Cry Baby Cry

 それからネーヴェは、ニクスとニクスの家族とともに日々を過ごすようになった。


「ニクス、羊を取り分けましたよ」

「ああ、ありがとうネーヴェ」


 ネーヴェはかいがいしくニクスの世話を焼いた。ニクスは一家の主同然の身であるので、食事は第一番に取る事になっている。ただしネーヴェは別である。ネーヴェを客と見做すならばネーヴェに最初の器を渡す事になる。ネーヴェを家の構成員の一人であるとみなすのならば、女たちの中で相応の序列が与えられる事になる。


 ネーヴェはそれに及ぶ価を払っているのだから、冬の間ずっと客人らしくに振る舞う事もできるはずであったが、そうしていても手持無沙汰であるからと言ってネーヴェはニクスの家の女たちに混じって食事をし、またはたを借りて織物をした。その腕前は巧みであった。ただ、その紋様は明らかにシェレグの民のそれとはまったく異なるものであった。ルミは尋ねた。


「ネーヴェさん。一体どこで、こんな編み技を覚えられたのです? スネェーフリンガの様式でもありませんよね」

「遠く遠く……遠く遠くからやってきた旅人から。教えられたのです。その人がいずこの地からやってきた方であったのかは、私も存じ上げません」


 そればかりではない。ネーヴェは裸馬すら乗りこなした。スネェーフリンガの民は馬に鞍を置き、鞍にあぶみをつける。鐙もなしに馬を乗りこなすには、シェレグの民のように生まれながらに馬とともにある暮らしが不可欠である。だがネーヴェは、シェレグの民と同じように鐙のない鞍を用い、さらには鞍を置かぬ馬さえをも乗りこなして見せ、はじめはこれを余所者と侮ったシェレグの民たちの鼻をあかしてのけたのであった。


 騎上に羊の群れを追うのはシェレグの民のあいだでは男の仕事であるから、つまりニクスの家ではニクスがひとりそれを行ったが、ネーヴェは時折、借り馬でニクスとともに草原に出て、羊たちに草を食ませる事があった。


「寒くはないか」

「いいえ、ちっとも。あなたと居れば」

 

 シェレグの民において、このような事を行うものは夫婦めおとであるか、然らずんば恋仲にある若い男女に限られるのであった。もしかしたら、ネーヴェはシェレグの民ではないから、かれらのそのような慣習を知らないのかもしれない。だが、ニクスがネーヴェを身辺から追い払わないのは、そのような意志を表明したものであると周囲から受け止められて当然であった。


「ネーヴェ。春が来たら、そなたはどうする」


 そう言うと、ネーヴェは物哀しげな表情を見せた。


「どう答えて欲しいのですか?」

「……ニエベに残るつもりはないか。もう分かっていると思うが、シェレグの民の暮らしは厳しい。並みならば余所から来たものがここで長く暮らす事はできぬ。だが、そなたならば」

「私は……」


 ネーヴェは口ごもった。


「おれの妻として、ここで暮らしていくつもりはないか。ネーヴェ」

「……あなたの心には、まだネージュがいるのでしょう」


 もちろんこの頃になるとネーヴェも当然、ネージュの死の顛末は聞かされている。遊牧部族のながの夕べに何人もが同じ話をしたが、主にはルミからであった。


「私は失った人の代わりなのですか」

「……違う。確かに、おれはネージュを忘れてはいない。だが過去を滅ぼさずとも、現在いまを愛する事はできる。それが人の有り様というものだろう。そなたは、違うのか」

「ならばあなたを見込んで、そしてあなたの想いに応えるために言いましょう」


 ネーヴェは大きく息を吸って、言い放った。


「ネージュの仇を討ちなさい。あなたの心のかせを、解き放つ為に」


 ネーヴェはとっくに知らされていた。ネージュは、病に倒れて死んだのではない。ネージュの一家の天幕は、野獣に襲われたのだ。漆黒の巨体を持つ、ブラックバードと呼ばれるヒポグリフォに。


 ヒポグリフォは鷲に似た頭部と胴に馬に似た下半身を持つ、天を舞う獣である。本来、性格は比較的温厚で、飼い慣らす事はできないまでも人間の集落を襲うような事はまずない。稀に馬や羊が襲われる事はあるが、それだけである。


 だがブラックバードだけは別だった。その両親のどちらにも似ない漆黒のからだと、他のヒポグリフォと一回りも違う巨大な身体、そして獰猛極まりない、人間に対する敵意とも言うべき執拗さ、獣には有り得ざる知性。ブラックバードはネージュの家族全員のはらわたを喰らって腹を満たした後、ネージュひとりに対してはこれを喰らうでもなく、ただこれを苦しめんが為だけに、命の長らえ得ぬ深手のみを負わせて去ったのである。


「……分かった。約束しよう。おれはブラックバードを討つ。そのときは」

「ならばそのときは、ネーヴェの名にかけて私のすべてを捧げると誓いましょう」


 ブラックバードは何処にいるのか。ヒポグリフォは冬の季節、キオーンの高峰の頂近くで冬を越える。それはただ可能性であるにすぎなかったが、探すとしたらそこを探すより他は無かった。


 シェレグの民がこれまで束になっても討つ事が出来なかったブラックバードを、こともあろうに一人で討ちに行こうとするニクスの蛮と勇を、シェレグのひとびとはこぞって讃えた。かれらは尚武しょうぶの気風をたっと剽悍ひょうかんな民であった。無謀である、などという事はかれら自身を止めはしても、かれらが人を止める理由とはならないのである。


「ニクス。たとい生きて還る事がなくとも、そなたの名はシェレグの勇者として百年ののちまでも讃えられる事となろう」

「ニクス。たといブラックバードを討ち果たさずに帰り来る事があっても、そなたの勇気が損なわれると考えてはならぬぞ」

「ニクス。そなたのやじりが、より鋭くありますように。そなたの円月刀シャムセルが、ブラックバードの喉笛を切り裂く事ができますように」

 

 ニクスは弓と円月刀の名手であった。ニクスのために、ルミが矢をこしらえた。ただの木の矢ではなかった。特別に鋭い、そして特別に硬く白い、遥か遥か南方からの交易によってのみ手に入れる事のできる白雪石はくせつせきと呼ばれる鏃を用いた矢であった。それを作る事はただ純潔の乙女のみに許される、神事にも用いられる矢であった。


「行ってくる。どうか、旅と戦いの無事を祈ってくれ」

「ええ、私の愛しき勇者。どうか武運を」


 愛馬に跨り弓を負い、ニクスはキオーンの山へと旅立って行った。往復だけで三日と三晩はかかる旅路となる。その間、羊たちの面倒は、異例の事ではあるがネーヴェが見た。夜になり、羊たちを囲いの中に入れると、ネーヴェは馬頭琴を取って謡った。


 Heu: Bill Sint Eustatius

 Quid existis interficere Sint Eustatius Bill?

 Heu: Bill Sint Eustatius

 Quid existis interficere Sint Eustatius Bill?


 五日が経った。夜の事だった。


 どさりと、重い物が天幕のうちに投げ込まれた。人間のものより二回りは大きい、漆黒の首級。


 ブラックバードの首であった。


「兄さん! 兄さん! よく無事で!」


 ルミが兄のもとに駆け寄る。


 ネーヴェは丁度奏で終えた馬頭琴を置き、そして静かに微笑みを浮かべた。

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