終章 旅のあとに

 顔を撫でる風が、長い道のりを馳せて火照った頬を冷やして心地よい。空気は夏の蒸せ返る陽の熱に代わって、もう秋の匂いを孕んでいる。

 シレア城の城門をくぐると、シードゥスはイクトゥから走らせた馬を厩舎に連れてそのまま裏口から城に入った。報告の前にまずは汗ばんだ服を着替えなければ。行き交う馴染みの者たちと挨拶を交わしながら自室へ向かう。すると廊下の向こうから、それぞれ皿と茶器の載る盆を持ったアウロラとソナーレ、そして黄金色の焼き菓子を手にしたスピカが歩いてくるのが見えた。

「あら、お帰りなさいシードゥス」

「お疲れ様。早めに着いたのね」

 ソナーレとアウロラが口々に声を掛ける。短くなったアウロラの髪はシューザリーンに着いてから綺麗に切り揃えられ、もう肩にかかるほどまで伸びていた。帰城したアウロラの姿はソナーレに叫び声を上げさせ、シードゥスは繰り返し非難叱責を浴び、その後散々嘆かれたが、本人が新しい髪型も試せて楽しいと言うのでとりあえず免罪となった。

 結果、いまや前にも増してソナーレが髪結に使う飾り選びに精を出している。今日はレース織りのリボンを揺らしているが、これもシードゥスの出張前にはなかったものだ。

「イクトゥの様子は大丈夫そうだった?」

 アウロラが質問するとスピカがシードゥスの顔を見上げた。何か言いたそうだが、侍女の心得を守っているのだろう。

「ええ、いつも通りです。もともと港への影響は少なかったですし」

 アウロラたちが地上に戻ると、ほどなくしてシューザリーンの後援が到着した。儀式の前にシルヴァがイヌダティオらに対する警戒を強めて王都に伝書鳩を送っていたこともあって、大臣の対処も早く進んだらしい。

 その後、カエルムはすぐに神器と碧玉をテハイザ王へ返しに行った。話を聞けば、その日テハイザでは満月と共に大潮になり、それまで異常な干潮が続いた反動の如く、海は常にない高い潮位になったと聞いた。

 しかし被害はほとんどなかった。テハイザ王が早々に高台に待避所を用意し沿岸部の住民を移動させたからである。また一切の出航を禁止し停泊中の船は陸に上げられたため、漁業を始め海での産業に損害も出なかった。満潮が収まったのち、若干削られた海沿いの岩場や桟橋などの点検や修繕も速やかに行われ、検討されていた防波堤の強化もすでに着手されているらしい。

 アウロラは心からの安堵に頬を緩ませる。

「人災が出ていないのは本当に良かったわ。天球儀もその後、変わりない? お兄様は神器をお返しになられたときに元通りだったと仰っていたけれど」

「はい。変な光も異常な動きもありません。通常通り星図を示しています。それより、陛下が姫様と殿下の御具合を気にしていらっしゃいました」

 司祭領への通達とテハイザとの連絡を最低限終えたのち、アウロラとカエルムは二人揃ってしばらく床に臥していた。騒動の最中では、緊張も手伝ったためか気丈にも倒れずに緊急事態を乗り切ったが、やはり体は限界に来ていたのである。消耗は酷く、休みに入れた当初は何かが切れたように一日中目を覚まさなかったのだ。

「あらご心配をかけたとは恐縮ね。もうすっかり。起きれるようになった後も寝かされるのだもの」

「目をお覚ましになったと思ったら仕事をなさろうとするお二人が悪いのですよ」

「だからってソナーレもロスも見張りをつけることないじゃないの」

「姫様と殿下には甘いくらいですわ。お食事はお二人ご一緒に取れるようにして差し上げたのだから贅沢仰らないの。それとも次は殿下からも隔離します?」

 強制的に休まされたのがよほどこたえたのだろう。アウロラは口をつぐみ、同意を求めるようにシードゥスを窺って肩を竦めた。シードゥスは苦笑し、助け舟を出してやる。

「それよりその皿、重そうなんで持ちましょうか。随分多いですけどどちらへ?」

「ああ、これ?」

 ソナーレがうまいこと乗ってくれたので、アウロラはシードゥスに感謝の視線を寄越して笑う。

「これから皆で休憩するところなの。ちょうどいいわ。シードゥスも挨拶していく?」

「挨拶?」

「シルヴァ様がいらしているの」



 ***



「貴方がこれを持ってきたときには何かと思ったけれど」

 執務室の窓辺近くに座り、シルヴァは自らの指環に嵌めた碧玉に触れた。彼女がいま纏っている巫女服は、絹織とはいえ普段着に近い飾り少ない類のものだ。巫女が王都訪問となるとどうしても仰々しくなりやすいので、今日は精霊殿の公務ではなくシルヴァの実家の私用の訪問として来ているのだった。

「まさかあんな事態になるなんて。それともこれをくれた時、あそこまで読んでいたの?」

 書見台の方へ顔を向けながら問うと、カエルムは積まれた書類に目を通しながら答えた。

「いや。確かに使長官と司祭長にはあの日も絡まれたし、特に使長官は実質領政庁を支配できるから危ういとは私もアウロラも警戒していたが」

 その意見にはシルヴァも同様で、イヌダティオが何か起こすなら司祭領の関与が大きくなる即位式前後だと予想していた。何か不義を働きそうであったし、それを機に使長官の交替が可能だと踏んでいたのだが。

「とはいえ、司祭長があそこまで狂信的になっているとは予想外だった」

 カエルムは次の書類へ移りながらさっぱり返した。

「あの日に渡すことになったのはただの勘だ」

「その勘が当たりすぎるのが怖いわ」

 聞こえてくる嘆息に微笑で応えると、執務室の戸が数回叩かれた。

「お兄様、休憩にしましょう。ロスにもそこで会ったわ」

 扉を開けたアウロラは、兄が顔を上げたのを受けて連れてきた面々を部屋に招き入れる。シードゥスが末尾になりシルヴァに挨拶を済ませると、アウロラは自分もシルヴァと向き合った。

「私もシルヴァ様とはあの事件以来だったから嬉しいですわ。やっとお会いできて」

「私もお会いしたくて。心配だったものですから。良かった顔色がお戻りになって」

「いただいたお薬も効いていますから。それより今日は公務じゃないのだし、堅苦しいのは抜きにしません? 窮屈になっちゃう」

「あら本当? それは嬉しいわね」

 はしゃぐ二人の横で、スピカがソナーレに監督されながら焼き菓子を切り分け始める。手つきももうだいぶ慣れたものだ。書類と一緒に皿をカエルムに持っていきながらロスが報告した。

「先日出した諸々の日程調整案ですが、大臣の了承が得られました。司祭領の状況と合わせて決定せよと」

「ああ、その話はこれからだったからちょうどいいわ」

 スピカから茶器と菓子の皿を受け取り、シルヴァが今回の訪問目的だった報告を始めた。

 満月の時に起きた惨事の影響で、司祭領はしばらく落ち着かない状態が続いていた。まず精霊殿の奥殿は今度こそ本当に部分的な修復が必要になった。もともと奥殿は、王族が即位した後に司祭長と最高位の巫女のみによる儀式が執り行われる場所だった。入り口の守りは碧玉を持つ王族に責があり、内部の地図は司祭長に代々継がれる禁書に記されているというわけだ。

 説明を聞いてカエルム納得した、と茶を一口含んだ。スピカが淹れる花茶の種類は、爽やかな夏の花から甘い秋の花に変わった。

「司祭長だけでは入れないが、王族が入れても司祭長がいなければ迷うというわけか」

「両者の立場が等しい証拠の一つってことね」

 焼き菓子をつつきながらアウロラも頷いた。パリンと割れた黄金色の生地の中から乳白色のクリームと一緒に赤い果物が流れ出る。口に入れるとクリームの甘さと果実の酸味が混ざり合い、相変わらずの料理長の腕前につい顔が綻ぶ。

「うーん、やっぱり美味しーい——でもシルヴァ様、それだと修繕はどうするの。誰彼構わず入れるのも憚られるでしょう」

「今回ばかりは事情が事情ですからね。あくまで慣習、という解釈で祭官や巫女を中心に修繕に当たっているわ。人員は巫女長ばば様が厳選して」

 同時進行で精霊殿と領政庁に務める者たちの見直しが必要だった。巫女の最高位にある老婆は今回の件とは無関係で、その他の巫女もシルヴァとフィオーラが目を光らせていたおかげか疑うべき者はいないようである。しかし司祭長がまとめていた祭官には、アウロラを襲った二人と同様に病的なまでの信仰心に溺れてしまった者たちもいたし、領政庁役人の数人も昇格や金銭に目が眩んでイヌダティオに服従した。テハイザの残党は国で裁きを受けているはずである。

「目下の霊廟の運営は巫女中心に回っているわ。とりあえず祭器の浄めの儀を次の満月に決行するところまでやっと話がまとまったところ。フィオーラが随分助けてくれるから本当に助かるわ。彼女なら巫女長も任せられそうね」

「二人とも無理しすぎて倒れないといいが」

「その言葉はそっくり返すわよ」

 シルヴァは微笑み、焼き菓子の最後のひとかけを口に放り込んだ。巫女の即答にカエルムとアウロラは苦笑する。

「他国を招いている以上、即位式の日取りは動かせないが、前後の司祭領での催しは大臣の案をもとにそちらで最善の日程を二、三、選んでくれるか」

「巫女長様と佳き日を選ばせていただきます。それまでまたで倒れませんように」

 冗談混じりのシルヴァの一言にアウロラが「二度と勘弁」と同意する。そのやりとりを見ながら、シードゥスはふと思い出した疑問を口にした。

「そういえばずっと不思議だったのですが、お二人ともどうしてその音が変わっていったのに時計台の音だと思ったんです?」

 はた、とその場の皆の動きが止まり、シードゥスに視線が集まった。アウロラもカエルムも例に漏れない。そういえば、何の疑問もなく時計台の音だという確信があった。

 二人が顔を見合わせ、他の者たちが訝しがる中、スピカだけが「何言ってるの」と口を挟む。

「『シレアの時計台は国に重要な事が起こる時にも知らせてくれます』、でしょう? 王子さまと王女さまが生まれた時も、お妃様が亡くなった時も普通と違う音が鳴ったって。あたし、授業で習ったもの」

 分かるのなんて当然じゃない、とスピカは疑問になっているのが疑問だという顔をしている。それを聞いて、理屈では説明できない事象のはずなのに、皆は妙に納得してしまった。

 シレアの時計台は、時を伝えるだけではない。シレアを守り、そしてまだまだ自分たちが知らないことがあるのだろう。

「これはまた一層、時計台を大事にしていかなきゃいけないわね」

「霊廟の巫女たちもそのために心血注がせていただきます——さて」

 空になった皿をスピカに渡して礼を言い、シルヴァは椅子から立ち上がる。

「それじゃ、式に参列する面々やその他の仔細が決まったらその都度連絡するわ」

「あら、もうお帰りになるの?」

「フィオーラに無理を言って抜けて来たからそろそろ失礼しないと。また来ますね」

 上目遣いで残念そうに見上げるアウロラにシルヴァは軽く片目をつぶってみせた。

「ああ、門まで送る」

「ありがとう。悪いわね」

 ごく自然に申し出るカエルムに対し、感謝を述べつつも別段特別なことでもないとシルヴァが返す。

「それじゃあね、シルヴァお姉様。私もまたそちらに遊びに行かせて」

 振り返ったシルヴァは優しく微笑み返すと、アウロラに手を振って先に廊へ姿を消した。

 今度はアウロラも満面の笑みで見送った。だが一方、ロスはたったいま目の前で繰り広げられたやり取りに妙に引っかかるものがあり、先頃から引きずっていた嫌な予感を確信に変えつつ問いかける。

「あの……殿下、お伺いしますけれどね」

「ん?」

「シルヴァ様との御関係は、どういう……」

 扉に手をかけていたカエルムは、蘇芳の瞳を悪戯っぽく細め、流し目を送ってロスに応える。


「だから、と言っただろう?」


 端正な顔に実に申し分のない微笑みを浮かべてそう言うと、カエルムもシルヴァを追って部屋の外に消えた。

 颯爽と去っていった主人を棒立ちで見送ったロスは、しばしののちにやっと硬直状態から解放され、焦点の合わない目を扉に向けたまま呟く。

「姫様、なんで驚かないんですか……」

「え、なんでって、なんとなくわからない?」

 当然、兄王子のことなら最も取り乱すと思っていた妹姫の平然とした様子に、驚愕したのはロスの方である。

「わかるって……ご存じだったんですか!? ちょっと待ってください、いつから!?」

 狼狽する従者とは対照的にアウロラは淡々としたものだ。記憶を辿るように空を仰ぎ、小首を傾げながら答える。

「んー、はっきりお聞きしたわけじゃないけれど、少なくとも五、六年くらいは経つんじゃない? まあでも私も子供だったし、気づいたのがそのくらいって感じ?」

 さらには至極当然とばかりに「だからお兄様も縁談なんていらないって言ってたじゃない」と続けるが、カエルムは婚約者だの恋人だのがいるという素振りなど微塵も見せないどころか、彼の素行からしてみるとロスには想像すら浮かばなかったのである。カエルム本人の自覚なしに、並大抵の女性であればまともに話す前に顔を赤らめてしまうのだから、相手になれる女性がいるなど尚更驚きである。

「……側近……ってなんでしょうね……」

「恋愛沙汰なんてわざわざロスに話して楽しいことでもないでしょ。お二人とも適当な時をお待ちしていただけよ」

 酷い言い分である。だが大体のところは大臣などに漏れて祝賀だのなんだの前々から煩くされるのが嫌だったに違いない。

 しかし確かに司祭領高位巫女シルヴァ・グラカリスィタは人格、教養、容姿とどれを取っても申し分ないし、巫女の婚姻も自由である。さらにグラカリスィタ家と言えばシレアの中でも名家に入り、あの五月蝿い大臣ですら、文句が言えないどころか歓迎するだろう。それはそうなのだが。

「どうせ俺は鈍感ですよ……」

「「それはそうかもしれないわね」」

 やや自棄やけ気味のロスの呟きに間髪入れず、王女と侍女の言葉が重なった。シードゥスは慰めるべきか話を変えるべきか分からず反応に困り、無意識にスピカの方へ視線を逸らす。しかし——

「……さよなら私の初恋……」

「えっ?!」

 扉の向こうを茫と見つめる少女の憂いを含んだ呟きに、困惑する人物が一人増えた。





 窓の外で木擦れの音がする。涼やかな風に乗って果実の香りが室内に届く。

 それぞれの地を守る力は本来あるべき場所に安まり、また元のように国を支える務めを分け持っている。

 シューザリエの水は今日も穏やかに海へ流れる。

 季節は秋の始まり。

 新たな時代はもう、すぐそこである。



 ***完***












 あとがきに続きます。

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