第2話 現実から、目を逸らしていた

ー皐月、ある日の午前ー

日帰りの小旅行と云おうか。弟夫婦が住む公営の住宅を、夕刻に出ていた。父親は、機嫌が良さそうである。どんな形でも、十四年振りに、親子五人揃ったのが、うれしかったのだろう。そんな父親が運転する車の後部座席で、ある日の事を思い出していた。まだ、春の香りが残るゴールデンウィークの中日。初夏の香りがしはじめていた午前の事。

家の電話が鳴り響く。朝から、妻の加奈と喧嘩をしていた宗司は、不機嫌のまま、受話器を取る。電話の相手は、母親であった。内容は、弟夫婦が来てるから、顔を出せと云う事であった。普段であれば、無視するであろうが、今年の二月の頭、弟夫婦に、男の子が生まれた事を知っていた宗司は、末っ子の秋吾を連れて、家を出る。

宗司は、赤ちゃんに飢えていた。今、手を繋いでいる秋吾も、今年、幼稚園に通うほど、大きくなってしまった。許されるならば、生活が出来るのであれば、子供は、いくらでも欲しいと思っている宗司。弟夫婦が来ていると云う事よりも、生まれて間もない赤ん坊をこの手で、抱けるというという思いだけで家を出た。

(赤ちゃんを抱ける。赤ちゃんを抱ッこ出来る)

そんな言葉を、綻んだ表情で口ずさみ、軽い足取りで、団地の階段を下りていく。


同じ団地内、住んでいる棟だけが違う実家。歩いて数分と云うところだろうか。いつもは、とても近い実家でさえ、顔を出さない宗司。どうしても、父親と顔を合わせば、喧嘩をしてしまう。なぜと云われれば、適当な言葉が見つからない。本質的なものが、合わないのか。父親に対して、納得いかない事が多いのか。宗司自身にも、理由はわかっていない。只云える事は、父親と喧嘩をしたくないから、実家に顔を出さないと云う事は、確かな事であった。

末っ子の秋吾の手を引きながら、歩いていると、見に覚えのある女性が、宗司の視界に現れた。まだ、小さな赤ん坊を両手で、優しく、寝抱っこをさせながら歩いてくる。お互いに目が合った時、向こうの方から会釈をしてきた。ハッとして、宗司は思い出す。義妹の枝美子であった。

「お兄さん、お久しぶりです。」

そんな言葉を発して、近寄ってくる。宗司、義兄が来る事を聞いて、出迎えないと、失礼だと思ったのであろう、そんな気使いを嬉しく思う。

「あっ、どうもどうも…」

正直、弟の嫁である枝美子の顔も名前も、イマイチ覚えていない。なぜかと云うと、理由は簡単である。ほんの数回しか、会っていないからである。弟と、今、目の前に居る枝美子との結婚式にも出ていない宗司。なぜかと言われれば、それもまた、言葉にしにくい。姉に続き、父親、弟の颯太とも、うまくいっていなかった。宗司とは、全く違う生き方をしてきた姉、納得がいかない生き方をしてきた父親、自分自身とは、全く正反対の性格の弟。宗司の家族は、複雑に絡み合った赤い糸なのである。

宗司は、軽く言葉をかけ、枝美子が寝抱っこをしている赤ん坊を覗き込む。

「この子か、小さいなぁ。」

自然と、表情が緩んでくる。生まれて、数か月の赤ん坊。かわいいという一言である。

「抱っこして、いいやんな。」

数えるほどしか、顔を合わせていない相手に対して、思わず、タメ語になってしまう。

<はぁ、はい>面喰らっているのか、久し振りに顔を合わせた後の言葉が、(抱っこして、いいやんな)である。もう少し、社交的な言葉を想像していたのだろう。

「ほぉい…まだ、首座ってへんのか。えっ、もう、三カ月経つやんな。」

小さな、小さな、赤ちゃんの身体が、宗司に渡される。首が座っていないから、立て抱きは出来ない。小さな頭を、優しく支え、赤ちゃんの表情を見つめる。

<チチ…>自分の足の方から、そんな言葉が聞こえてくる。声の主は、秋吾である。

「僕にも、ねぇ、チチ、僕にも見せて、赤ちゃん。」

我が息子に視線を向けると、両手を差し出して、そんな言葉を発していた。末っ子の秋吾、自分より小さな赤ん坊に、興味があるのだろう。宗司は、優しくしゃがみ込み、赤ちゃんの顔を、秋吾に見せてやる。

<ほぉ…>言葉なのか、わからない声を発して、恐る恐る、人差し指を伸ばす。

<ほぉ…>赤ちゃんの頬に、ツンツンと優しく触れている。少し、声のトーンが上がった様に思う。

「赤ちゃんのお名前は…」

そんな秋吾の言葉で、まだ、名前を聞いていない事に気付く宗司。何も言わず、枝美子の顔を見上げてしまう。

「秋吾君、この子は、拓善って云うのよ。よろしくね。」

枝美子も、しゃがみ込み、秋吾に視線を合わせて、そんな言葉を口にした。

<た・く・よ・し…>小さな頭を傾げながら、そんな言葉を口にする。

「秋チャン、タッくんッて、呼んであげてね。」

枝美子は、困っている秋吾の様子を見て、そんな言葉で、助け舟を出してあげる。

<タッくん…ほぉ…>プクプクした赤ちゃんの頬に触れながら、言葉にならない声を上げる秋吾。そんな我が子を見つめて、素直に、かわいく思える。


実家の玄関を開けると、数か月前と変わらない雰囲気が瞳に映る。まだ三カ月の拓善を、陽射しの強い中に居させるわけにはいかず、足が実家の方に向いていた。

<おぉ、颯太!>何年振りと云っていいだろう。後ろに居る枝美子さんと結婚をするという報告を受けた時以来であるから、数年振りになる。会う度に、体形が変わっている事に驚きもする。

<あぁ、お兄さん>前に会った時よりも、ふっくらとしていた颯太が、宗司を見上げて、そんな言葉を発していた。

そんな二人をよそにして、さっきから、ちょこまかと、動きまくっている秋吾の姿。妻の加奈が、パートの時間帯、幼稚園の時間が合わない時、実家に預かってもらっていると云う事もあり、息子の宗司よりも、実家の勝手に慣れていた。

“うんちょ、うんちょ…”小さい身体を動かせて、部屋の端の方に二枚の座布団を縦に並べ、その上にバスタオルをかけていた。

「はい、チチ、タックん、ここ!」

拓善の為に、簡易ベッドを作っていたらしく、自慢げに、宗司を見上げていた。

自分の弟に対して、会話をする言葉が浮かんでこない宗司に、助け舟を渡したわけではないが、ホッとする自分がいる。

「秋吾、ここにか。」

そんな言葉を添えて、秋吾が作った簡易ベッドに、拓善を寝かせる。後ろの方では、母親に捕まっている枝美子さんがいた。そんな間に、ニコニコと表情を緩ませて、居間に入ってくる父親の姿。上機嫌である。朝から、焼酎でも飲んでいるのだろうか。とにかく、宗司は仏壇の前に足を進め、手を合わせる。

「ところで、颯太、墓には行ったんか。」

仏壇に手を合わせたまま、横側に居る颯太に、そんな言葉をかけた。別に、考えていた言葉ではなく、自然と、当たり前の様に出てきた言葉であった。妻の加奈いわく、お盆と正月に、身内が集まると、墓参りを勧めるのは、おかしい事らしい。

「いいや、まだやで…」

<ほな、いかな>そんな事を言葉にして、立ち上がろうとする。

「宗司、そんなに焦らんでも、加奈ちゃん、パートやろ。」

<そうやけど…>宗司は、浮かんでいたお尻を下ろす。

「加奈ちゃんが、パートから、帰ってきたら、みんなで行けばいいやろ。」

なぜか、そんな父親の言葉が心地よく思ってしまう。当たり前と云えば、当たり前の事であるが、妻の加奈が身内と認識している事が、嬉しく思ってしまう。

「まァ、それまで、ビールでも、飲むか。」

そんな父親の言葉で、肩がカックン!と落ちてしまう。まぁ、父親が酒を飲みたいだけでも、それは、それでいいと思う。

「タックん、ねっ、ねっ!」

大人達が、そんな会話を交わしている間、末っ子の秋吾が、拓善を見守っていた。おっかなビックリ、小さな小さな拓善の手の平の中に、秋吾の人差し指がある。拓善は、そんなお兄ちゃんの秋吾を見つめて、ケタケタと笑っている。小さな小さな手の平で、力強く秋吾の人差し指を、握っている。そんな光景が、宗司の瞳に映る。一瞬で、表情が緩んでしまう。今朝、パートに行く前に激しい口論をしてしまった、妻の加奈の顔が頭に浮かぶ。またまた、表情が緩む。父親と、弟の颯太と、ビールを飲んで、待っていよう。そして、家に居る長男、次男坊といっしょに、もちろん、弟の颯太、枝美子さんに拓善、両親とともに、墓参りに行こうと思う。宗司自身が、味わった事のない家族愛のオーラが、拓善を中心に漂っている様であった。


ー十二月九日ー

昨日の夕方、会社の忘年会の日であった。これから、一年の締めくくりの会社の行事の前に、悲しい訃報が入ってきた。甥っこの拓善が、享年、十カ月と云う、短い短い生涯を終えてしまった。受話器を手に取り、耳に当てながら、颯太の声を聞いていた宗司は、不思議と涙が出てこなかった。

(そうか、そうか、わかった、明日、行くわ)

そんな言葉を発して、受話器を置いていた。すぐに、その足で、実家に向かい、父親と言葉を交わす。父親も、母親も、淡々としていた。お互いに、覚悟はしていたのだろうと考える。とにかく、別々で、名古屋に向かう事を言葉にして告げる宗司。父親は多分、最短ルートで向かうのは分かっていた。名古屋まで最短ルートとかかった時間を、自慢げに話す父親の姿が浮かんでくる。宗司にとっては、なんの興味のない名古屋での会話が、耳に残っていた。宗司は、名阪国道(国道25号線)の進入口の【針】と云う土地まで、下の道で行こうと思っていた。月に一回、和歌山の高野山を抜けて、奈良県の十津川温泉まで、車を走らせている宗司。季節の映り変わりをする山の景色が好きなのである。春・夏・秋・冬で同じ風景など、一つもない山の景色に、ここ五年の間、魅了されていた。初めは、単に温泉にはまっていた。日帰りで行ける近場の温泉を行きまくり、この一年は、十津川温泉に落ち着いている。ゆったりと車を走らせて、片道四時間。普通であれば、日帰りとはいかないだろうが、朝六時に出れば、ゆったりと、温泉に入り、夕方には帰ってこられる。まァ、とにかく、温泉は海の近くより、山の方がいいって事になり、山の温泉でも、山の奥の方に行けば、もっといいって事がわかり、四年かけて、十津川温泉に行きついた。初めの内は、温泉が目的であったのだが、温泉地までいく道程、車一台ぐらいしか通れない道幅の山道から見える山の風景が、心に残っていく。車を走らせる度に、全く違う景色に、魅了されていく。父親や颯太が言う、最短ルートでは、味わえない価値観がそこにあるのだ。

宗司は、車のハンドルを握り、新風吹トンネル(国道63号線)を通り、和歌山に入ると、根来寺、近畿大学の前の広域農道を走り、国道24号線へ、橋本市に向かう道に入る。

まだ、朝日が顔を出し切っていない、午前六時、小雨が降っていると云う事もあるのだろうが、カーライトに照らされるアスファトの道が浮かび上がっている中、かわいい息子達は、軽自動車の後部座席で、肩を貸し合いながら、眠っていた。助手席には、妻の加奈がいた。

途中に、高野山に向かう山道に入る道がある。この道は、いつも十津川に行くのに走っている。今回は、ここを素通りして、九度山高野口、大和街道で奈良県五條市へ向かう。

五條市辺りまでは、近場の温泉巡りで来ていたので、懐かしくも、見に覚えのある風景が、車窓から流れていた。国道370号線(伊勢街道)で、吉野町に入る手前から、宗司にとっても、助手席に座る加奈も、未知の体験であった。

 伊勢街道と云うぐらいであるから、山道に入ると、趣のある風景が流れる。時代でいえば、明治時代と云う雰囲気であろうか、城下町と云う趣の中に、煉瓦作りの小高い建物が混じって見えている。吉野町の町名から、吉野山の麓にある町であろうと思う。吉野山と云えば、平城京の時代から、歴史に残る書物、百人一首などに、度々出てくる地名である。

 「なぁ、加奈…。」<フぅん!>

 助手席に座る妻の加奈に声をかける。

 「何か、箱庭みたいやな。」<そうだね>

 加奈も、宗司と同じ事を思っていたのだろう。短い言葉で、宗司が言わんとする事を理解する。大和街道や伊勢街道と云う別名のある街道であるから、千三百年前、いや、もっと昔からか、平城の都に向かって、人々はこの道を歩いていたのだろう。人の往来があり、人がこの土地に住みついたから、町も山も川も、今、瞳に映る風景全てに、人間の手が入れられ、綺麗に整備されている。人間が出しゃばらず、自然と云うものを理解して、共存している風景。箱庭と云う言葉が、妥当なのかはわからないが、宗司は、そんな事を考えていた。家を出て、三時間、父親が言うには、三時間で名古屋に着くらしい。でも宗司は、半分の距離も来ていない。のんびり行こうと思う。夕方に着けばいいのだから…。焦らず、まだ見た事のない風景を楽しみながら、のんびりと行こうと思う。そんな事を考えながら、小雨降る、吉野の道を、車を走らせていた。


 宇陀市に入り、国道369号線で、名阪国道に向かう道を走っていると、小雨が止んできた。山道から、宇陀市の町なのだろう、町中の景色が見える。宗司は、思わず、車のブレーキを踏みこんだ。急ブレーキとまではいかないが、ある程度の衝撃が身体を襲う。ハザードランプを付けて、道の脇に車を寄せた。

 <うわぁー!>宗司が、座る運転席の後方から、そんな言葉が聞こえてくる。声の主は、三男坊の秋吾であった。前席に座る二人は、三男坊の言葉が、耳に入っているのに、後ろを振り向こうとしない。なぜなら、二人の瞳には、どう表現していいのか分からない風景が映し出されていた。どす黒い雨雲の隙間から、光のカーテンが何重にも、降り注いでいた。今、停まっている場所から、宇陀町の一画を見下ろしている形になっている。光のカーテンが、瞳に映る町の一画を照らしていた。もちろん、瞳の片隅には、光が当たらない薄暗い一角も見える。宗教的な表現は嫌いであるが、まるで、天使が下りてきそうな風景。いや、瞳に映ってはいないが、小さな羽根を付けた天使達が、下りてきているのかもしれない。宗司は、目の前のそんな風景に、魅入っている。

 「ちち、すごいね。綺麗だね。」<あぁ…>

 秋吾は、車の真ん中の空間から、身を乗り出していた。

 「すごいね。こんなの、初めてだよ。」

 隣の加奈も、身を乗り出していた。また、また、嫌いな宗教的な表現になるが、イエス・キリストが復活した時、こんな景色が広がっていたのではないかを思わせる、神々しさを感じている。宗司と加奈、おまけの様に秋吾は、しばらく、この風景を見つめていた。大人二人は、ある言葉が喉まで出かかる。しかし、二人とも、その言葉を呑み込んだ。口に出してはいけない様な気がしていた。加奈は、どう考えているか分からないが、宗司は、信じたくはなかった。拓善の死を、まだ、受け止めていなかった。二度しか、顔を合わせていない甥の拓善の死を、力いっぱい、人差し指を握り締めていた拓善が居なくなったなんて、信じたくはなかった。


 (道の駅 針)の看板が目に付く、ここから、名阪国道に入る。ここまで、六時間、車を走らせた。父親がいつも通る道だと、ここまで、一時間で来るそうである。宗司にとって、どうでもいい話しなのであるが、頭の隅っこに残っていた言葉を思い出して、舌打ちをしてしまう。

まァ、後は、スピードを上げて、名阪国道を走らせるだけである。伊賀市を通り、亀山PAから、東名阪自動車道に乗り、名古屋に向かうだけである。ここら辺までは、周りの景色、風景に、目を移して、単なるドライブを楽しんでいた。しかし、名阪国道に入った辺りから、気が重くなってくる。なぜかと云えば、理由は一つしかない。拓善と云う甥っ子が亡くなったと云う事実が、宗司に襲いかかっているのである。ハンドルを握る手に力が入る。出来れば、行きたくない。でも、行かなければいけないと云う使命感が、ハンドルを握らせていた。


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