凶報(五)

 かん高い声で言い合っているのはスピカと伝書鳩係の少年だ。スピカは爪先立ちで腕を上に伸ばし、握りしめた何かを奪い取ろうとする少年の手から器用に逃げている。

「だからって鳩の手紙の管理は僕の仕事だぞ!」

「でもこれあたしのところ宛てでしょお?」

「城の仕事には段取りがあるんだよっ」

「こら二人とも喧嘩やめなさい」

 駆け寄ったアウロラが二人の間に割って入る。引き離された両者は「アウロラさま」と同時に口にしたものの、すぐに踏みとどまって睨み合った。

「どうした二人とも」

 追いついた年長の三人に囲まれると、少年の方が先に抗弁する。

「カエルム様にアウロラ様、スピカが鳩の手紙を勝手に持ってくから」

「勝手にじゃないわよ、ちゃんと『持って行くわよ』って断ったでしょ。それに王子さま王女さま、テハイザ大使宛ての急ぎの手紙だったんです!」

 アウロラたちは息を呑んだ。

 スピカの指の間から見える紋章は南十字に帆船を組み合わせたテハイザの紋章。そこに通常とは異なる印——一本の帆柱に横帆を張った船ではなく、三本の帆柱に三角帆。 逆風に強く船速に優れた型であり、緊急の知らせを意味する。

 シードゥスは即座にスピカの手から書簡を取り上げると、ちらとだけシレアの者たちに黙礼してすぐに羊皮紙に巻かれた紐をほどいた。

 封蝋を剥がし、紙の巻きを開きながら目を走らせる。羊皮紙が開いていくにつれ、シードゥスの顔から血の気が引いていった。

 皆が固唾を飲んで見守る中、書簡の巻が無くなるところまで来て、シードゥスの手は止まった。だがシードゥスは息を詰め、まだ視線を羊皮紙に止めたまま動かない。

「シードゥス、テハイザ国王陛下は、なんて?」

 長く続く重い沈黙に耐えきれず、アウロラが控えめに声を掛けた。するとシードゥスは呪縛が解けたように顔を上げて口を開きかける。しかしまだ何かを迷い、再び書面に目を遣る。そしてようやく顔を上げ、カエルム、そしてアウロラを交互に見た。

 深い濃紺色の瞳に常にはない強い緊張が表れている。

「シレア国とテハイザ国の友誼に信を置き、テハイザ大使としてお願いがございます」

 右腕を折り、掌を胸に当てて頭を下げる。外交の場でのテハイザ国正式の礼だ。

「シレア国次期王位継承者——」

 そこで口を噤み、ほんの一瞬目線だけを上げる。数秒の間ののち、シードゥスは続けた。

「第一王子、カエルム様。テハイザ王都イクトゥまでご同行を」

 アウロラ以下、場にいる者皆の視線が名指しされたカエルムに集まった。

「私、か」

 シードゥスの顔に迷いが浮かび、目が泳いだ。視界の隅にアウロラが映る。

「……はい。カエルム殿下に、お願いしたく」

「何かまた、テハイザにシレアの王族の訪問が要されるほどの緊急事態が?」

「詳しいことは、ここで俺からは話せません。確かにいまこんなことを願い出るのは勝手に聞こえるかもしれない。シレアの状況も分かっているつもりです。でもこの事態だからこそ、どうかお願いします」

 そこまで一息に言ってシードゥスは再度頭を下げた。横で見守っていたスピカは疑問と困惑を顔に浮かべてシードゥスを見上げ、それからカエルムの方を窺う。カエルムは礼の姿勢で止まっている青年を見つめたまま何かを考えている風だったが、数十秒ののちに首を縦に振る。

「分かった。すぐに支度にかかるから、少し時間をくれないか」

 シードゥスは頭をはね上げて「ありがとうございます!」と目を輝かせた。

「ただシレアもこの状態で大勢は連れていけない。ロスだけに同行を頼みたいが、構わないか?」

「いまの時点では十二分です。こちらも即準備に入ります。それと、留守中はすみませんがスピカをよろしくお願いします」

「ええっ!? あたし留守番? ねえ何があったの」

 高く叫んだスピカを諭そうと、シードゥスが「お前は」と言いかけた時だった。

「私は?」

 聞き慣れた澄んだ声が、シードゥスの口を閉じさせた。アウロラの瞳には、不安も不満も感じられない。ただ、逸らすことを許さない力でシードゥスを見つめていた。

 考えるまでもなく当然だろう。シレアの統治者はカエルムだけではなく、カエルムとアウロラの二人である。それに兄王子の不在中、アウロラがこの事態に対して自分が具体的な動きを取れないことに葛藤していたのも、シレア王城にいたシードゥスにはアウロラの口から聞かなくても分かっていた。

 口にするべき言葉を探してもなかなか見つからない。スピカとアウロラに挟まれて、居心地の悪さばかりが募る。

 だが、先に沈黙を破ったのはアウロラの方だった。

「なんてね。ごめんねシードゥス。私はシューザリーンに残ります」

「アウロラ様」

「そりゃ私だってテハイザに一緒に行きたいのは山々だけれど、テハイザ国王陛下からしたらお兄様の方が私よりもよほど腹を割って話しやすいはずよ。悔しいけれど」

 そう話す口調は、どこか寂しそうではあったがさっぱりとしたものだ。

「お兄様がテハイザにいらしてお兄様にしかできないことをなさっている間に、私はシレアで私ができることをします。司祭領から何か新しいしらせがあるかもしれないし」

 一つ一つ言葉を紡ぐ声は静かだった。

「こういう時だからこそ、シレアをまとめる者が二人いる意味があるのだと思うわ」

 迷いのない声は、先ほど息せききって走り込んできた時の動揺はもう感じさせなかった。

 だが、落ち着きを取り戻したアウロラを前にしたら、なおさらシードゥスの胸の内が疼いた。いまカエルムを名指ししたのは正しかったのか。カエルムがいない城の中で一人になったアウロラが、人前では見せないやるせない思いをふと顔に浮かべるのをたまたま目にしたのも一度のことではない。

 万が一にも危険に陥れたくないという理由で、アウロラを再び城に残らせるようにした自分の選択は、王女の矜持を蔑ろにしたのではないだろうか。

 自分の決断に対する迷いと後悔が胸中で混じりあい、シードゥスは次にどうするべきか躊躇した。謝罪の言葉を述べたらいいのか、それとも理由を説明するべきか——

「やはり誰より頼りになるな、アウロラは」

 シードゥスが言葉を探している間に、その一言で場の空気が変わった。

「留守中、シレアのことは任せた」

「はい」

 カエルムの声音は穏やかだが、迷いも不安もないのが響きから分かる。今日初めてアウロラの顔が明るくなり、瞳がやや輝きを取り戻した。

 ——ああ、これか。

 シードゥスの中で、もつれ合っていたものが一瞬にしてほどけた。必要なのは気遣いの言葉でも遠慮でもなかった。アウロラの不安や葛藤を取り除き顔を上げさせるのは、この信頼だ。

「でも」

 続ける声にはもう力があった。

「テハイザ国王陛下にお目にかかれない代わりに、留守中のシレアのことは私の判断で行動するわよ。ある程度危険だとか難しいとか思っても」

 するとカエルムは咎めるのではなく、アウロラの頬に優しく触れて笑った。

「もちろん。アウロラならそうすると思っていた。そんなことを私に断る必要は無い。対等なのだから」

 照れ臭さと誇らしさを滲ませてはにかんでから、アウロラの表情が真顔に戻る。

「それに満月が近いわ」

 紅葉色の目がすぅと細くなる。対する蘇芳の瞳も鋭さを帯びた。

「儀式までの間に司祭領がどう動くかは解らない。予防線は張ってあるが、正直に言って今テハイザに行くのは賭けかもしれない」

 妹がしっかりと頷くのを見て、カエルムは「危険に晒したくは無いけれどな」と言い添える。

 すると兄をじっと見たのち、ごく一瞬の間をおいてアウロラがカエルムに抱きついた。その突然の行動に二人のやりとりを見守っていた者たちは目を見張り、一番近くにいたスピカは反射的に一歩飛び下がる。

「どうした?」

 周囲の驚愕とは逆に抱きつかれた当の本人は全く動じず、先ほどと何ら変わらぬ様子である。

「またお出かけになっている間の分だけお兄様を補給します——気をつけて行ってらして」

「心配しなくていい。すぐに帰るから」

 直前まであれほど悠然として見えた次期女王の誇りは見る影もなく——正しくは兄の背に回した腕にますます力を込め、胸に顔を埋めているので表情すらわからず——あっという間にただの娘に戻っている。

 今日までの数日間も相当我慢していたのだろう。横で見て入れば、付き合いの長いロスにはアウロラの胸中もカエルムがそれを理解していることもよくわかった。確かに城の中には王女をまだ子供扱いする口煩い老中もいるし、やはり国を背負う責任は十八歳にしかならない娘には重い。

 しかし取り敢えず周囲を置いてけぼりにされても困る。

「姫様、どうでも良くないですけれど殿下独り占めしたいんですね」

「そうよどうでも良くないわよ。でも独り占めしてるロスに言われたくないわ」

 ひっついたまま首だけ動かしてアウロラは唇を尖らせた。

「事実無根の抗議は風評被害になるのでやめていただけますか」

「ロスはどうせ今回もついて行くのだから事実になるじゃない」

「むくれられても困るんですけれど……なんか殿下が妃を迎えたら迎えたでこれはまた面倒くさそうですね」

「失礼ねそんなことないわよ。それより面倒くさいって何よ、あなたそれを本人の前で言う?」

 言い合いを始めるアウロラと呆れて説教を始めるロスを抱きつかれたままのカエルムが宥め、脇でスピカが「王女さまいいなぁ」と羨望の眼差しを向け、その様を伝書鳩係の少年がどうしたものかと半ば呆然と眺めている。目の前にあるのはシードゥスがシレア城で暮らし始めてからよく出会った日常の光景だ。

 カエルムを指名した直後に起こった気まずい空気はもうなくなっていた。そればかりか、不吉な報せによって自分達を縛った緊張はほどけ、詰まった呼吸もいつの間にか楽になっている。

 そう思ったとき、シードゥスははたと気がついた。いくら兄思いのアウロラとはいえ、今のように自分の寂しさを公然と明言したりここまであけすけな態度で曝け出すことはしない。少なくとも兄以外の者たちが共にいる場で彼女の心の揺れが知れるのは、抑えが効かないほど衝き上げてくるか、我慢してもなお滲み出てしまうときだ。

 ——急に甘えついたりして……まったく姫さまも不器用だな——

 カエルムもその点は理解しているのだろう。それはアウロラに対する表情から読み取れる。

 まだ賑やかなやりとりが続いているのを眺めていると、シードゥスはこれから向かうテハイザで相対する事の重圧がいくばくか軽くなった気がした。

 視線に気がついたのか、アウロラがシードゥスの方をちらと見た。目が合うと唇だけが少し動く。

 それを繋げたら、一つの言葉になった。

 ——あ。

 シードゥスがその短い謝罪を理解した途端、すぐに自信ありげな笑顔が浮かび、陽を浴びた紅葉と同じ色の瞳が「大丈夫」と伝えてくる。

 すまなく思った時の胸の痛みは、途端に薄れていった。

「——ありがとうございます」

 誰にも聞こえぬ小さな声だ。

 だがその方がきっと、アウロラは喜ぶ。

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