第3話
まもなく日付けが変わろうとする時間。
ネリは枕に押し付けて泣いたあと、寝落ちしていた。
異様に喉が渇くのを感じ、水を取りに起き上がる。
――焦げ臭い。パチパチと燃える音が聞こえる。扉の隙間から煙が入り込み、部屋に充満しそうだ。
少女は飛び起きるとハンガーへ掛けられていた上着を羽織り、机の上に置いたままにしていた杖を内ポケットへしまった。
鼻を突くような臭いに、彼は起きていないのか。
すぐさま隣の部屋へ駆け込み、扉を開ける。
「いない、どうして? 一体どこに……!」
「ウルルク――!」
膝を着き、腕から血を流す彼は、赤黒いマントの男に杖を突きつけられていた。
階段を駆け下りたネリは、少年を庇うように前に出る。
「……あなた、昼間の男ね」
フードを深く被っているため表情は読めないが、唯一出ている顔の下半分の口角は上がっている。ウルルクに向けていた杖はそのままに、男は自身を睨みつける少女に目線を動かした。
「あれ程の気配で気付かれるとは、やはり
「――目的はなに。彼? それともエイダ?」
クツクツと笑う男は、気味が悪い。
目から光の消えた少年を抱きしめるように守りながら、ネリは相手を威嚇するよう見つめた。
「さて……どうだったか」
「誤魔化さないで。彼に何をしたの……正直に答えなさい」
「くくく、ナニも? ああ、少し彼の五感を弄りましたけどね。それだけですよ。危害を加えるつもりはないのです、抵抗しなければの話ですがねぇ」
「独断の反抗ではないのよね? 誰の差し金なの」
「おやおや、時間稼ぎですか? いいでしょう、答えて差し上げます。ワタクシは『マルバノ』。大指導主に
「マ、ルバノ……ですって?
「おやおや、ご存知でしたか。公には報道されていないのに。本当にフランダールの『継承者』は聡明な人ばかりだ」
「継承者ってなによ。あなた、何を知っているの」
「まだ知る時ではないのですよ。後でたっぷりと、お教えして差し上げます。だから、さあ……抵抗せずこちらに来るのです、ネリ・フランダール」
数メートルは離れているはずなのに、男から伸ばされた腕が身体全体にまとわりつく感覚に
緊縛魔法を掛けられたのだと、気付いた時には遅かった。
緊縛の効果により、身動きが取れない。
――レベルが違いすぎる。
煙が蔓延しはじめた屋敷。
時間も猶予もない中で、少女は彼だけでも逃がす方法を必死に考えていた。
おそらく、彼にかけられた五感奪取の魔法は、視覚、聴覚、嗅覚だ。人体に影響を与えるこの魔法は禁止されているが『反国家組織マルバノ』の魔術師にとっては関係の無いことなのだろう。
この状況を打破するには――。
(……リ、ネリ)
(ウルルク……! 聞こえるの?)
細々としているが、確かに、彼の艶やかな声色だった。
向こうに悟られないよう、お互いにしか聞こえない音量で話しはじめた。
(ああ――良かった、気配はあるのに、匂いがわからなかったから)
(ヒトの心配はいいの、その腕は?)
(平気……切っただけ。ねえ、ネリ……出来るだけ遠くに逃げて。まだ目は見えないけど、何とか君を逃がす事くらいは――)
彼を守るように
『幻狼の血』を持つ少年の底知れぬ魔力に、少女は希望を見いだした。
(よく聞いて。アイツの気を逸らすから、その隙に獣化するの、良い? あたしが合図したら九時の方向に、何でもいいから衝撃を与えるような魔法を飛ばして。あの魔術師が入れない所……アルプゥ山脈の氷山へ行って!)
(何、何言って――ネリはどうする気!?)
(アイツの狙いはあなたよ。大丈夫。時間稼ぎくらいは出来るはず)
「そんなこと出来るわけないだろっ!」
迫り来る炎を
肌を刺す冷たさに、ブルりと身が震える。
そんな彼に一瞬怯みを見せたマルバノは、突然の強風に杖を落とす。その隙をついて、ウルルクはしゃがみこんだネリを担ぎ上げた。
「薔薇よ、その棘でやつを捕らえろ!」
―― 『
玄関先に飾られた黒薔薇の
※※※
「……はっ、は……っぐ……!」
「ウルルク、ウルルク降ろして」
「駄目だよ……ネリ、まだもう少し離れてからでないと……は、はぁ」
白銀の大地に、赤黒いシミが点々としている。
血が止まっていないのだ。
硝子で切った、と言っていたが。恐らく心配させまいと嘘をついたのだろう。
「いい加減に……なさいっ!」
「――っ、痛」
担がれた状態で思いっきり頭を殴ってやる。
衝撃で地面に落ちるかと思ったが、彼はそんなことはしなかった。
グラついた体勢を、寄ろけながらも立て直す。
「ひど……ひどいよネリ」
「酷いのはあなたの傷口よ! 見せなさいっ」
木陰になっていて、周囲から視認しずらい場所へ座らせる。
白いシャツを捲らせると、紫色に変色した切り傷があった。
「毒薬ね。あなたに攻撃した時に、同時に使ったんでしょう――嫌な男」
「大丈夫だよ、
「バカね、こんな猛毒、いくら
「え、ええ〜そんなぁ」
「情けない声出さないで頂戴。平気よ、まだ吸収されてはいないから。腕を出して」
少女は少年の傷口に唇を当てると、表面に漂う猛毒薬を吸い出す。
はじめは後ろめたさと羞恥心で抵抗していたウルルクだったが、有無を言わさずホールドしてくる彼女に、次第に抗うことをやめた。
「この辺にも生えてて助かったわ」
抗炎症作用や解毒効果のある『ユキノシタ』が偶然にも近くに根を生やしていて。
本来なら
身体へ吸収される前に吸い出しに成功したお陰で、彼の自前の治癒力も
「昨日は悪かったわね」
「……ネリ?」
「――つい感情的になってしまったわ。あたしとした事が……あなたのせいよ。いつもそんな緩んだ顔しているから、
「ほ、絆された……て」
「あれは嘘じゃない、本心。だけどあんな風に一方的に怒鳴りつけることなかった。……慣れてないのよ、守られるってことに」
「俺も、ごめん。君がああいうの、一番イヤなのは薄々分かってたのに。配慮できなくて」
不意に訪れた沈黙のなか、遠くの方で家事に気付いた街人たちが、サイレンを鳴らしながら屋敷へ向かっているのが見える。
「――あなたと気まずいのは嫌なの。これで、仲直りよ。けれど、もう隠し事はしないって約束して。どんな要件であろうとも」
「うん、俺も。ネリとは一番仲良くいたいから……約束する。隠し事はしないし、これからも君を守るって。俺が、君の居場所になるから」
鳴り止まないサイレンと人々の声。
ふたりは山の上から、それを見下ろしていた。
全て、焼け落ちてしまったおばさまの屋敷。
持ってこれたのは、ポケットに入っていた小銭入れと使えない杖だけ。
――あの男の行方が気になるが、追跡してこないところを見ると……邸と一緒に燃え朽ちたのか。はたまた、逃げ延びたのか。
こうしていても埒が明かないと、少年と少女は手を取り少し先の山小屋へ足を動かした。
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