万有の分銅
万有の分銅
不思議な感覚だった。
その音は、自分の内側で鳴っていると思われるのに、まるで優しい振動が頭のてっぺんから爪先までをすっぽりくるんでくれているようだった。
ついいましがた拒んだ叫声は遠くなり、心地よいあの音が鼓膜を震わす。耳に押し当てていた手を離すと、宝玉を欠いた耳たぶに何かがしゃらりと触れた。
アウロラが御守りとして身につけていた華奢な腕時計だった。
シレアの鐘楼と同じくかつて時を刻んだ小さな時計。文字盤に星座が煌めき、中にはシューザリーンの時計台に嵌まる宝玉と同じように、古から伝わる水晶のような石があるという。
時計台の宝玉は、祭器を飾る宝玉と同じ。淡い桜の花に似た美しい薄紅色。
また一つ、先ほどと同じ響きがアウロラの体を満たす。
横を見ると、兄も同じ音を感じているのが分かった。瞼を閉じ、全身の神経を集中させている。そしてその手は首から下げた何かを握り締めていた。大事そうに包まれたそれが何なのか、アウロラに疑問は浮かばなかった。
頭の中で、これまでそこに確かに在るのに掴めなかった考えが、急速に鮮明になっていく。
「お兄様」
こちらを向いた兄に腕につけた時計を見せる。何を言わんとしているのか、言葉にする必要はない。
無言で見つめ返すカエルムの手が開かれて、漆黒に艶めくテハイザの神器が姿を現す。手のひらに収まるほどの大きさに反して、計り知れない威厳を讃えた隣国の至宝。
またもう一度、あの音が鳴る。澄んで優しく、凛と強く、アウロラとカエルムに「機」を教える。
今宵は満月。
天で月が満ちるのと重なり、海の水が港に満ちる。大海に大いなる力が働き、潮の動きが水に育まれた命を運ぶ。
身を震わす音は、薄紅の宝玉を持つ鐘楼の知らせ。そしてそれが告げるのは、シューザリエの行き着く海のうねり。
——何かここにも神器と同じような力が働いているのかもしれないですね。
シードゥスの言葉が脳裏に蘇る。
——これだけでは些細かもしれないけれど、時計台みたいに大きければ同等になるような力が。
「この時計にあるという石が、シレアの祭器と似た力を持つとしたら……」
アウロラの推測をカエルムが継いだ。
「いま必要な大きな力が生まれる。テハイザの神器と調和の取れる力が」
腕時計と羅針盤が触れたとき、針は振れた。時を刻む腕時計にはシレアの鐘楼に比類する力が宿り、進むべき方角を示す羅針盤が神器と同種の力を持つとすれば。
過度に集中し、均衡を崩し瓦解に向かわせるのも力であれば、増大した力に対して拮抗し、あるべき均衡を再び取り戻すのも力である。その力は必ずしも荒々しく獰猛なものではない。調和を作り、然るべき方向へ向かわせるのもまた一つの力の在り方だ。
——力というものは下手に集まると厄介だが、逆に一処に集めなければならない時もある。
テハイザ王は、シレアに信を置き、テハイザの力たり得る神器を託した。
茂った木々の葉が激しい雨を受け止めて大地を守るように、異種の力が一処に集まり、衝突し、そしてその後に再び訪れる安定もある。
今宵は満月。この日、妖精は力を増すという。
海のテハイザと森のシレア。二つの力が互いに等しく揃い、正しき均衡を取り戻せるとしたら、きっと今しかない。
司祭長が手に残ったもう一つの祭器を盆に近づける。薄紅色の宝玉が水を映して輝くのと共に、空間に鳴り渡った清らかな鈴の音が、体の内に響く音と重なった。
二つの
司祭長の手から祭器が離れる。
アウロラとカエルムは祭壇へ向かって駆け出した。
——二つの力を衝突させ、然るべきところへ流れを導け——
盆の水がぴしゃんと跳ね、祭器の鈴の音が消える。その途端に石壁から水が一斉に噴き出し、同時に壁のあちらこちらから新たに水が流れ始めた。
勢いよく放出される水は通路まで降り掛かり、シルヴァとロスは堪らず頭を覆った。掲げた腕の間から見れば、アウロラとカエルムがもう祭壇の立つ円に差し掛かっている。呼び止めようと叫んだ声はしかし、瀑布の轟音に掻き消されて意味を成さない。
次々と水が鞭のように通路を打つ向こうに二人が司祭長の立つ祭壇に辿り着いたのが見えたかと思うと、下方から凄まじい勢いで水柱が立ち上り三人の姿を飲み込んだ。
*
体を包む音が鳴り続ける。直感的に感じる。満月がシューザリーンの鐘楼を照らし、潮の動きが待たれている。
木は水を通し、水は木を育む。しかし守りの力を持つ木に対して、水は破壊の力を持つ。シレアの神木とテハイザの碧玉が共にあり続ければ、木に受け入れられた水がやがて木を壊滅に至らしめる。
だが二つの力が等しく釣り合い、調和と然るべき流れを生み出せば——
祭壇はもう目の前にあった。
暁と夕暮れの色に似た、紅葉と蘇芳の瞳が見つめ合い、純白の盆へ手が伸ばされる。
星座を描いた時計と隣国の神器が、透明な水に包まれた。
——木々の守りのもと、水を海へ導け——
水中で鮮烈な薄紅の光が輝く。閃光の中心で、漆黒の石を起点に、新たな流れが急速に生まれ始めた。
***
二人の姿が見えなくなった直後である。真っ直ぐ上へ突き上げていた水柱が途中で膨らみ、上部に向かって広がる円錐状になり始めた。シルヴァが悲鳴を上げ、ロスが駆け出そうと踏み込んだ。だが続けて今度は鼓膜を破るような地響きが起こり、二人を否応なく床に倒れさせる。
臓腑が掬われるような感覚に襲われ立っていることもできない。膝をついた背後で激しく扉が閉まるのが耳に入り、重いものが戸に叩きつけられる鈍い音がしたが、水が立て続けに背中を打って確かめることもできない。
最初の衝撃をやり過ごし辛うじて瞼を開ければ、今度は信じられない現象が目に飛び込んだ。
眼下の水面で流れが激しい対流を起こし、かと思えば先ほど中央へ向かっていた水流が今度は壁に向かって戻ってきている。そして滝の如く落ちていたはずの水が、いまや壁を伝って上へ昇っているのだ。
驚愕に息を呑んだ、その時である。
澄み切った音が鳴り響いた。
それは飛沫が水面を叩くのにも水が逆巻くのにも掻き消されることはなく、美しく強く、確実に耳に届く。
王都シューザリーンにあって、シレア全土に鳴りわたる時計台の鐘の音。
シルヴァの口は、自ずから祝詞を紡いでいた。
音は一つ、また一つと語りかけるように続く。
常と同じように、一度として繰り返されることのない時を確実に刻み、国中あまねく知らせる妙なる調べ。
響きは神経の髄に染み込み四肢の隅々までを震わせ、体の周りを取り囲み、広がり、空間全体を満たしていく。いつしか轟音は弱まり、体を鞭打つ水はもはや感じられない。
瀑流の音は止み、鐘の音しか聞こえなくなった頃、猛々しく渦を巻いていた水柱が勢いを衰えさせながら徐々に低くなっていく。そして鈴のような音を最後に鐘楼の響きが止まった時、水柱は完全に消え失せ、海の碧色をした石が祭壇前の床に転がった。
壁を伝う流れはもはや跡形も無い。いまはもう、部屋の最奥でただ一筋の水が音もなく流れ出ているだけである。
天井の鏡に純白の盆が映る。そこには二つの祭器を飾る薄紅色の宝玉と漆黒の神器が、小さな時計と共に重なり、雫に濡れて輝いていた。
水柱の中から三人の人影が姿を現した。膝をついて祭壇にしがみついているのは司祭長であり、それを庇うようにアウロラとカエルムが覆いかぶさっている。
周囲に空間が開けたのを感じ取ったのか、王子と王女が閉じていた瞼をゆっくり開け、司祭長から身を離した。老人は押さえられていた体が解放されてもなお数秒の間動かずにいたが、やがてのろのろと顔を上げて二人を見る。
「なぜ……私を助けるなどと……」
震え声で尋ねるその瞳には先ほどの狂気はなく、かつてこの人物が見せていた理性が戻っていた。すると兄の腕を支えに立ったアウロラが、「あら、」と当然という顔で言ってのける。
「やるだけやって死んで逃げるとか許すわけないでしょう。しっかり責任取ってもらいますからね」
「ここにいたほかの祭官のことなど、色々と聞かなければいけないことも多いですよ」
そうカエルムが引き継ぐと、兄妹は揃って司祭長に手を差し伸べた。
***
「問題は、どうやってここから出るか、ですよ」
神器と宝玉を手にして三人が入り口の前まで戻ってくると、ロスが剣を床に当ててぼやいた。入ってきた外開きの扉は先の振動で閉まり、どうやら何かが戸の前に落下して開かなくなってしまったのである。
「他に出入り口なんてありそうもないわよね」
二つの楽器を腕に抱えてアウロラが天井を仰ぎ、肩を落として嘆息する。どういう構造になっているのかわからないが、少なくとも円蓋にも開口部はなさそうだ。カエルムも入ってきた扉を眺めるが、なんとも言えない面持ちである。
「こればかりは先祖にここの扉こそ神木で作って欲しかったと言わざるを得ないな」
「同意するわ。救援が来るとしてもそれまでに凍えそうよ」
シルヴァは肩を竦めて肌の出た腕を抱き、それにつられたのかアウロラもくしゃみをする。全員水を被ってずぶ濡れなのだ。しかもさらに悪いことには、まだ晩夏だというのに石造りのこの部屋は異様に気温が低いのだった。
「あまり気が進みませんけど、こうなったら壊して……」
言いながらロスは扉に近づくと、はたと目を見開きその場で硬直した。疑問を投げかけるアウロラを制し、戸に耳を当てる。それに倣って全員が耳を澄ますと、戸の向こう側で規則的な物理音が近づいてくるのが分かった。一歩下がったロスとカエルムはすぐさま剣の柄に手をかけ戸を睨みつける。
しかしそのすぐ後で、「うおっ」という小さな叫びに続けて「なんだこれ」と声が上がり、さらに重いものが擦れる音がし、その音の間隔に合わせて扉が揺れた。そして最後に取手ががちゃがちゃと大仰に鳴り、その一つががきんと曲がると、扉が派手な音を立てて外側へ開いた。
「良かった皆さんここに……! なんかすっごい揺れで色々落ちてましたけど」
シードゥスは真鍮の取手を手に握ったまま部屋に入るなり安堵の息を吐いたが、皆が自分に視線を集中させているのに気がつき、決まり悪そうになって言い添える。
「あ……すみません、どうしても一人で待ってるの、我慢できなくて……来ちゃいました」
碧玉と珊瑚の耳飾りを片手に尻すぼみになりながら謝罪すると、シードゥスは「あとこれ、壊しました」と取手を見せながら付け加え、こわごわアウロラを窺い見る。
ほんの一瞬の沈黙ののち、アウロラとカエルムは顔を見合わせてふっと微笑んだ。
「問題ないわ。もう全部終わったもの」
「礼を言うよシードゥス。どうやら修復が必要なほど脆くなっていたのは本当らしいな」
それを合図に皆の笑い声が波紋のように広がっていく。壁に反響した優しい響きに包まれながら、アウロラの腕にある祭器の鈴が、りん、と涼やかに共鳴した。
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