかけることにした。もう何年もこの役割を担っているが、ダイヤルを押す手はいつも震えてしまう。電話に出たのは掠れた声の壮年女性だった。私が鼻息混じりに受賞を伝えたところ、返答は思ってもみなかった言葉だった。


「誠に勝手ながら、受賞を辞退させていただきます」


 まさか聞き間違いではないかとたじろいでいると、電話はまもなく切られた。私はしばらく放心状態で、会社支給のスマートフォンの画面を見つめた。


 受賞を? 辞退?


 ツー、ツー、ツーと鳴り響くスマートフォンを握りしめ、私は気持ちを落ち着かせようとした。田中が私の様子を見て「どうしたんすか?」と尋ねてくる。受賞を断られたのは二十年の編集者生活の中で初めてのことだった。彼女のやけにあっさりとした拒絶に、私はしばらく動くことができないほどに打ちのめされていた。


 この小説が受賞しない? そんなこと、あるわけないだろう。頭の中でそわそわと歩き回る自分がそう鼓舞してきた。そう、そんなことあるわけがない。あの文章は多くの人の目にさらされるべきだ。この日本のどこかの部屋の片隅に埋もれるなんてとんでもない。私の目の奥で炎が灯った気がした。あれだけ人の心を揺り動かす文章が日の目をみないなんて、あるものか? なにか遠慮をしているのだろうか。あの小説は出すべきだ、この世に。人々の心を搔き乱すべきだ。それを本人はわかっていない。私は田中をデスクまで呼び寄せた。


「作者の住所と本名をくれ。私が直接交渉に行ってくる」


 スケジュールに明日から一週間の空きを確保した。東京から五時間、私は作者の住む遠くの街まで足を運ぶことにした。「課長は忙しいんですから、俺が行きますよ」という田中の申し出を断ってまで自ら訪れることにしたのは、ひとえに個人的な思いからだ。あの文章を書く人間と会ってみたい。それだけだった。

 編集者になってもう何十年と経つが、新しい才能に出会うたびに肌が沸き立ったものだ。十代初の受賞者も、『かつてない問題作』と謳われた受賞者も、五十万部売れた受賞者も。受賞を拒んだ人間は一人もいなかった。誰しも文壇に名を連ねることを夢見て、数か月、数年にわたって魂を込めて書いた原稿を応募するのだから。


 私は特急電車の中で車窓からの風景を眺めながら、作者はどんな人間なのだろうかと予想を張り巡らした。ワクワクもしたしドキドキもしたし、背筋が冷ややかになったりもした。四十過ぎの管理職がやけにはしゃいでいるな、と自分でも感じる。しかしそんな人間でさえも沸き立たせることができる文章が、ここにはあるのだ。

 周りは山と田んぼと畑に姿を変えていた。この景色がひろがるこの街で、あのみずみずしい文章を書いた人間がいる。私の腹の底に炎なのか水源なのか、とにかく激しい何かがあった。カタタン、カタタンという電車の揺れる音が、私を急げ、急げと追い立てた。


 応募原稿に添えられた住所は、静かな団地の四階を指し示していた。建物と建物の間には狭い駐車場が併設されているだけで、あとは枯れた街路樹が居心地悪そうに佇んでいる。エレベータはなく、ひび割れた階段をのぼり、私は作者の名字の表札を確認して呼び鈴を押した。ビーっと、古びた音が響く。ガチャン、と大きな音がして、重々しい扉が開かれた。

 電話で話した声にふさわしい、壮年女性が顔をのぞかせた。後ろでひとつに縛っている髪には白髪が混じっており、ほうれい線が垂れ下がった頬をしている。あの文章をこの目の前に立つ人物が書いたのだろうか。内心そう疑念を感じながら、私は自分の名刺を取り出しながら挨拶する。


「突然のご訪問恐れ入ります。A出版の島田というものです。A新人賞の件で伺いました」


 目の前の女性は目を見開き、眉を寄せた。まさか家までやってくるとは思わなかったのだろう。乾いた唇がわなないたと思いきや、小声で「辞退するとお伝えしたはずですが」と呟いた。


「はい。そう伺いました。でもそれだけでは済まされないほど、貴方には才能があります」


 よくもまあ、恥ずかしげもなくこんな台詞を吐けたものだ。それほどに私は高揚していた。この背骨の曲がった覇気のない体に、何十万人も感動させる言葉が、文章が詰まっている。それは未知の可能性を含んだ赤子を見るのと同じ気持ちであった。


「ありがとうございます。でも……受賞はできません」

「なぜですか。その才能を試したくて、貴方は原稿を送ったのではないですか?」


 私は熱くなっていた。なぜ、なぜなのか。その疑問がこの田舎に足を向かわせたのだ。納得する回答がなければ、この一週間の出張が無駄になる。私は自分で思ったより必死なのだろう。額には汗を掻いていた。

 目の前の女性は私から目を逸らしながら、「立ち話もなんなので、おあがりください」と家の中へ招き入れてくれた。団地の扉は軋んだ音をたてて私の背後で閉まった。


 客間(と言っても、玄関から近い、おそらく居間と兼用の部屋だ)に通され、私は正座をして待っていた。座布団は古いのか、端が破けていた。やかんがシュンシュンと音を立て、女性が湯呑をふたつお盆に乗せて客間にやってきた。


「すみません。汚くて」


 おかまいなく、と社会人の私が反射的に告げたが、物が散乱しており、お世辞にも綺麗な部屋だとは言えなかった。私は早々に出されたお茶に口をつけたが、湯呑には茶渋がついていた。

 私から本題を切り出すべきだろうか、と悩んでいると、お盆を抱えたままの彼女がもう一度切り出した。


「文学賞のことでしたら、すみませんが辞退させてください。他にも素晴らしい作品があるはずです。正直なところ、作家になりたいわけでも本を出したいわけでもないんです。そんな心持で応募したことはお詫びします」


 女性は丸い体をさらに丸めてお盆を抱きかかえた。その姿を見ていると、とても二千名の中から選ばれた逸材だとは思えなかった。なぜ彼女はこんなにも拒むのだろう。今まで私は、作家になって成功した者も、作家になって失敗した者も、作家になれずに良い人生を送った者も、作家になれずに後悔した者も知っている。皆それぞれ、自らが進むべき人生を歩んだだけだ。編集者はただ傍観者でしかない。結局、その決断を助けることしかできないのだ。彼女は助けさえもさせてくれない。疲れた表情に刻まれた皺が、私を拒む。


「私たちは全力で貴方をサポートします。作家業に専念しなくても構いません。スケジュールは相談させていただきますから」


 私は自然と、受賞後の彼女が作家として活躍していくためのスケジュールについて話していた。彼女が話題になることは必然のことだと思っていた。彼女はきっと、日常的に小説を書ける状態ではないのだろう。しかし、それだけで手放すほど彼女の才能も安いものではない。編集部として、いつまでも原稿を待つ。新人にしては信じられないくらいの好待遇だ。これほどにウチの編集部が譲歩することは今までなかった――。後になって思えば、それは私のおごりでしかなかった。彼女は唇を噛みしめていたが、小さな声で切り出した。


「お引き取りください。今後、作家として生きていくつもりはございません」


 女性はそう言ったきり動かなかった。ここまでか、と考え、私は「また明日伺います」とだけ伝え、茶を飲み干してから狭い部屋を出て行った。陽が傾き始めていた。


 あの文章から沸き立つ熱は、自然と生まれるものなんかじゃない。抑圧された何かが圧縮され、爆発を起こし、他の人間を爆風で道連れにするような、そういうエネルギーがある。粗削りで、でもその一面に繊細さを持ち、磨きたくなるような、そういう光がある。


 私は階段の踊り場でスマートフォンを取り出すと、田中へと電話をかけた。


「悪いがしばらく帰れないかもしれない。仕事はメールを送るよう、みんなに伝えてくれ。あと受賞者発表スケジュール、どこまで待てるか確認してメール入れておいてくれ」


 田中は何か訊きたそうにしていたが、「わかりました」とだけ答えて電話を切った。私はなるべく近いビジネスホテルの一室を押さえて、そこを拠点とすることにした。このままでは引き下がれない。


「あの文章がこの世に出ないんじゃ、何のために編集者やってんだよ」


 誰にも聞こえないような小さな声で、私はひとりごちた。




   続

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