均衡(四)
扉を開けた瞬間、突然現れた強い光にアウロラは思わず目を閉じた。
眼球に焼き付けるような痛みが走る。徐々にその感覚に慣れて恐る恐る瞼を開けると、ぼやけた視界の中で物体の輪郭が段々と明瞭な姿を現し始める。
扉の向こうは広々とした円形の部屋だった。いや、部屋というより空洞という言葉の方が似合うかもしれない。いまアウロラとカエルムが立っているのは中央へ向かって伸びる長い床の端だった。体の脇を通る空気が肌に触れ、アウロラの足が今にも竦みそうになる。細い通路状の床が崖のように切り立って、左右に谷間のように空間が開いているのだ。頭上高くは鏡の円蓋で覆われ、ぐるりと部屋を巡るのは上階と似たような石造りの壁である。見るからに滑らかな白い岩壁からは水が流れ出でているが、シレア王城の地下とは異なり水の筋は間隔を開けて複数あった。水を辿って下を覗けば通路の左右、遥か下には水が溜まっている。水は澄んでいるのに底が見えず、上方から落ちた水流が水面にぶつかり飛沫を上げていた。
部屋の中央、長い通路の行き着く先は円形にやや膨らみ、中心にひときわ目を引く祭壇のようなものがある。天辺は盃状に丸みを帯びているようだ。周囲の壁に数多く灯された照明を受けて輝くその色は一点の曇りもない純白。そしてその前に、床までつく白衣を纏った人物が一人立っていた。
「司祭長」
カエルムの呼びかけにその人物はゆらりと祭壇から顔を上げる。
「おや、カエルム様にアウロラ様。ご即位前にいらっしゃるとは、お二人とも随分とせっかちでいらっしゃる」
そう穏やかに述べる様は敵意も非難もこもっていない。ただ、どこか得体の知れない薄気味悪さがある。
「まあよろしい。お二人もシレアの神秘をご覧になりたいのですかな」
そう言って司祭長は自身の手を祭壇に翳した。細く真っ直ぐな円筒の上で、丸みを帯びた盆の面が光を返す。切り出したばかりのように傷一つ見えない白木は遠目からでも神々しい。
「司祭長。それは、シューザリーンの神木ではないですか」
他の木とは似て非なるこの穢れなき白を見紛うなどあり得ない。確信と畏れが混じったアウロラの問いかけにカエルムが続く。
「神木を伐採するなどなんのおつもりです。我々は精霊殿の修繕としか聞いていなかったはずです」
「修繕? ええ、修繕ですとも。古い過去に王族が去ったのちにどうもこの司祭領は受けるべき崇拝を失いましたでしょう。ですから、この霊廟の中でも最も格式高いこの場所に妖精の恩寵と力を集め、本来精霊殿があるべき姿を取り戻すための修繕です」
司祭長の語りは驚くほど平静である。何か隠し事や誤魔化しがあるような口ぶりではない。
「精霊殿はシレアの妖精を祀る我が国で最も権威ある場所。王都に増して妖精の
至極遺憾だと司祭長は首を振る。先頃ここに持ち込まれた妖精に関わりうるものといえば他にない。力の一部というのが二つの神器であることは明らかだった。
「それがこのたび司祭領に還るというではありませんか。やっと本来の場所に留まってくださるのです」
まるで吟ずるような司祭長の論舌をカエルムの厳しい問いが中断する。
「当初から貴方は神器を我々にお返しになるつもりはなかったと?」
「返す? 返していただいたのはこちらですよ」
司祭長の視線がカエルムに向けられたが、実際に兄妹の姿を認識しているのか危うかった。恍惚として続けられる文言はもはやアウロラやカエルムに向けられているのではなく、実態のない何かに語りかけているようだ。
「他にない好機です。せっかくシレアの神器がここに戻るならば見てみたいと思いませんか。かの御霊の意が通じた力をあまねく揃えたら、一体どんな神秘が起きるのか」
「戻る? それは妖精の意でしょうか。ならば私たちがあんな音を聞くはずがないわ」
アウロラは思わず叫んでいた。即位前に神器が司祭領に持ち込まれるのは本来、浄めのために預けるだけのことである。元より司祭領に属するものではない。
「もし司祭長が初めから神器を司祭領に留め置かれようとしていらしたなら、それは神器があるべき王都からの強奪以外の何ものでもありません」
アウロラの内に怒りとも畏れともいえる感覚が湧き上がる。もし神器が郷里から永遠に離されようとしていたなら、自分たちの身が経験した音は妖精の怒りだったのではないか。
その二つの神器は何処にあるのか。カエルムとアウロラは司祭長を視界に入れたまま空間に目を走らせるが、見慣れた楽器の姿が見えない。
焦りを見せ始めた二人の様子など気に留めず、司祭長は滔々と語り続ける。
「何を仰います。シレアの全祭祀を司る此処こそ安住の地に相応しいでしょう? ですから御霊をお迎えするに当たって非礼なきよう整えたのですよ。そのために使える木は唯一にして他にありませんでしょう」
「妖精の棲まう森の神木を断りなく害すること自体が、貪婪甚だしい非礼だとは思わなかったのですか、司祭長」
アウロラとカエルムの背後から、鈴を思わせる澄んだ声が響く。ロスを後ろに従え、シルヴァが扉の前に厳かに立っていた。
「霊廟は確かに妖精の御霊が休まれる宿ではあります。しかし言ってみればこの社はシレアの他の地を代表した別邸のようなもの。シレアの妖精はシレア全土に御加護を与えて下さるのですから」
淀みなく諭す姿は、祭官や巫女を統べる者に相応しい威厳を纏っていた。
「かの霊が海から移り安住の地としてまず選んだのは、時計台を持つ王都シューザリーンを見下ろす森林です。神木は然るべき場所にあるからこそ意義があるのです。その
司祭長を映した翡翠の瞳は夏の陽を透かした若葉と同じ色だ。自然界の力を宿した木々の葉と同じく、畏怖すら感じさせる。
しかし返ってくる応対は先と変わらず全く張りがない。
「貴女こそ巫女だというのにこの素晴らしさがお分かりにならないとは恥ずかしい。見てみなさい。神木をお持ちした途端に精霊殿に溢れ出した水を」
淡々たる中に僅かに喜色の生まれた言葉は、アウロラの推測を確信に変えた。
「やはり、神木のせいで水の流れが変わっていたのですね」
「まさに恩寵です……精霊殿にこの妙なる木をお持ちしたら、上階の池水がどんどん増してくる。感動的でしたよ。それにどうです。つい先頃この神秘的な奥殿に祀りの支度を整えれば、ただ一筋しかなかったシューザリエの命の水が次々に集まって来ます」
司祭長はぐるりと頭を巡らした。それに倣って顔を上げれば、壁の中で先ほどにはなかったところからも水の筋が現れ、見ている間にあちこちに水流が増えていく。それだけではない。真下の水面に水流がぶつかったところから新たな流れが生まれ、そこから部屋の中央へ向かう流線が描き出されていっている。
それはあたかも無数の水龍が意志を持って向かっているように。
「この場所が大河の力を得る正当な場所である証でしょう! それにここには妖精の故郷の御力もちゃんとお持ちしましたから。そもそもこの聖なる場所が完璧な姿になるためには必要なのだから、当然欠けてはならないものです」
司祭長は円盤の中へうっとりと視線を落とす。反射的にアウロラとカエルムは円蓋を仰ぎ見た。頭上一面を覆う鏡に映るのは白珠の光る水面とその間を通る道、そして部屋の中央にある円状の間に据えられた円い盆。
盆の表面に波紋が広がる。そしてそのさらに中心にごく小さな点があり、そこから強い輝きが放たれている。
その光の核にあるのは、碧い石だ。
宝玉が沈んだ水盆に違和感を感じ、円蓋から真っ直ぐに立つ祭壇に視線を降ろしてアウロラは息を呑んだ。
「司祭長、いますぐその石を取り出してください! その碧玉は私たちシレアの大事な友人のものです。そこにあって良いものではありません!」
神木のあまりの白さに加え、盆に貼られた水の透明度が高すぎるせいで目を凝らさねばわからない。だが鏡の中で見た円盤の中では明らかに底から湧き上がる水があった。そしてそれが盆から溢れて白木の台座を伝って流れ落ちているのだ。
しかしアウロラの訴えには純粋無垢な疑問しか向けられなかった。
「どうしてです? もともと妖精は海からいらした。ならばかの御力は全てここに集めなければ」
「力が意味を成すのはそれが在るべきところに在るからこそです。海の力は海に、森林の力は森林に在らねばなりません。それぞれが持つ然るべき領分を間違え過度な集中が起きれば、均衡が崩れる」
二人の言葉を司祭長が聞いているのかすら怪しかった。彼の精神の中で彼自身を律していた何かが途切れ、
「おかしなことを仰いますね。ここにますます神秘の恩寵が降り注いでいるというのに」
「よくご覧になってください。もう崩れているのです」
片方へ分銅を乗せすぎた天秤が倒れるように、偏った力を支えるのには限界がある。
不自然な力の集中が引き起こされていくにつれ、然るべき均衡は徐々に崩れ、天と海は荒れた。神木の一部を無為に失った森林は辿るべき路を水に示せず、港に寄せるべき波は行き着く先を見誤っている。
そしてその瓦解はいまさらに加速している。この短い間にさえ、円盤から落ちる水は見る間に勢いを強めているのだ。このまま水勢が増し続けたらどんな状況になるかわからない。
「司祭長、そこにいたら貴方も危険です!」
「すぐにそこから碧玉を取り出さないと……」
「ああ、来ないでください」
背筋を凍らせると思うような冷えた声音が司祭長の口から出で、祭壇へ駆け出そうとしたカエルムとアウロラを制した。長衣の中に隠れていた両腕が上がり、その手に持つものが明らかになる。
水晶に似た薄紅色の宝玉が、司祭長の両手の上で煌めく。
「私は霊験が最たるものとして現れたらどうなるのか、最後まで見たいのですよ。それを無に帰すと仰るのですか?」
祭器を持つ手が揺らされ、鈴が鳴った。
「もし
老人の手が楽器もろとも眼下で激しい音を立てる渦の方へ向けられる。踏みとどまった二人を満足そうに眺めて司祭長は笑った。どんよりと曇った目は常人のものではなく、そこに在るのはただ、狂気だ。
壁から出る水はどんどん太くなり、瀑布のごとく轟音を立てている。それでも司祭長は怯みもせず、むしろ喜悦に満ちて、口調はなおも熱を帯びていく。
「巫女の貴女がこの場にいらっしゃるというのは、もしかしたら惹きつけられたのかもしれませんんねえ。今宵は満月です。儀式の日です。妖精の力が最も強まるからこそ今日を選んだのですから——」
自らも身を浄め、儀式に列するのが巫女の務めである。しかし——
「妄言はよしなさい。巫女が神器の浄めを行うのは、次の王を言祝ぎ、次の世にもシレアに平安が訪れるよう妖精の加護を祈るためです。邪心から来る我欲や
よく通る高い声はますます大きくなる水音にもかき消されない。理性感情のある普通の祭官であれば怖気づき止まっただろう。
だが、司祭長は呆れ顔で肩を落としただけだった。
「シルヴァ殿。貴女もお分かりにならないのですか。この霊廟がいま、やっと真の役目を果たすというのに」
残念です、と嘆息し、祭器を高く掲げる。
「もう始めましょう。月が満ち、妖精の力が漲る日に、海の力を得たシューザリエの神秘の水が司祭領を浄めるのです!」
司祭長はそれまでの調子とは打って変わって高らかに宣言した。堂々たる声が壁に反響し、瀑布の水音と混じり合う。頭上高くに手が掲げられ、そしてその上に戴いた楽器と共に速やかに降ろされた。
止める間も無いまま神器の一つである鼓が盆の水面に触れる。
そしてその姿が中に見えなくなったと同時に、盆から凄まじい勢いで水が溢れ出し、あっという間に下まで落ちた水流が司祭長の立つ床面を激しく叩いた。
司祭長が狂喜の叫びを上げる。
人間のものとは思えない叫声が鼓膜をつんざき、アウロラは耐えきれずに耳を覆った。
その時である。
全身に満ち渡るように、アウロラの身を懐かしい響きが包んだ。
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