While My Guitar Gently Weeps

きょうじゅ

WHITE ALBUM

 ニエベの地に雪が降った。キオーンの高峰のいただき近くを除けば、ニエベの地に積もるほどの雪が降るのは、近隣に暮らすシェレグの民の最長老でさえもが初めて経験する事であった。


 故にれも雪に戯れるすべさえもを知らず、また雪で遊ぶ事など考えてもみないのであったが、ただニクスという若者が一人、雪でもって人形をこしらえて、自らの天幕の脇に飾った。ニクスにはその前の夏まで、恋人がいた。ネージュという、可憐な娘であった。来年の春、二人が十八になったら――シェレグの民は春が来るたびに一つ年を数える――祝言を挙げる約束となっていた。


 ニクスはその雪だるまを、ネージュと呼んでいた。シェレグの民で、それを憐れまぬ者は居なかった。


 ところが、ある日の事である。


「ネージュ。ネージュ? どこへ行った?」


 それを聞いたニクスの妹のルミなどはとうとうニクスが狂執を発したのではないかと恐れたが、そういうことではなかった。ネージュの雪だるまが、何処かへ消えていたのだ。ニクスはただそれを気にかけただけであった。


 シェレグのわらしの仕業であろうかとも思われたが、いずれにせよ、所詮はただの雪だるまの事である。ニクスも、あえて新しい雪だるまを作ろうとまではしなかった。


 さて、その夜の事。ニクスの天幕を、たたくものがあった。ニクスはたまたま起きていたから、応対に出た。


 見知らぬ、若い娘であった。ただ、ほんの少し、ネージュに似ていると、ニクスはそう思った。


「旅の者です。馬を荷と共に失ってしまい、途方に暮れていたところ、遠きに見えた灯りを頼ってここまで来ました。どうか、一夜の宿をお貸し願えませんでしょうか」

「お入りなさい」

「ありがとうございます」

「こちらは妹のルミ。向こうにいるのが母の……」


 順繰りに、紹介と挨拶をして回る。娘はネーヴェと名乗った。


「しかし、また途方もない事だ。一体、何処からここまでお越しになられたのか」

「スネェーフリンガの里から」


 スネェーフリンガは“地を耕す民”のものとしてはニエベから最も近くにあるむらである。とはいっても五千ヌンは距離が離れているし、冬には隊商の往来も途絶えるのが習いであったが。


「ネーヴェさん。いったい何故、スネェーフリンガからはるばると、こんな冬の平原を旅して来られたのか」

「……どうしても、お会いしたい方がおりました。この冬でなければ、お会いする事の叶わぬ方でした」

「成る程、詳しい事情はさておくとして、ようは色恋の沙汰か」

「お恥ずかしながら、そうなります」

「羨ましい仁だ。そなたのような美しい娘に、そうまで命をかけた懸想をされようとは」

「……そう、お思いになられますか」


「お飲みになってください。温まります」


 ルミが、薬草を煮詰めた熱いバタァ茶を娘に手渡した。娘はふぅふぅと器を吹いて、そしてそれを何べんも繰り返してからそれを飲んだ。


「寒い中をここまで来られたのでしょうに。変わった事をなさりますね」

「猫舌なものでして……」


 ニクスはネージュの事を想った。ネージュもひどい猫舌で、むかし元気だった頃も、特にバタァ茶の熱いものをひどく嫌がったのであった。あの夏にネージュの末期まつごの床で、ニクスはネージュのためのバタァ茶をふぅふぅと吹いて冷ましてやったのであった。


「それで、今夜はここに泊まってもらうとして、これから、どうなさるのか。馬なら、あたい次第で用意できぬ事もないが……」

「いえ、もういいのです、それは。追うあても失ってしまいましたし。これも運命だったのだと、きっぱりとそう考えようと思います」

「そうか」

「春まで、ここは他所よそと交わりを持たぬのでしょう。春まで、ここに置いてはもらえないでしょうか。価ならばここに」


 娘が取り出したのは宝石であった。


「これは。ホーの結晶か」


 ホーの結晶と呼ばれる石は、キオーンの高峰の頂近くでのみ稀に見つかる。採集は容易ではないが、シェレグの民にとっては希少な交易資源であった。婚姻の儀式にも用いられる。


 ニクスはネージュの事を想った。あの夏、もはや先は長くないと思われたネージュのために、キオーンの高峰へと登り、ネージュに贈るため、ホーの石を探した事を。そしてその石は、ネージュがはかなくなったその後に、ともに葬ったのだと言う事を。


 ホーの石は雪の中に生まれる自然の結晶だと言われる。二つと同じ形のものはない。娘が見せたその結晶は、大地へ埋めたはずのあの石にひどくよく似ていた。だが、そんなはずはないと、ニクスはその考えを振り払った。


「有り難い」


 言葉少なく、ニクスは感謝を述べた。それは祝するに足る価であったので、ニクスの一家の羊の中で、もっとも健康的に肥えたものが一頭、屠られて饗応とされた。


 ニクスには父が亡い。ニクスはまだ成人の儀も迎えてはいないが、その実において女ばかりの一家の家長であった。よって自らの手で羊をき、大地に寝かせその心臓の管を指先で千切り、贄とした。もちろん、その血の一滴とても大地にこぼつ事はないのである。


 通常、羊はただ煮て供されるのであるが、特別の祝いであるので、羊の中でもっとも好い腹側の身を炙り、これは本当に彼らシェレグにとっては貴重なものなのであるが、香辛料と塩とを振ってネーヴェへのもてなしとした。


 ニクスの家族のうちで、ニクス自身を含め、ネーヴェの一挙手一投足に興味を示さぬものはない。ネーヴェの振る舞いは、スネェーフリンガの民としては随分と、シェレグの習慣に馴染むようであった。


 そればかりではなかった。ネーヴェは、柱に掛けられている馬頭琴ギタアを見、あれを貸してくれないかとニクスに乞うた。


「それはもちろん、構わないが。馬頭琴が珍しいのか」


 ニクスは馬頭琴を下ろしながら尋ねた。


「いえ、久しぶりに弾いてみようかと思いまして」

「そなた、シェレグの馬頭琴ギタアの弾き方を知っているのか」


 この馬頭琴は、ネージュの遺品であった。シェレグの民において、馬頭琴を弾くのは通常、男の役割である。だがネージュは女の身にありながら馬頭琴を好んだ。禁じられているわけではないが、それは極めてまれな事であった。そしてまた、シェレグの民ならぬ者が、馬頭琴を弾く事はさらに絶えて聞かぬ事であった。


 ネーヴェは馬頭琴を受け取り、演奏を始めた。堂に入っていた。ただ、その曲はニクスも、その家族も知らぬ曲ばかりであった。故に唱和が出来ぬ。ネーヴェはひとり、馬頭琴を弾きながらうたった。ニクスの知らぬ言葉であった。


 Quæ te diligit, quæ te diligit, quæ te diligit.

 Et puto tam amore tuo perdidisti te vidi heri sui...


 曲を終えたネーヴェに、ニクスは尋ねた。それは何処の誰れによるどういった曲であるのかと。だが、ネーヴェはただ微笑んで、答えぬのであった。

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