凶報
凶報(一)
シレア王城の執務室に、夕暮れ時の晩夏に独特な草花の匂いを孕んだ生温かい風が入ってくる。それにも関わらず室内の空気は張り詰め、息遣いさえ憚られるほどだ。室内にいる人物は普段と変わりはない。ただ机の上に広げられた羊皮紙が、この日常の風景に異質さを与えている。紙の四隅に錨の印と、上部に描かれた帆船と南十字星——テハイザの国章だ。
机の向こうに座したカエルムは、手の甲を重ねて肘をつき、黙したまま紙面に視線を落としている。もうとっくに読み終えただろうが、一向に顔を上げずただ一点を見つめている。手紙を差し出したシードゥスも、共に報告を受けたロスも、ひたすらにカエルムの発語を待った。
やがて瞬きもしなかったカエルムの瞼が閉じられ、そして再びゆっくりと開かれる。黄昏時の室内は書を読むにはやや暗い。部屋に差し込む夕陽が、カエルムの頬に長い睫毛の影を作った。
静かな吐息がようやく長い沈黙を破った。
「これは、かなり事態は深刻だな」
羊皮紙に並んだ字句を指差し、カエルムが眉根を寄せる。
「殿下がそういう態度を見せてくれて安心しましたよ」
「ロス、どういう意味だそれは」
「この期に及んでいつものように平然とされてはこっちが平静を保てません」
「こんな時に冗談を言うなよ」
「本心です」
横で聞いていたシードゥスはついひとこと差し挟みそうになったが、すぐに思い直した。むしろ二人のやりとりが通常と同じであることに今は安心するべきである。取り乱してはいない一番の証拠だ。
両者の間に割って入る代わりに、シードゥスは書簡で読んでもらった事項を改めて口に出す。
「お読みになって頂いた通りですが、お二人が留守中にテハイザの方で海の潮の動きがおかしくなってきています。船乗りの常識なのでクルックスの文には説明が無いですけれど、海は一日にそれぞれ二回、海面が高くなる時があるのですが」
「ここ数日では、予測されるその時刻全てで潮が引いている、と」
シードゥスは頷いた。
「俺がテハイザからシレアに帰った時は逆でした。潮が満ちる時の波の高さが尋常でなく、海に出た漁船に被害が及んだ。荒天なんかの時はそうした危険は常に伴います。ただ、その時の潮の満ち方は尋常ではなかったと言います。以降、そうした状況が何度かありましたが、その満潮の時に天球儀が異常に強い光を発したと」
「そして明滅は、我々が『音』を感じるのと同じく一日に二回、時刻もほぼ同じ、というわけか……」
クルックスが王の協力を得て観察した結果と、カエルムの不在中、アウロラが音を聞いた直後に記録した時刻を突き合わせてみたところ、ほぼ同時だった。両者の間には軽微な差があったが、これは事が起こった瞬間と、時計台や天球儀を見るまでの間に出来る数秒数十秒が原因だと考えられる。
「潮位が下がるのも日に二回のはずです。それが今は、潮が上がる時刻でも下がっている」
「波が低いと難破船が減って良い、ということはないのか」
ロスの疑問に、シードゥスは首を横に振った。
「確かにその点では利点かもしれません。しかしこの後、潮がどう動くか確証がなければ漁業に支障が出てくるでしょう。ただでさえ今ももう、不安要素が多くて遠洋に出るのは控えるよう発令されています。それにもし今の状態が続いたら海の生物にも悪影響があるかもしれません。海の生活は潮の満ち引き両方で成り立っているところがありますから」
「片方だけでは不十分になるって話?」
「不十分というか、不釣り合いというか。船も潮の加減を見ながら動かしますから、干潮だと下手したら漁港まで十分に水がなくなる。潮が満ちないと着岸にも不便なんです」
二人の会話の間、再び黙して書状を見ていたカエルムが顔を上げた。
「テハイザからの続報はこの書状が最後ということだが、これ以前に具体的にシレアに対する求めなどはあっただろうか」
「いえ、先の荒天での事故以来、船の出航規制のおかげで引き続き人災は防げています。その後はお読みになった通りで特に。それにテハイザ王陛下もあのように書いていらっしゃいますし……」
シードゥスはカエルムの手元にある羊皮紙に視線を移した。整然と並ぶ文字の中には、シレア国がどうか自分たちのために苦を負うこと無きよう、と繰り返し述べられていた。
「テハイザへの尽力をシレアに願うまでには至っていない、か」
流石の大国と言うべきか、テハイザ王の文面からは高い自尊心が伝わってくる。下手に何かしてはかえって非礼に当たるだろう。テハイザ王の体面を汚すことは出来ない。言葉にはしないが、カエルムの考えはロスにもシードゥスにもよく分かった。
それにそもそも、現状ではシレアの方で助力になれることがあるとは思えなかった。海に接していないシレアが海上の異事に明るいわけがない。しかもこちらの方も実害は出ていないが不可解なことが起こっている。テハイザと似たような状態なのだ。
「このことに関してアウロラは?」
「ええ、お話しはもちろんしてあります。しかし殿下がお戻りにならないことには……」
その時、扉の向こうで侍女たちが「姫様!」と驚き叫ぶ声がし、それらに混じって高い足音がどんどん執務室に近づいて来ると思うが早いが、部屋の入り口でどん、と激しい音が鳴り、甲高い声が室内に響き渡った。
「お兄様!!」
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