奸計(四)
天球儀のある謁見の間から城の下層階へ下っていくと、テハイザ王は白い扉の前で足を止めた。木製の扉である。石造りの部分が多いテハイザ城では珍しく、異質にも見えた。木材はくすんだところが全くなく、上質な絹を思わせる真白である。
扉には取手はなく、引き戸でもなさそうである。見ただけで感触が想像できるほど滑らかな表面では美しい木目が流線を描くだけで、留め具はおろか周りを取り囲む壁との境には隙間と呼べるほどの間もない。
この扉はテハイザ城に住まう者なら知っている。当然シードゥスも見慣れたものだったが、この先に入ったことはなかった。
どうやって開けるのかと訝しがっていると、テハイザ王がすっと右手を上げ、胸元に留まった装飾具を取り外した。晴れた日の海を思わせる碧く輝く石である。王はそれを大事そうに摘むと、そっと扉に触れさせた。
石が扉に当たり、ごく微かな音を立てた瞬間である。
二つの接触点から柔らかな光が溢れ、白木の板上に乳白色に輝く輪が波紋のように広がり始めた。輪は幾重にもなり、それらは繰り返し扉の縁まで辿り着いては消えていく。そしていくつめかの輪が広がりきった時、扉と壁の境に少しずつ隙間が開き始め、人の通れる空間が開いたので在る。
「お入りください」
テハイザ王は皆を
「そういえば、シードゥスは私の部屋に入るのは初めてだったか」
近衛師団長ほどの側近ならまだしも、並みの臣下が王の御前に立つのは先の謁見室か広い城内にある行政部署でなければ、せいぜい廊下で偶然行き合うくらいなものである。とても私室に足を踏み入れる機会など無い。それにも拘らず、呆けているのはシードゥスだけだった。
「なんです……今の」
「この扉はシレアの神木で出来ていてね」
扉の先に現れた廊に先頭を切って踏み出しながら、テハイザ王は説明する。
「私のこの石——カエルム殿も持っているが——この宝玉は水の象徴とでもいうかな。木と水にとは互いに支え補い合うものだ。天から降る雨が木を育み、一方で木は自らの根を通して少しずつ水を地面に送る。そして長い時間をかけて川へ、そして大海に至らしめるようにね」
「そして海まで来た水はいずれ天に帰り、雨となってまた木々を潤すとも伝えられている」
カエルムが言葉を継ぎ、この関係が両国の和になぞらえられてきたのだと補足した。軽く同意を示すと、テハイザ王はさらに続ける。
「だが、それと同時に両者は正反対の性質も持つ。風雨を防ぐが如く木は護りの力を持つが、その反面、海の波が岩を穿つように水には破壊の力がある。豪雨が降れば木は水を抑制しきれずに地面は崩れる。木は水を呼びそして受け容れるが、度が過ぎれば水は森林が育まれる地を侵食すると言ってもいい。そしてついには瓦解に導く」
神木の扉を開けた宝玉を燭台の光に翳し見て、テハイザ王の目が何か恐ろしいものを前にしたように歪められた。
「だからだろうか。単なる譬え話かもしれないが、この石があの扉に触れるのは一瞬だけだ。決して長い時間触れ合ったままにしてはならない。そのように父からも固く言われて来た」
それはカエルムが自身とアウロラの身につける宝について知るところと同じだった。テハイザ王と同じく、自らの手にある海の碧と珊瑚の薄紅を眺める。
「それは、両国が節度を持って互いの関係を築くように、という寓話でしょうか」
「言うねシードゥス。歴代のテハイザ君主に対する批判か」
テハイザ王は横目でシードゥスを見ながら鼻で笑う。だが「そんなつもりは」と青年が慌てて抗弁するのに対しては、本気ではないと首を振った。
「まあこの石が水の力や全ての水が集まる海を意味しているのは数々の言い伝えからほぼ確実であるし、水流と木の関係を考えれば寓話としてはありそうな話だ。海に面したテハイザと、古来我が国と繋がりのあるシレアの関係を考えれば特に。互いを凌駕せず、対等な立場で友好を、というのが一つ」
「己の領分が区別されているような気もしますね。シレアの妖精は海から移り住んだと古くから言われています。妖精が生まれた母なる海と、妖精が宿る森林と。だが二つの国は隣接してはいても一つではない。つまり、海と森林はひとところには存在しない」
森林には地を守る木々の力があり、海には大地をも変える波の力がある。シレアには山の恵みが、テハイザには海からの恵みがある。先にシレアとテハイザの間で友好条約の締結が果たされたのは、自国にない力を掌握して集中させるのではなく、別々の強みを分かち持つからこそ補い合う関係が築けると考えたからだ。絶対中立を通すシレア国で、カエルムとアウロラが両親から継いだ思いである。
少し先に長い廊下の終わりが見えてきた。その奥が円状に開け、部屋になっているのが分かる。
「力の分配か……そうだな。今回の災禍はそこに関わってくるのかもしれない」
独り言めいた呟きを漏らしながら部屋に入ると、テハイザ王は皆に腰掛けるよう勧めるや否や、他の者たちが座するのさえ待てずに奥の椅子にどさりと身を沈めた。
「本題に入りましょう。一体何が起きているというのです。それに陛下のその御具合は」
いくら本人が気丈にしようとしていても、国王の体の異変は度を超えている。流石のカエルムも理由を聞かずにはいられなかった。
「私の体ですか。こう言ったら頭がおかしいと思われるだろうか」
テハイザ王は目が眩んだ時のように片目を覆い、力無く続ける。
「いきなり……海に揺さぶられるような感覚に襲われました。悪天候での航海の経験がなければ理解し難いかもしれないが……荒波の船上で甲板に叩きつけられるのと同じ痛みも。それが断続的に続いている。おかげで酷い消耗だ」
「今もそれを感じていらっしゃると」
「ええ。そして嫌なことに、恐らくこれが起こった契機も分かっています」
「契機?」
テハイザ王は肘をついて頭を支え、低く述べた。
「体の異変とほぼ同じ時だと思われるのですがね——テハイザの碧玉が、盗まれました」
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