後編

星が墜ち始めて、どれほどの時間が経ったでしょうか。

しかし、いつになっても、どぽん、と音が鳴ることもなく、

ただ風の切り裂かれる音が聞こえてくるばかりです。

不思議に思って恐る恐る目を開くと、自分たちが身を預けている翡翠の星は、

海面すれすれの高さをものすごい速度で飛んでいるではありませんか。

隣を見やると、少女が伏せて肩を震わせています。


ちょっと。ぼくをおどかしたの。ひどいよ。

ホントにホントに、怖かったんだよ。


少年の猛抗議を聞いて、少女は顔を上げました。

やっぱりその顔は涙が溢れるほどにひどく笑っていて。

口を尖らせながらも仕方ないなと少年は口をつきます。

眩しいくらいの笑顔はまたけほけほとむせ返り、

再び向き直ったその顔は、

小鼻の内から鮮血を滴り落としていました。


少年は慌てて、少女の鼻筋を押さえて下を向かせます。

血がぼたぼたと落ちていきます。それを見て、少年はハンカチを探し始めます。

でもパジャマのまま着替えることもせずに飛び出したものですから、

カバンもなければ、ポケットも胸元にしかありません。

ただ幸運なことに胸元のポケットにはハンカチが一つ、くしゃくしゃになって入っていました。

そして、それを片手でぎこちなく開いて、少女の鼻の下をハンカチで押さえます。 


少女はその愛らしい両の眼をいっぱいいっぱいに丸めて

少年を見守っていましたが、

鼻を覆うハンカチが朱く染まっていくのを見て、

やがてばつが悪そうに目を伏せてしまいました。


四方に広がる海の真ん中で、少女の血が落ち着くのを待ちます。

調子づいて海上を飛ばしていた星は今、

その場にふよふよ浮いたまま、先に落ち着きを取り戻していました。

それでも相変わらず海風がきつく吹き、じっとりと少年の頬を撫で付けます。


ハンカチが朱でいっぱいになってもまだ止まず、海で洗って固く絞って、

また溢れ出てくる血を抑えます。

それを三回くらい繰り返した頃に、

朱の広がりはようやく収まってきました。


波と海風のさざめき声が、二人の周りを通り過ぎていきます。

その他の音など一つもなく、ただ凛とした空気の中で、

少女はにわかによろよろと立ち上がります。


座ってなきゃだめだよ。

さっき、あんなに鼻血を出してたじゃんか。


心配そうな少年の声に、少女の声が答えます。


大丈夫だよ。


そんなふうに、聞こえた気がしました。


それから、まるで夢を見ているような不思議で素敵な出来事が、

少年の周りを取り囲みました。


足元の翡翠が一際輝き、徐々に高度を上げていきます。

溢れる光はホタルが空を舞うようにつぶつぶになって、二人の周りでさんざめきます。

少女がにっと少年に笑みかけると、くるりと後ろに翻り、

その愛らしい声を高らかに上げながら空を仰ぎました。


すると、星はにわかに速度を上げて、空を切り裂き天へ登っていきます。

綿あめ雲がだんだん近づき、やがてもやのように広がり少年を包みます。

もやはやがて晴れ、雲の一つも見えない空の上へと、二人を乗せて星は進みます。

西に沈む満月はいつも見上げるより更に更に大きく美しくて。

月に広がる海すらも、まともに見られそうなほどでした。


夜と星と、僅かな朝焼けを散らしたキャンバスの上で、少女は満月の光を浴びて、深く深く息を吸います。

彼女の胸元が、透き通った上空の空気をはらんで膨らんで。

星雲が彩る背景に月白の髪が浮かんで揺れて、月光をい交ぜ煌めいて。

細身でしなやかな体躯が、一層大きくなった月に、大きな大きな影を作る。

その絵をずっとずっと、少年は見ていたいと思いました。


少女の背中越しに、二条の光がキャンバスを新たに彩るのが見えました。

箒星のように美しく尾を引く二条の翡翠は、まっすぐにこちらに向かってきています。

二人は、一緒になって眺めます。


やがて少女はくるりと翻り、少年と視線を重ねました。

安堵と喜色を浮かべた顔は月を背にして影がかり、

目尻を下げた少女の、瞳に宿した翠玉の煌めきは、溢れ出した涙に滲んで揺らめいています。


さよならがもう、目の前にまで近づいている。

少年は、そのことを察知しました。


名残惜しさとともに少女を見つめる少年の、視界が涙に満たされていきます。

不安が去った表情を見て安心し、無事に帰れることを一緒に喜び、

次に会えることはないだろうと寂しみ、楽しかった一夜を省みて惜しみ。

心いっぱいに正反対な感情がまぜこぜに流れ込んできてぐちゃぐちゃにかき混ざって、

泣いているのか笑っているのか、誰にもわかりません。


ぐちゃぐちゃになった少年を見やった、少女もまた寂しさに顔が歪んでいきます。

でも少女は唇を噛み締めます。そして精一杯に笑顔を作ります。

それでも涙は溢れ出て、頬を伝って流れていきます。


少女は首の後ろに手をやり、ネックレスを外しました。

そのまま少年の首元にそれを寄せ、ぱちんと、かすかな音を立たせました。

しゃら、とかすかな音と共に、八つののついた星が少年の胸元に落ちてきます。


また、会えるよね。


二人は優しく抱擁をし、近づいてくる別れを惜しみました。

少し背の高い彼女の、温かくて柔らかで甘い感触が、優しく少年の額に触れました。



それからの後の事を、少年はあまり覚えていません。

気がついた時にはベッドから転がり落ちていて、

寝ぼけまなこで拾った時計は、七時四十五分を指していました。

あと十五分で学校が始まるものですから、少年は大慌てで支度をして、

飛び出すように家を発ちました。


昨日の夜はあまりにも非現実で。

あの大冒険の顛末を、友達に話したくてたまりません。


でも、夢だったのかもしれない。それほどに、非現実な一夜でした。


学校に着く前には、少女からもらったネックレスがなくなっていることにも気づき、

なくしてしまったのか、そもそも夢だったのか。

どちらにしても少年は悲しくて、学校へ駆ける一歩がだんだんと鈍ります。


校門をくぐると同時に、始業のチャイムが鳴りました。

ウェストミンスターの鐘の音は、どこか遠くに聞こえた気がしました。


休み時間の教室は、昨晩の流星群のニュースの話で持ち切りなのに、

星の話に食いついて来そうな少年が全く話の輪に入ろうとしないので、

クラスの子たちは不思議に思っていました。

話掛けられても心ここにあらずで、

星のことに関しては人一倍熱心なはずの少年は、

呆けたように空を、ただ広がる青に星が隠された空を眺めていました。


授業が終わり、放課となり、児童たちは各々の帰路に着きました。

それでもまだ呆けたように空を眺める少年は、

友達に引きずられてようやく帰路につくことが出来ました。

ちょっと心配そうな友達に、大丈夫と弱々しく微笑む少年でしたが、

彼の関心は未だに、茜に染まりだした空の向こうにありました。


家に着いた少年は、お母さんの声に呼び止められます。


パジャマのポケットに、こんなものが入ってたよ。

一緒に洗濯するところだったから、気をつけてね。


お母さんの手が少年の手の上で緩やかにほどかれます。

そしてしゃら、とかすかな音とともに、少年の手の中に墜ちてきました。


開かれた少年の掌の上で、八つののついた星が、

きらりと、翠玉のように煌めきました。

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