俺と彼女と赤いきつね
澁澤 初飴
俺と彼女と赤いきつね
赤いきつねというカップ麺がある。
赤いきつねは偉大な食べ物だ。
蓋を半分だけ開け、指定の小袋を好みの量(かどうかはともかく塩分を摂り過ぎないよう考慮した、俺なら大体半分くらい)を振り入れる。先に入れた方が麺の中まで味が染み込むから、少なくてもいいのだ。俺はそう思っている。それに俺はつゆを全部飲むから、それらを含めてのこの量だ。数え切れない回数を経て俺はこの結論に至った。
ただ結論は人の数ほどあっていい。俺はこれを無理強いする気はさらさらない。現にいつも向かいで赤いきつねを食べている彼女はこうではなかった。
彼女は粉をもっと少なく、俺の半分しか入れなかった。そして調理時、お湯も指定の線までは決して入れなかった。そして時間は指定の倍も待つ人だった。
赤いきつねを食べようと、ポットのお湯の量を確認する。2人分なければ沸かす。沸かしている間に2人でカップの蓋を開け、好みの量の粉を入れ、多いだの少ないだの言いながら待ち切れない彼女はまだ沸騰しないお湯をカップに注ぐ。湯量が少なくなって、予想以上にその後すぐに沸騰するお湯を俺もカップに注いで、俺は5分待つ。
湯を注ぐとすぐに粉が溶けてスープの香りが立ちのぼる。だから蓋を閉めるのだ。すぐに箸を入れては元も子もない。5分は忍耐であり、楽しみを膨らませる時間である。この時間になお腹が減るからカップ麺はうまいのだ。
気を紛らわせるためだけでは決してないのだけれど、ただしかつめらしく待つ訳にもいかないから、その時間で俺と彼女は話をした。とりとめもない、でも今からの間違いないおいしさを確信した、期待に満ちた明るい話を。
話しながら俺は箸を準備する。普段使いの塗り箸、洗い物が面倒なら割り箸。彼女は赤いきつねの時は割り箸を喜んだ。箸使いは俺よりずっと上手かったが、割り箸で食べる特別な感じが嬉しかったのだと思う。家にはいつも、わざわざ袋に入った割り箸があった。
そうして5分が経って、俺は蓋を全部めくる。
あの香りたつ湯気はいつも想像を少し超える。俺はいつも赤いきつねを過小評価してしまうのだ。いつもスーパーのタイムセールで安く買うから、高い方よりそんなにおいしくないかなと思ってしまっている。
蓋を開けたときの湯気はいつもそのことを若干の罪悪感と共に後悔させる。これはおいしいものだ、俺はそれを知っているじゃないか。
湯気に包まれた麺を引き上げ、すする俺に彼女は問う。熱くない?
俺は食べるのを止められないから口に赤いきつねが入ったまま、心で答える。熱いけど、おいしい。熱いから、おいしい。むしろちょっとふーふーしたいくらいがちょうどいい。少し冷めれば一気に食べられる量が増えておいしさが口に溢れるのもいい。それを焦って、熱いのにたくさん口に入れてしまって目を白黒させるのもご愛嬌。
彼女は微笑んだり吹き出したり、馬鹿ね、とでも言いたそうな顔をしたり、俺が赤いきつねを半分以上食べてしまうまでそんな風にしている。それから徐ろに立ち上がって、カップの蓋を既に開けたところまで開けて、蛇口から水を注ぐ。
5分より相当経った、お湯を吸い込み過ぎてきっとスープがほぼ残っていない状態のカップに冷たい水道水が注がれて、それを何度見ても俺が唖然とするのを平然と看過して元の席に着くと、彼女は蓋を9割開けた。
明らかに今の俺のものよりふやけた麺を、味も温度もきっと半分水みたいなスープに浸して、彼女は彼女の赤いきつねをおいしそうにすする。蓋を全部取ってしまわないのはゴミが増えるからなのだそうだ。水滴がついた蓋の方が扱いが面倒そうだが、彼女にはそういうことらしい。
俺たちが赤いきつねが好きなのは、それが理由だ。それぞれの好みで、それぞれのタイミングで、おいしい食事が簡単に摂れる。でも同じものなのだ。俺たちは好みは違うが、同じものが食べたいのだ。
だから、変わらない油揚げが嬉しいのだ。俺は途中で半分食べる。彼女は最後まで1枚の姿のまま残しておいて、これ以上つゆも飲まないところから食べ始める。そこまで経っても油揚げは四角い形を保ったまま、たっぷりとつゆの旨味を含んでいる。いつでもそこに確かな旨味が頼もしく浮かぶ。俺は彼女がようやく油揚げをつまみ上げて、角から大事そうに食べ始めるのを見るのが好きだった。
だから、赤いきつねだったのだ。ふたりで向かいあって、あたたかなカップを挟んだ。何度も、何度も。
今日もそれぞれの、でも同じ、いつものおいしい赤いきつね。
俺と彼女と赤いきつね 澁澤 初飴 @azbora
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