Birthday

 春が近付いていた。


 ニクスがブラックバードを仕留めて戻ってまもなく、ネーヴェは床に臥せるようになった。日増しに重くなる。そして日差しに暖かさが混じるようになった今では、一日にわずか数度起き上がる事すらも難しくなっていた。


 春一番の風が吹いたら、シェレグの民は全員が一つ年を取る。そして、新しく結婚する者や、成人を迎える者は、火渡りの儀式を執り行う。


 火渡りの儀式は、帯のように道のようにくべられた枯草の上を裸足で走り抜け、以て太陽の神への挨拶と為す神事である。いつの昔よりこれが行われているのか、知る者とてない。


 この春からニクスの妻となり、そして正式にシェレグの民と迎えられる事となっているネーヴェも、この儀式に参加する事が早くから決められていた。だが、その病は、いや、本当に病であるのかその原因すら定かではないのだが、一向に快方へと向かう気配が無かった。


「ネーヴェ。きょうは、具合はどうだ」

「……あまり良くはありません」


 火渡りの儀式はもう明日というその日、ニクスは手ずからにネーヴェの看病をしていた。日頃はルミが主に世話をしているのだが、流石にこの日は特別であった。


馬頭琴ギタアを。貸してはくださいませんか」

「起き上がって大丈夫なのか?」

「なんとか……」


 天幕の柱に背をもたれさせながら、か細い声でネーヴェは謡った。


Quis novit quantum temporis et ego dilexi vos.

Tu scis te amo usque.

Et ego exspectabo sola vita...


 意味は相変わらず、ニクスには分からない。だが、これまで一度もうたの意を答えた事がなかったネーヴェが、この時はニクスに、その内容とするところを教えた。


『私がどんなに長くあなたを愛していたか、誰が知るだろうか

 私が今もあなたを愛していることを知っていますか

 孤独な生涯だけが私を待っているのだろうか……』


「寂しい歌だな」

「ええ」

「明日が終わったら。やはりスネェーフリンガに行くよ。そうすれば薬も……」

「薬では……どうにもならないから」

「滋養のつくものでもいい。一緒に行くのは難しかろうが……」

「それよりも……今は。ただ、隣に居てください」

「ああ」


 翌日。


 日頃はニエベの大草原に広く散らばって暮らすシェレグの民が、一堂に会する姿は壮観であった。そのような光景は、年に二度、この春の火渡りともう一度、競技大会ナーダムの日に見られるのみである。


 火渡りの儀式が始まる。


 シェレグの若者たちが、次々に熾火おきびの上を駆け抜けてゆく。かろうじてここまでやってきたネーヴェも、ニクスと手を繋いで火の道の始まりに立った。


「ここまで来たら、あとは一気に駆け抜けるだけだ。躊躇うなよ、躊躇って立ち止まるようなことがなければほとんど火傷をすることはない」

「……ええ、ニクス。行きましょう」


 二人は走り始めた。


 火渡りの帯はそんなに長い道のりのものではない。


 だが、確かに見た。


 ニクスは確かに見た。


 火の上を走るネーヴェが、ゆらゆらと靄のように揺らめいて、そしてその姿を薄れさせていく光景を。


 やがてネーヴェの姿は完全に中空に掻き消え、誰も二度とその姿を見ることは無かった。


 二度と忘れられない光景だった。


 さようなら、という声を、聴いたような気がした。


 火渡りの終わりに、ルミが待っていた。ルミは、ネーヴェから固く口止めをされた上で、その素性のすべてを聞かされていた。この日、このときにすべてをニクスに打ち明けるようにと。


「兄さん。兄さん。あの人は……いいえ、あの方はね……」

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While My Guitar Gently Weeps きょうじゅ @Fake_Proffesor

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