水流(二)

 ロスをはじめ周囲が見守る中、カエルムは再びしばらく目を閉じて俯いていたが、やがてゆっくりと瞼を開いた。

「クルックス、次の満月は確か」

「あ、はい」

 突然名前を呼ばれたためか、クルックスは困惑を滲ませながらも急いで応じる。

「観測では、明後日が満月になるのは確かです」

 ぎりぎりだな——そう呟くのをロスは聞き逃さなかった。だがカエルムはすぐに顔を上げ、表情から苦痛を消して立ち上がる。

「陛下、時間がありません。我々はすぐに失礼して西へ発ちます」

「テハイザのならず者が何処に向かったかあてがあると?」

 カエルムを見上げたテハイザ王の言葉は、実質的に問いかけではなく確認だ。

「ならず者はシレアにもいたようだ。恐らく貴国の者とよくない契約でも結んだのでしょう」

 冷えた感情を面に表し、やや早口になりながら続ける。

「それだけではない。ほぼ確実に、いま我々や陛下の身に起こっている異常と関連しているでしょう。テハイザの海とシレアの時計の異変とも」

 そして自身の身に先ほど感じた『音』からすれば、恐らくシレアの水にも何かが起きているに違いない。そうカエルムは確信していた。

「事態は一刻を争います。このまま行けばさらに悪いことになる。それを食い止め現状を正すためにも直ちに西回りで司祭領に向かいます。シレアへ入るのにテハイザ領内を走るのをお許しいただきたい」

「何か具体的な策はあるのですか」

「いまの状況では何も確実なことは言えません」

 端正な顔を歪ませ、碧玉をつけた拳に力がこもる。

「だが宝玉が向かった場所が私の推測の通りならば、いま食い止められるとしたらしかいない」

「なるほど。貴方でも不安要因があるということですね。ならば……」

 ふと瞼を伏せてから、テハイザ王は椅子の肘置きを支えに立ち上がる。体が思うように動かないのだろう。痛みに顔を顰めながら手を首元へやると、そこにある何かに手をかけた。

「先のシードゥスではないが、私も自分の立場を逸した賭けに出ましょう——これを」

 静かに述べると、テハイザ王は首から外した物をカエルムへ差し出した。

「陛下、それは」

 王の手のひらに載せられたものが何か理解し、周りで見守っていた面々は目を見張った。灯の元で黒光りするのはよく磨かれた細い石——海の民テハイザの宝にして、四方を示す王の神器である。

「理由は私にも分からないが、これは我々に在るべき場所を示してくれる。碧玉が誤った場所に行ったというのなら、そのために起きた異事を正す力が何かしら在るかもしれません」

「しかしこんな……それにこれを私が持ち出せば、陛下が御身体に感じる『揺れ』がさらに酷くなるのでは」

 驚き王を止めるカエルムとは逆にテハイザ王はふっと笑った。

「何を仰る。以前も私は貴方に国の宝を託したが、それは正解だった。テハイザが信を置いた貴方と妹御なら大丈夫だと信じます。それに、力というものは下手に集まると厄介だが、逆に一処に集めなければならない時もある」

 神器へ手を差し述べるのに躊躇するカエルムの右手を取り、テハイザ王は「私が行けぬ代わりに」と石をその中に握らせる。そして、宝が収まった手を上からしかと握った。

「ただし」

 重ねた手を離す瞬間、テハイザ王の目が鋭く相手のまなこを捉える。

「もし貴方の行く先でこの神器に何かあった暁には、私はこれを託した自分を棚に上げてシレアの後継者二人をこの手で斬ります」

 そう断言する王の青い瞳は冬の海の如く冷たい。だが相対する蘇芳の瞳も一切怯まない。

「我々の首を取った後、貴方は?」

「私も不届き者どもの始末をしたら、自分の愚かさを呪って自害しますね」

 断言する声音は刃を思わせる鋭さで、とても体が不調とは思えない。それだけの覚悟だということだ。

「逆に、もし成功したとしたら?」

「シレア側が身を賭したことに礼をしようじゃないですか」

 両者が無言で対峙したまま、数秒が過ぎる。互いに相手の真意を確認できるまで僅かも動かない。

「陛下の御覚悟は分かりました——御身の代わりとしてお預かりし、必ずやここにお返しすると約束します」

 迷いも不安もなく述べられた言葉を聞き、テハイザ王が全身に纏っていた緊張が緩む。

「その言葉をしかと聞きました。貴方がたシレアの駿馬といえども限界がある。馬替えが必要でしょう。途中、要所要所で自由に馬を使えるよう許可書をお持ちください」

 近衛師団長に目配せで書の準備を指示すると、王は再び椅子に寄りかかる。見るからに息で肩が上下してしまうのを抑えているようだが、それでも覇気を失わずにシードゥスの名を呼んだ。

「君にはテハイザ国王の名においてシレア統治者の命に従うよう指示する。カエルム殿、シードゥスを任せます。ロス殿ほどまで行かずとも、彼なら役立たずになるということはないだろう」

「それは非常にありがたいことです。彼がいてくれるとなると心強い。それではシードゥス」

 名指しされた当人の方を振り返ると、望んでいた役目だと、ひたとカエルムを見つめて次の言葉を待っていた。

「イクトゥからよりもシューザリーンと司祭領の方が距離的には近い。間に合うはずだ。今すぐ王都へ戻ってくれ」

「シレア王都へ?」

 疑問を呈したのはテハイザ王の方だった。てっきりロスと共にカエルムに随行させるつもりだったのである。しかしカエルムの判断は他になかった。強い信頼がその言葉にある。

「確実に、既に私の妹が動いています」


 ***


 海の上に飛沫が上がり、白波が砕けて耳に煩い。海上の厚い雲は晴れず、そろそろ夜の帳が下りるというのに朧な月の光すら見えない。

 それぞれ西と北に馬が駆けて行った後の道を眺め、視界の中でその岐路の上に碧い石を重ねる。

「近衛師団長」

 背後に控えた忠臣は無言で軽く頭を下げる。

「明後日までに港に停泊中の船を陸へ。沿岸部の住人に退避するよう触れを出す」

「退避場への移動準備と船揚げを同時にとなると民にはかなりの負担がかかりますが、よろしいのですか」

「城の官も動員しろ。時間がない」

「陛下」

 困惑の混ざる近衛師団長の呼びかけを遮る。

「大潮になる」

 海に大きな力が戻る。恐らく、引いていた力の分だけ普段にはない高波も来るだろう。

「……やってくれるさ。彼らなら」

 胸元に留めた宝玉を握りしめる。上空を見上げると、風が吹き乱れる中に紅い紐を靡かせ、一羽の鳩が近づいてきた。

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