最終章

第1話

 ――水の音。

 全身をまとう水圧と少しの息苦しさから、少女は目を覚ました。

 青い空はそこにはなく、白い空間が視界に広がっていて。どこか凝視感のある場所に、予想が外れたのだと寝ぼけた頭で思案していた。

 呆然と、遥か遠くを眺めると暖かな光が天へ向かい放たれている。そらへ伸びた光の柱は、巨大な何かを護るように照らしていた。

 重い身体をゆっくりと起こしたネリは、ぼやける視界を数度瞬きして焦点を合わせる。

 じんわりと、内に秘めるチカラが熱を持つ。

 神々しい山のように聳える大きなそれが『マナの樹』であることは一目瞭然だった。


「オキタ?」


 背後から聞こえたつたない声に、身体を跳ねさせた少女は振り返る。足音すら聞こえなかったそれの正体は、幼い男の子だった。

 褐色の肌を持った少年の容姿は成長期なのだろう、まだ中性的で。白い一枚布を纏っただけの姿は一見女の子にも見える。

 見上げる子供に胸を撫で下ろすと、強張こわばった顔を隠すように手の甲で頬を擦り、視線を合わせ少しばかり身体を屈ませた。


「ごきげんよう」


 枯れた喉から出た声に、少年は「こんにちは」と挨拶を返す。

 言葉が通じるのがわかり、ネリは胸を撫で下ろした。

 なにもない空間に子供がひとり。

 その光景はおかしなものだったが、いまは少年しか頼れる者がいない。


「ひとつ、聞いてもいいかしら」


 とにかく、自分の置かれている状況を知らなければ。

 口調がキツいと言われる彼女はいつも以上に優しい声色で話かけると、少年から愛嬌のある笑みで頷かれた。


「良かった、ありがとう」

「何が聞きたいのノ」

「そうね、まず名前を聞いてもいいかしら? あたしは――」

「知ってるヨ、ネリ。もうすぐ会えるよって、シーアが言ってたカラ」

「シーア……って、先代大指導主グランドデュークさまの事?」


 名乗る前に自身を認知していた彼は、嬉しそうにネリの周囲をクルクルと踊り回る。

 透けるようなクリーム色をした癖毛が揺れ隠れていた耳があらわになった瞬間、少女は息を呑んだ。


「――あなた、小神族エルフだったのね」



 ※※※

  


 だだっ広い白色はくしょくの景色の中、絶滅危惧種である小神族エルフの子供、スウォンに手を引かれ歩いていく。行けども行けども、先にあるマナの樹へは近づいている気がしなかった。「まだまだ歩くよ」そう言い、さっさか歩く少年を額に汗をかきながら見つめるが、先程とほとんど距離感の変わらない絶望感に途方に暮れそうになる。

 気の散らそうと、目覚めた時に感じた凝視感デジャブについて考えはじめた。

 異空間のような、何も無い湿地帯。

 ほんのりと風を感じるが、靡くような草木はない。

 ――ああ、図書室の地下空間にこの場所がそっくりなのだ。

 ネリは沿革の万華鏡カレイドスコープが保管されていた地下施設を思い出し、微かに刺さる無数の視線のような気配に注視した。

 早いところ、ここから脱出しないとならないのに。

 歩いても歩いても、マナの樹はまだ遠くにある。


「スウォン、待って……さすがに歩き通しはキツいわ。何時間も水すら飲んでいないし。少し休憩したいのだけれど」

「もうすこしだから」

「……わかった、けれど三十分後には休ませてもらうわよ」


 再び歩き始めたふたりは、会話するわけでもなく、ただひたすらに目的地を目指していた。

 こうも何もないと、いくらポジティブ思考の少女も悪い方向に考えはじめてしまう。この場所に飛ばされる前、誰かに呼ばれた気がした。あの瞬間、それをはばむように発動した自身の魔力。

 しかし封印されているはずのそれは、上手いようにコントロールができるわけもなく暴走した。

 火柱に囚われた自分を助けようと手を伸ばしていたふたりと、涙を流し座り込んでいた母親――。

 あれからどれくらいの時間が立っているのか、ここでは時計もないのでわからない。いつマルバノが動き出すとも限らないのに……ウルルク達の無事を確かめられないことが、もどかしかった。


(巻き込まれて火傷ケガでもしていないといいけれど)

 

 火に弱い幻狼族マーナガルムだ。

 もし、魔力の混じった炎による火傷を負っていたら、普通の人間より傷が深くなってしまう。幻獣は治癒力が高いといっても弱点は誰にでも存在するのだ。

 勿論、傍にいたマルクのことも心配ではある。

 けれど何故なのか。ネリは幻狼オオカミの青年の方が気掛かりだった。


 そして約束の三十分。

 魔力の暴走で体力の消耗が激しいネリは、呼びかけた子供が止まるのを確認して適当に腰掛けた。


「だらしがないなぁ」 

「仕方ないじゃない、小神族エルフとは元の体力が違うんだから」

「でも、もうすこしだヨ」


 指差した方向に見えたマナの樹までの距離は、ネリからしてみると先程と全く距離が変わっておらず。

 もう少しの定義を問うと、スウォンは絨毯のような地面に手をつけた少女の腕を取り、小さな指を使い返したてのひらに文字を描いた。


「ニュンフェ・リフェトイェン」


 風が、少年を撫ぜる。翡翠色をした眼孔は、子供とは思えないくらいの力を示していて。人と幻獣では、生まれながらにして魔力の差があるのだと彼を纏う魔力の強さから嫌でも痛感させられる。

 しかし探究心の強い少女は、魔法使いとの格差よりもその原理や効果の方が気になっていた。聞き慣れない言葉に魔法を使うための呪文だというのは理解していたが、何をされたのかまではわからなかったのだ。


「ねぇ、今のはどんな魔法なの?」

リフェトイェンの精霊に、力を貸してもらっただけ」


 杖も魔法陣も魔導具すら使わずそれだけで魔法が使えるなんて、素晴らしい。それを包み隠さず伝えると「風の精霊による回復魔法」だと教えてくれた少年は、どこか誇らしげに笑った。


「もう歩けるヨネ? ……行こう、ネリ。ポムステムブルは目と鼻の先だから」

「ポムス――ああ、神殿のことね」

「シーアも、みんなもそこに住んでるんだ。ボク以外は神殿ポムステムブルの外へ出ることが許されてないから、きっと羨ましがられるだろうな。ネリの事も、今頃歓迎会の準備でもして待ってると思うヨ」

「……匿われていたのは、ここだったの」


 沿革の万華鏡から得た記憶を反芻した少女は、祖先ドルイドと初代大指導主によって護られてきた彼ら小神族を想い、胸が暑くなった。

 何十年とこの広く、ある意味閉鎖的な空間に閉じ込められていたのは彼らにとっては苦痛なのではないかと思っていたが、目の前にいるスウォンはそんな事を微塵も感じさせない程、明るく健やかに生きている。

 ――全てが終わったら小神族エルフ外界そとで暮らせる、本当の意味での平和な国にしてみせる。

 自分のやるべきことを見つけ、決心のついた少女は聳える魔力の象徴を、真っ直ぐ見つめた。

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