第7話
爆風に押されながら崩壊していく屋敷を後ろに、物凄い速度で遠ざかっていく。
少女は振り落とされないよう、白銀の獣毛を掴み、しがみついた。
今宵は満月。満ちた月明かりが、薄らと暗くなりはじめた空に輝く。月の力のせいなのか、
「……まっ……待って、ウルルク。ねぇ、止まりなさいっ」
数百メートル離れたのか、屋敷は目視できる程の大きさに見えている。
ライト
「やだぁ、こ〜んなところにいた♡」
耳障りな甲高い声が背後から聞こえる。
覆い被さるように抱き込むと、ネリの両手首を持ったまま拘束した。
「あの程度でアタシが死ぬわけないじゃない。アコ先輩って魔女としては尊敬してたけど……詰めが甘いのよ。ホント人間って馬鹿ばっかり」
「何それ、負け犬の遠吠え? ――
「ふふっ、どうとでも言いなさい? にしても……
腕を掴む方と反対の手には、ナイフが握られていて。
逆手に持ったそれを少女の
「――――っ!……ぐっ」
「ほぅら、もっと鳴きなさい」
「こんな、の……なんて事ないわ」
「――ネリっ!!」
「あん♡ 駄目よぉ、近付いちゃ。それ以上足を踏み入れたら、アタシこの子に殺すよりもーっと酷いコト……したくなっちゃうかも」
一度切りつけた下肢に再びナイフが当てられる。
ウルルクは痛みに顔を歪ませるネリを前に、動くことが出来なかった。
「ぅ、ウルルク……
「嗚呼、可哀想なお姫様。――ねぇ、オオカミさん? アタシと取引しましょうか」
マルバノの魔女は少女の
「お前が大人しく協力するって言うのなら……そうねぇ、お姫様にはこれ以上、手を出さないって約束するわ。勿論、マルバノへは来てもらうけど」
犬歯を剥き、威嚇していた少年は女を見据えた。
人型の時よりも
「――ナイフを下ろしてくれ。次に変化を
「っば……ばか、ウルルク!」
「ふぅん? 聞き分けのいい男の子は好きよ」
マルバノの魔女は要求を飲み、ナイフを投げ捨てた。
小さな武器で小細工なんかしなくとも、毛の生えたばかりの子供には負けないと言わんばかりに自信に満ち溢れた表情をしている。
月明かりの下、少年の
「待つのよ。そこで止まって、ほら。解きなさい坊や―― 」
変化を解除するように
勢い良く四足を踏み込むと、牙を剥き出しにしてマルバノへ襲いかかる。幼さの残る幻狼に、魔女は油断したのだろう。
鼻先で少女を拘束する腕を払うと、そのまま喉元に噛み付いた――。
拘束を解かれた隙に、少女は倒れ込むように猛攻する彼を
血飛沫を浴びた幻狼は、口元についた血液を舐めとる。どしゃり、と目をひん剥き倒れ込んだマルバノは、動脈から流れ出す血を止めることが出来ない。
地に伏した女へ致命傷を負わせたにも関わらず、尚も首を喰い千切ろうと、ウルルクは再び飛び掛り、魔女の喉元へ犬歯を刺し込んでいた。
――暗闇に光る眼光が、彼ではなくなりそうで。
既に大量の出血とショックにより息絶えた女には目もくれず、月の光に惑わされた幻狼はただの本能で動いているのか。ブチブチと頭部を
「……もう、いいよ。もう大丈夫だからっ」
「ガゥ、グルルルゥ――」
「ごめん、ごめんね……結局全部、あなたにやらせてしまって……ごめんなさい」
片脚を引き摺り、這い上がる。
ヒトの眼をしていない少年に、ネリは怖がる様子も見せず……強く抱きしめた。
身体の芯が燃えるように熱い。
湧き上がる淡茶色の光が、自我を失いかけている彼ごと包み込む。暖かな
底から魔力が
とくん、とくんと――。
少女の微かな心音が身体を通して伝わる。
自分に触れる心まで包み込むあたたかな抱擁に、双眸に光を取り戻した幻狼はゆっくりと魔法を
「……怖かったわ」
「俺も、途中から自制が効かなくなって――ごめん」
「…………」
「守るって言ったのに、ごめん。でも大丈夫、あの魔女はちゃんと始末――」
「違うわ。本当にあたしが怖かったのは、マルバノの事でも、
変化する際、破けた彼の服にしがみつく。
鼻先を真っ赤にしながら、ネリは大粒の涙を
つたう涙を指先で拭うと、ウルルクも応えるように
「うん、怖がらせてごめん。君に危害を加えられて、正気じゃいられなかった。――ありがとう、おかげで俺は俺のまま、君にこうして触れることが出来るよ」
「――……ばか、本当に馬鹿なんだから」
「ねぇ、ネリ。足の傷は痛む?」
「当たり前じゃないっ……物凄く痛いわ」
骨に到達するほど深く刺されたわけではないが、二度にわたり切りつけられ抉られた太腿からは、未だに出血が見られる。スカートに出来た切間から覗く、白い脚に刻まれたそれは一生物の跡になるだろう。
「けど歩けない程じゃないから、平気よ。それよりも――いくら何でもやり過ぎだわ。これじゃ、正当防衛も認められないくらいにね」
「俺のことは良いんだ、とにかく君の手当をしないと」
横抱きに少女を抱えると、ウルルクは静けさを取り戻した屋敷の方を見つめた。世話になっていた
しっかりした治療をするには、街へ降りる
「……ウルルク、あれって」
草陰が動き、ネリを抱えたまま前方を警戒する。
「――ああ! よかった」
「シェファード、駄目。そんな傷で動いては」
「良いんだよ……もう、残された時間は長くないんだ。最後にふたりの顔を見せてあげたい。なあ、そうだろう――アコ」
見知った漆黒のローブに、牧場には似つかわしくない薔薇の香りが鼻をかすめる。
風に
「――エイダッ! アコ
「ごめんなさい、私が到着した時にはもう……。マルバノが放った魔法と相打ちになったみたいなの。 向こうも、夫人も……打ちどころが悪かったみたいで。もうひとりの女の方は――」
所々が破け、血飛沫を浴び血で汚れている少年に、西の魔女は事態を了知する。レースの手袋をはめた彼女の細い指が、ウルルクの頭を優しく撫でた。
「頑張ったのね、ウルルク」
「とんでも、御座いません……彼女に怪我を負わせてしまいましたから。守るという約束が果たせずに……あまつさえ俺はっ、自分を見失って――」
「大丈夫よ、大丈夫。うん、この怪我なら私でも治せるわ。本当に……よく守り通してくれたわね。ありがとう」
「そうさ、ウルルク。君が今朝、気付いてくれなければ今頃どうなってたか。君の功績は大きい。なんなら大き過ぎるくらいだ」
少年を撫でていたエイダは、アコに擦り寄る少女の肩を引く。振り返り彼女の胸元に飛び込むネリを軽く抱擁すると、しゃがみこんで太腿へ回復魔法を唱えた。
瞬く間に出血は止まり、痛みさえも引いていく。
やはり、傷跡までは元に戻せなかったが、焼かれるような激しい痛みが治まっただけでも、少女の顔色は血色を取り戻し始めた。
「傷が残ってしまったね……女の子なのに、申し訳ない。――アコの後輩だった魔女の遺体や今回の件は、我々大人に任せなさい。
「なんで……や、嫌よっ!
「動物たちのこともあるし、俺もここに残って――」
「ダメよ」
先程まで優しい声色だった西の魔女は、突然冷徹に声を上げる。
「だけど、エイダ様」
「なあ、ウルルク。少しだけ……いいかい?」
それを聞いたウルルクは顔を歪ませ、今にも泣き出しそうに目頭を押さえている。
――言いたいことは山ほどあったが、家族のように自分を迎えてくれた
何を聞かされたのかを知らない少女は問いかけるが、何度聞いても彼は応えようとしなかった。そんな二人のやり取りを横目にしつつ、エイダは
こんな所に置いて行けないと、最後の最後まで少女はエイダとウルルクに
普段冷静なネリも、この件ばかりは彼らの対応が許せなかった。理由も聞かせて貰えず、
「どうして!? あなたもあなたよ。約束したじゃない――隠し事はしないって!」
「ネリちゃん、身を乗り出しちゃ危ないわ」
「離してっ! エイダ、あたしだけでも降ろしてよ……おねがい、お願いだから」
取り乱す少女を隣の席から必死に抑え込む少年は、赤く染った目尻から頬を濡らし、すでに地上から浮いた馬車から飛び出そうとする少女に訴えかける。
「落ち着いて、ネリ。頼むから」
「落ち着いて、ですって? そんなの出来るわけないじゃないっ、もう時間がないのよ! そうだ……
「……ネリちゃんの願いは何でも叶えてあげたい。出来ることなら、私だって――けど、もう、間に合わないのよ……あんな、残酷な発動の瞬間を見せたくないっていうシェファードの気持ち、貴女なら理解出来るでしょう?」
「嫌よ、だって、そんなのって……」
少年たちが屋敷から飛び出した後、マルバノとの戦いは一層激しいものと化した。
時限式にかけられたそれは間もなく発動する。
世の中で最も恐ろしい、魔法。
そんなものは、愛しい子供たちに見せるわけにはいかなかった。
あの時ライトは「どんなことをしてでも、ネリがこちらへ戻ってこないように。決して、僕たちの最後を見ることがないように。お願い、出来るかな。……頷いてくれて、ありがとう。ああ、急に寂しくなってきたなぁ。ウルルクと過ごした数日、本当に楽しかったよ」そう少年に囁き、三人を見送ったのである。
「……こんなの、あたしのせいじゃない! あたしがここへ来てしまったから」
「違うわ、ネリちゃん。悪いのはマルバノであって、貴女ではな――」
――パァァァアンッッ
魔法陣がふたりを包むと、煮えるように膨れ上がり破裂した。
ボト、……ボトッと肉の塊が
気流に乗って、空へ上がっていく馬車の窓から身を乗り出し見えた景色は、人だったであろう辺りに散らばった肉片と、昇る白煙だった。
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