赤いきつねと、産後の私。

テル

第1話 赤いきつねと、産後の私。

 息子は生後1ヶ月。まだ自分が何者かも分かっていないこの生き物は、とにかく泣いて存在をアピールする。それが早朝だろうが夜中だろうが、関係はない。


 夫は育児に協力的であるものの、夜勤や出張がある忙しい仕事をしている。お互いの両親は遠方なので、夫が夜勤の日は、夜中に頼れる人がいない。


 出産時のダメージは、全治8ヶ月だと聞いたことがある。私はまだ産後1ヶ月。身体はズタボロ、ホルモンバランスも乱れ、心の中はぐちゃぐちゃだ。それなのに、不眠不休で延々と赤ん坊の世話をしなければいけないのだから、正直意味がわからない。


「ふぎゃあふぎゃあ!」

「はいはい……ミルク作ったよ……。」


 まだ母乳の出が安定しないから、母乳とミルクの混合育児。ミルクを作り、母乳を吸わせ、ミルクを与え、おむつが汚れていたら交換し、服が汚れたら着替えさせ、寝かし、哺乳瓶を片付ける。これだけで1~2時間かかることも多いのに、この時期は3時間おきに授乳をしなければならない。やることをなんとか終えてベッドに入っても、疲れすぎていてすぐには寝付けず、そうこうしているともう次の授乳時間になってしまう。


――今日も、一睡もできなかった。


 そんなことは日常茶飯事で。いつか終わると分かっていても、「今」がとにかく辛いわけで。




 今は夜中の2時。たまたま授乳も寝付かせもスムーズにこなせたので、1時間でもいいから眠ろうと思ったところだった。


――ぐぅ


 腹の虫が鳴く。そういえば、今日は何か食べただろうか。

 赤ん坊の世話をしながら、適当に何かを口に突っ込むだけの生活をしていたから、いつ、何を食べたかなんて、覚えてもいない。


「きつね……。」


 台所の隅に置いてあるのは、夫が自分のために買い置きしている、赤いきつね。


 育児中、もっとも不向きといってもいい食べ物が、カップ麺だ。


 お湯を入れて3分待つ間に、やれ抱っこしろだの、やれおむつを変えろだの、赤ん坊の要求は時と場合を選ばない。気が付いたら、でろでろになったカップ麺が出来上がる。

 そして赤いきつねは、熱湯を入れて5分。3分ではなく、5分。正直、かなりハードルが高い。


――ぐぅ


 そうこう考えている間にも、腹の虫は鳴き止まない。今はなぜか、赤いきつねを作りたくてたまらなかった。温かい食べ物が、食べたい。

 もし、でろでろになったとしても……食べてやる。


 ミルクを作るときに多めに沸かしたお湯を軽く沸かし直し、赤いきつねに入れる。



――1分


――2分


「ふにゃあ……。」


 赤ん坊が少し唸る。しかし、起きるまでには至らなかった。


――3分


――4分


 あと少し。


――5分



 泣き出す前にと、慌てて食べる。


「あっつ……!」


 熱湯で作るうどんだ、熱くないわけがない。


「熱い……熱いなぁ……うう……。」


 涙が溢れた。熱をもった食事をとるのは、いつぶりだろう。熱いうどんが、喉元を通り過ぎていく。


 そういえば、赤いきつねのお揚げが大好きだったなと思い出し、汁を吸ったお揚げをかみしめた。うま味がじゅわっと口の中に広がる。


 口の周りについた汁も、流れる涙も、拭わずそのままで食べ進めるものだから、顔中が汁まみれだ。それがまた、幸せだった。


 一呼吸もおかずにうどんをすすり、お揚げを食べ、汁を飲み尽くした。さっきまでの鬱々とした気持ちは、汁と一緒に胃に落ちていったかのようで、今はとても晴れやかな気分だ。




「ふぎゃあふぎゃあ!」


 赤ん坊が泣く。食べ終えたあとぼーっとしていたようで、いつの間にか授乳の時間が迫っていた。


「は~い。お腹空いたね?ちょっと待っててね。」




 腹こそ膨れたものの、睡眠不足も、ワンオペの辛さも、心身のダメージも、実のところ何も解決してはいない。それでも、赤いきつねは凍えた私を温め、大いに癒してくれた。


 心なしか、息子がさっきよりもかわいく見える。気持ちに余裕ができると、こんな恩恵も得られるのか。


「ふぎゃあふぎゃあ!」

「……お母さん、もうちょっとがんばれそう。これからもよろしくね。」



 今日食べた「赤いきつね」のおいしさや、温かさを、私は一生忘れない。

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