水流(四)

 カエルムとロスはイクトゥから西へ馬を走らせ、出来るだけテハイザ領の内部を迂回する形でシレアへ入った。シレアの中で剣の腕では右に出る者がいない二人とはいえ、全く疲弊しきった状態では分が悪い。シレアに入れば何処だろうと王都シューザリーンの時計台の時報が国土の隅々にまで届く。時間を計算し、馬替えに合わせて最低限の休息を入れながら道を進む。国境からいくつか町村を越えれば司祭領へそう遠くない。二人は計画通り、イクトゥから出て二日後には司祭領の中心に辿り着いていた。

 市の内部を馬で走ることは出来ない。検問からほど近いところで、ロスの叔父であるプラエフェットと繋がりのある家に馬を預かってもらい市街中心へ急ぐ。

 官公庁の業務時間が過ぎた頃だからか、領政庁周辺に人通りは少なかった。閑散とした中を時折り仕事を終えたらしい勤め人が道を行くだけである。

「シューザリーンからの到着はまだらしいな」

「ええ。叔父に助力を求めたいですけれど、ここからでは叔父の家に回ってる暇もありませんね。療養が続いてますから、精霊殿や領政庁の様子を知っているかも怪しいですが」

「司祭領にも予防線は張ってあるが、どこまで効くか……ともかく精霊殿へ行こう」

 ここまで来たらもう誰がか分からない。なるべく人目に触れないよう、大通りを避けていくつもの小路が複雑に入り組んだ道を抜けて行く。次の角を右手に曲がれば精霊殿に続く道になる。

 目的の角まであと数歩の距離で、曲がった先を確認しようと速度を緩めた時、突然右手から音もなく人影が現れ道を塞いだ。

「殿下!」

 二人を止めた人物は上体まで覆うすすき色の麻布を頭から被っており、顔を隠したまま顰めた声でカエルムを呼び止めた。

「お待ちしていて良かった! やはりこちらをお通りになると思っておりました」

 まだ若い娘の声でそう言い布をややずらすと、布から黒髪がはみ出てさらりと揺れた。フィオーラはカエルムの後ろにいるロスにも軽く会釈する。再びカエルムに焦点を戻した赤紫の双眸には焦燥が見て取れる。

「フィオーラ! 良かった貴女に会えて。皆は」

「私が把握している限りの巫女は精霊殿の別棟に移動させました。でもシルヴァ様だけ見失って……」

 フィオーラは伏し目がちになり悔しそうに唇を噛む。一方のカエルムはフィオーラの報告には答えず、何か思うところがあるように空を見つめた。だがそれも一瞬で、すぐにフィオーラへ向き直った。

「私はロスと精霊殿内部へ入る。殿舎入口の警備は」

「見張りの自警団が二人」

「その程度なら抜けられる。問題ない」

 そうカエルムが言った時、不意にフィオーラが身を乗り出してしカエルムに顔を近づけた。

 咄嗟のことに、ロスは瞬時に目を逸らした。視界の隅に両者の姿が映る。薄く紅を刺したフィオーラの唇がカエルムの耳元で小さく動き、二言、三言囁くと、衣の内から取り出した何かをカエルムの手に握らせた。

「……どうかご武運を」

 顔を離して身を引くと、フィオーラはカエルムの手を両手で包み込む。そしてそっと手を離し、上目遣いで見つめたまま僅かに身をずらして道を開けた。

「礼を言う。貴女も早く安全なところへ」

 カエルムは柔らかく微笑むと、フィオーラが了承を示したのを確認して曲がり角を先へ踏み出した。ロスは不覚にも茫としていたが、「行くぞ」と急かされ慌てて自分も巫女に会釈しその脇を通り過ぎる。

 カエルムに倣って加速しながら後ろを盗み見ると、巫女はまだ同じ場所に佇み、二人を見送っていた。

 ——なんか見た……。

 一連のやり取りに戸惑いを禁じえず、見てはいけないものを見てしまった気がしてなんとも居心地が悪い。

 確かにカエルムは予防線を張っていると繰り返し述べていた。予防線というのはプラエフェット家とは別にあったというか。多少なりとも策があり、そのおかげで無関係の者たちが差し当たり無事なら良い。良いはずである。

 ——けど……ちょっと待て……?

 詰問したいができない。そんなことを考えている場合でないのは確かなのだが、ロスはこの非常事態とは別のところで胸がざわつくのをどうにも抑えられなかった。

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