水流(三)

 シレア王都シューザリーン城の執務室では、大臣が王女を前にして、皺の多い顔にさらに皺を寄せて唸っていた。

「弱りましたな……これはどうにも……如何ともし難い」

 大臣は地下水の異常を聞くとすぐに部屋へ駆けつけた。城に長年仕え、城内では国の歴史に最も通じている大臣でさえ、自分の目が信じられないという。すぐに地下水に監視を置き、市街を流れるシューザリエ大河のほか、川の源流に通じる北の山にも異常が生じていないか役人を派遣した。城と王都に関して打てる手は全て打った。いま頭を抱えているのは別の問題である。

「確かに姫様の仰る通り、もし解決が可能だとしてもこればかりは姫様に赴いて頂かなければ他に方法がありそうにない」

「ええ。向こうには確実にお兄様が行っていらっしゃるとしても、さすがに私もいまの状況でここから一人で司祭領に向かうなんて危険だと思うの。でも満月まであと二日しかないわ。シューザリーンからも国防団を派遣して頂くつもりだけれど、一刻を争うのよ」

 アウロラが自分の出発を宣言して準備を始めたのに対し、大臣は一度は反対したが、アウロラの推測を聞くと同意せざるをなかった。だが即時大人数で行くことはできない。それは大臣も承知している。

「人を増やせばどうしても足が送れますし、そもそも馬替えの馬が足りないでしょう。派遣する国防団も王都の守護と調整しながら精鋭で団を組むのには多少時間が要ります。口惜しいですが最低限の人数が良い。しかし……」

 大臣は白髭を何度も繰り返し撫でる。アウロラも組んだ腕の上を指でトントンと叩いた。

「一人つけるとしても誰について来てもらうかなのよね。お兄様もロスもいないとなると……」

「これは最適な人選が極めて難しいですな……姫様を一人でお守りするだけ腕の立つ者となると……」

 王家直属の一等衛士団の団員を端から思い出してみても、アウロラが自由に動けるだけ気を許せ、なおかつ能力に優れた者となるとなかなか条件が厳しい。決断に窮し、二人揃って音を上げそうになった時である。

 城門の方から一つ、甲高い嘶きが聞こえた。

 窓の外へ顔をやったアウロラは、門を駆け抜けて来た姿をみとめて笑みを作る。

「大臣、一緒に行く人が決まったわ」

 満足げに言うと、アウロラは大臣の脇をすり抜けて城の表玄関に向かって走り出した。


 ***


 晴れ間の見え始めた空で、太陽が傾いて空が茜色に染まっていく。シレアは晩夏ともなれば日が落ちると上着なしでは肌寒い。シードゥスは肩から下げた鞄に防寒用の衣を突っ込むと、弓を片手に矢筒を背負って部屋を出る。黄昏色はどんどん濃くなる。急ぎ廊下を城の入り口へ向かった。

 外門の脇に回れば厩舎だ。小屋の前に馬具の整った馬と共に立つ人物がいる。

 その姿を目にした途端、シードゥスの鼓動が跳ね上がった。

「ウェスペ……」

 逆光になって顔は見えない。だがあの日以来何度も瞼の裏に去来し、その度に締め付けられるような痛みを覚えた姿。すらりとした華奢な作りの四肢。自分より頭一つ低い背丈。風に揺れる髪。

「あ、来た来た。ごめんね、イクトゥから帰って休みも無しで」

 近づいてきた足音に気がつき、アウロラは振り向いた。その声でシードゥスははっと我に帰る。

「それは、いいんですけれど……」

 こちらに笑いかける顔を直視できず、無意識に視線を逸らしてしまう。

 アウロラはきょとんとしてシードゥスを見ている。そのいでたちは普段のドレスではなく動きやすい上下の旅装であり、茶に近い柔らかな長い髪は頭の高い位置で一つに結われていた。常のアウロラとは違う初めて見る格好であるのに、否応なく記憶が蘇る。見たことがある。その髪型で、同じ声で、同じ瞳の色で笑う顔は。自分の胸をどうしようも無く焦がしたそれは。

 ——同じなのだ。自分の目の前から消えた少女に。

 言葉にならない思いが突き上げ、その場に立ち尽くす。やるせない気持ちが拭えず、弓を握る手に力が入り、知らずのうちに汗ばんできた。

 普段なら手際の良いシードゥスが身動きを止めてしまったので、アウロラは訝み、具合が悪いのかと顔色を覗った。だが複雑な感情で歪んだ表情を見ると、すぐに合点したと半眼になる。

「ったく……この愚図ぐず。まだ引きずってんの?」

 これ以上ない呆れ顔をされ、シードゥスは顔にまで出ていたのかと、今度は恥ずかしさで耳まで熱くなった。

「そんなのじゃあの子だって千年の恋も冷めるわよ」

 ひと月の恋もしたことがないだろう王女はそう吐き捨てると、さっさと馬の手綱を引いてシードゥスの横を通り過ぎた。自分でも言われた通りだと分かっているだけに反論できない。シードゥスはなんとか「すみません……」とだけ呟き、胸中バツの悪さでいっぱいになりながら自分も馬を連れ出しに急いだ。





 馬を引き連れて城門の方へ行くと、すでに大臣とソナーレ、そして料理長が待っていた。ソナーレが心配を顔一面に表して近寄り、とくとくと注意しながらアウロラの上着に出来ていた皺を伸ばしてやる。

「姫様、無理しちゃ駄目ですよ。しんどくなったらすぐにシードゥスに言ってくださいね。月蜜花のお薬も荷物に入れておきましたから、忘れずに飲んでくださいよ。女の子の方が体力的には辛いですし、シードゥスはいくら疲れさせても構いませんからね」

 何度も念を押されたのだろう。アウロラは苦笑すると、背伸びをしてソナーレに抱きつき、ぎゅっと腕に力を込める。

「大丈夫。『音』の対処にも慣れてきたし、お薬もよく効くもの。無茶はしないから安心して」

 腕を緩めてソナーレの顔を覗き込み、「ねっ」と今度は力強く笑う。するとソナーレの脇に料理長が並び、

「果物とクリームの包み焼きじゃよ。明日の分もありますわい」

 と、ぶっきらぼうに何かをくるんだ紙を差し出した。受け取ればずしりと重く、まだほんのり温かい。礼を言って潰さないよう鞄の一番上に入れていると、二人の後ろに控えていた大臣が一歩前に踏み出した。

「姫様。殿下も向かっていらっしゃるとはいえやはり私めは心配です。王都シューザリーンの城から離れたところで、次期シレアの女王となるアウロラ様にもし万が一のことがあったらと思うと……」

「あら、なに言ってるの」

 重々しく切り出した大臣とは正反対に、アウロラは明るく返した。

「王は都と城だけを守るのではなく、国全体の責を担うのが務めです。だから私は行くのよ」

 そう宣言する言葉には力があり、瞳に不安や恐れはない。そして大臣と正面で向き合い、満面の笑みを作った。

「それに、この城とシューザリーンには大臣たちがいらっしゃると思うからこそ安心して行けるのよ。城と都を、よろしくお願いします」

 そう言って深々と頭を下げると、アウロラは元気よく馬の背に飛び乗った。

「それでは行ってきます! 留守中、くれぐれもよろしくね!」

 シードゥスが騎乗したのを確かめ、アウロラは馬に出発の合図を送る。久しぶりに王女を乗せた馬は、その喜びで意気揚々と駆け出した。




 城の前に残った三人は、しばらくその場に佇み、次第に小さくなる馬の後ろ姿を見送っていた。

 二頭の蹄の音が遠くへ消えるまで待つと、大臣がくるりと踵を返す。

「さて、姫様のご期待に沿うよう剣の手入れでもしておくか……足を引っ張るなよ」

「調理場は毎日戦場じゃよ。そっちこそ、現役を退いた老人が鈍った体で怪我せんといいんじゃがな」

 にやりと横目で見る料理長に対し、大臣はふん、と鼻を鳴らして城の入り口の方へ歩いていく。

 その時、西の方角から一羽の鳩が急速に城へ近づき、高い塔の物見台へ降り立った。

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