水流

水流(一)

 夏の昼下がりに触る木造の手摺は、普段なら窓からの陽に照らされてほんのりと温かい。だが鈍色の雲が空を覆った今日のような日には、夏でも寒い書庫で冷えた手を温めてもくれない。階下からの階段を上がりきり、アウロラは息を長く吐いた。

 シレア城の廊下は、兄がいなくなってしまうと妙に広く感じる。母や父がいた頃はそんなことも思わなかったはずだ。亡くなった両親に代わり国の全ての責が自分たちの肩にかかってから、特に古参の老中たちが王女である自分を見る目は変わった。仕方がない。経験の少なさを不安に思うのはアウロラにも分かる。若い娘が女王になるなどそうあることではない。頼りになるのかと疑う心理が働くのも当然と言えば当然だ。

 時に触れ、居心地の悪さは感じた。しかし兄がいる時には兄がくれる全面の信頼が官吏の間に漂う疑心を払拭してくれる。だからこそ不在時の圧力は身に沁みる。

「あらっ姫様、書庫の方はもう終わりましたか?」

 声がして階段の方へ顔を向けると、ソナーレが茶器を持って上がって来た。

「ええ。後でまた大臣のところに行くわ。そうしたら少し執務室に篭るから」

 笑顔で答えたはずなのに、ソナーレは困り顔で覇気のない声を出す。

「……姫様、聴いてくださらないのは分かっていますけれど、あまり気を張りすぎないでくださいね」

「いやね全然大丈夫よ。月蜜花のお薬もよく効いているし、音にも慣れてきたわ」

「甘く見ないでくださいな。お顔を見ればわかります」

 侍女は自信たっぷりに声を一段大きくする。

「姫様が倒れてしまっては困りますわ。政務の統括をなされるのはいま、姫様しかいらっしゃらないのですから」

 ソナーレが心配顔をしながらもきっぱりと断言するので、アウロラはその矛盾した様子につい笑ってしまった。それに実際、いま聞いた一言で鬱々とした気持ちが少し薄れる。アウロラはソナーレを手招きし、誰が聞いているわけではないのに片目をつむって声を顰めた。

「ありがとう。じゃあ料理長にこっそりお願いして、今日のおやつ、果物とクリームの包み焼きにしてもらってくれない? あれ手間かかるから忙しいとなかなか作ってくれないの」

「あら、あれ私も好きです。久しぶりに食べたいですね。分かりました。後で絶対、お持ちできるようにしておきますからね」

 小さな悪戯をする時と同じ楽しげな約束を交わすと、ソナーレは執務室にもお茶を持って行くから、と言い添えて廊下を去っていった。後ろ姿を見送り、アウロラはふぅ、と先ほどよりずっと軽く吐息する。

 自分を信頼してくれる大臣や、心のうちを話してくれる馴染みの官吏が何人もいるのは幸いだ。いまは自分自身が学び、信を得るよう努力するほかない。

 早朝に発った兄たちはもうとっくにイクトゥに着いているはずだ。自分は兄やソナーレにしっかり休息をとるよう言われ、薬の力も借りて寝させてもらったため見送りはしていない。その分、起きてから常日頃の政務に加え、神域や時計台を見張っている衛士からの報告、材木屋から追加で受け取った売上表の整理など、城でやるべき仕事を一つ一つ片付け、先ほど精霊殿の修繕に実際どれほどの木材が使われるのか、一応過去の記録を調べて来たところだった。現時点で自分がやれることは確実に行えているはずだ。

 書物の出し入れをして少し埃っぽくなった頬にひやりとした感触がする。顔を上げれば、開け放した窓の向こうで木々の梢が揺れ、さわさわと涼しげな音が室内に入り込んでくる。

 だがその心地よい律動が、突如遮られた。

 細い針を思わせる『音』が、聴覚を否応なく外界から遮断して、稲妻のごとくアウロラの全身を駆け抜ける。


 ***


「殿下、殿下! 大丈夫ですか!?」

 突然カエルムは上体を折って耳を塞いだ。走り寄れば目は閉じられ、歯を食いしばって何かに耐えている。

「まずいな……」

 数秒ののちに薄く瞼が開けられ、目に苦痛が浮かんだ。

「恐らく……シレアに新たな異変が起きた」


 ***


 脳から全身を支配した音が弱まるのを待ち、歯を食いしばって痛みをやり過ごす。自信を抱いた腕の力がやっと自分でも感じられ、五感が次第に正常に戻り始める。

 外界の事物の気配と共に鼓膜が解放されていく。聴覚に先ほどの葉擦れの音が再び小さく届き始めた時だった。今度その穏やかな響きを遮ったのは、まだ幼い高い叫び声。

「姫様!」

 声の主とその表情を見れば、生じた異常がどこに在るかは明らかだった。

 唇を強く噛んで勢いよく立ち上がる。体の縛りを振り払うように、アウロラは廊下を駆け出した。


 ***


 最下層階まで階段を一足飛びに降り、東西に伸びた廊下のちょうど中心へひた走る。目的の部屋が見えてくると、アウロラは速度も緩めずそのままその中へ駆け込んだ。

 室内はいつもと同じ静寂に満ちている。石壁に囲まれた空間は、生緩い廊下の空気とは対照的に夏でもぴんと張った冷気を感じる。だがいまアウロラの背に走った鳥肌は決して気温のせいばかりではない。

「王女さま……こんなことって、ふだんあるんですか?」

 追いついたスピカがアウロラの後ろから途切れ途切れに尋ねた。答えなど分かりきっている。過去にもし同様のことがあれば、これまでアウロラが血眼になって記録書の中を探した時にとうに見つかっているはずだ。

 目の前に広がる水の水位が、確実に下がっているのだ。

 石壁の奥から流れ出る細い水流は途切れてはいない。しかし心なしか水面に落ちる筋は細くなっているように見える。そしてそれより何より、水を湛えた池に迫り出した木の床と水面の間に、これまで見たことのないほど広く差ができている。

 どこまで続いているのか、水面の下は深淵で底は見えない。水がここから出でてどこかへ向かっているのか、それともここに至るべき水が途中で別の方へ逸れてしまっているのか。水の行き先が変わってしまっている。

 ——やはり、水だわ。

 岸まで寄せるはずの海の水が逆に引き、シレア城に絶えず満ちるはずの水がここに辿り着いていない。そしてこれが、大地に水を通して流す神木が切られた直後のことである。まるで木の根に導かれて伝わるはずの水流が行き先を見失ったように。

 シューザリエは海に繋がり、その一部が地底を通ってこのシューザリーン城に恵みをもたらす。川が常に命の源を届けるのは、ここが国を守る要の一つであるから。

 そう古くからの言い伝えが頭をよぎった時、アウロラの中で諸々の事態が急速に明瞭な事象となって次々に浮かび上がり、一つの糸を作るように繋がり始める。

 シューザリエの水流がシレアに常に流れるところは、シューザリーン王城だけではない。

 ——司祭領……!

 スピカは恐れを瞳に浮かべてじっとアウロラを見上げていた。いつも優しく明るい紅葉色の瞳が、今は怖いほど真剣に水面に注がれている。

 視線をずらさぬまま、アウロラが決然と述べた。

「スピカ、お願いがあるの。すぐにテハイザへの伝書鳩の手配と厩舎で私の馬の支度をさせて。ソナーレに乗馬用の服を頼んでちょうだい。私は大臣のところへ向かいます」

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