瓦解

瓦解(一)

 夏も終わる午後の木漏れ日が地面に重なった葉を照らし出し、大木のうろからちょうどいい具合に暖かになった光の輪の中に狐が飛び出した。狐は上を見上げて首を伸ばす。気持ちよさそうに閉じていた目はしかし、耳がぴんと立つのと同時にぱっと開いて周囲を窺う。

 シレア王都シューザリーンの郊外にある林の中で、この時間には馴染みのない空気である。石を踏みしだきながら何やら騒がしい音が近づいてくる。木の下で遊んでいた栗鼠や野兎も、背筋を一瞬伸ばしてからすぐに茂みの中へ逃げ隠れた。仲間と目を合わせ、耳をひくひく動かし、茂った葉の隙間から覗いていると、大きな車輪が目の前を横切る。

 林業を営む者の多いシューザリーンの林に棲む生き物たちなら一度は目にしたことのある車だ。だが今日はいつもと何かが違う。小動物たちはじっと身を潜めて来訪者の様子を窺った。常ならばこの大きなものが通る時に耳に入ってくるのは、ゆっくり地面を回る輪と人間の履き物が落ち葉や小石を踏む音ばかりであるのに、今日は話し声がする。それも一つは自分たちの縄張りではあまり聞かない澄んだ声だ。

 鳥たちは啼くのをやめて地上を見下ろし、動物たちは草枝の隙間から覗き見て、よくよく耳をそばだてた。

「ごめんなさい、お仕事の邪魔になってしまって」

 聞こえてくる声は高い。この山林では滅多に耳にしない。

「いいさ。こっちゃ案内なんぞついでだからな」

 一方、それに応じたのは低く太い声だった。こちらは小動物たちもよく知っている。たいてい顰めっ面をしているが、木々の間を歩くときにはしばしば明るい歌を口ずさむ声。たまに目の前に飛び出してしまったとんまな子栗鼠に果物を投げてくれる気のいい男性だ。

「しかも時間までずらしてもらうなんて悪かったわ。奥様とのご都合もあったでしょうに」

「確かにそりゃそうだなあ。でも聞いてやらにゃあいつにも怒られちまうよ。まったくあのお転婆娘がいっちょ前にお亡くなりになったお妃様やカエルム殿下と似たような口をきくんだから成長したもんだ」

 豪快に笑ってから、男性は地面に太枝を見つけて娘に注意を促す。娘が無事にそれを跨ぐのを確認してから、止まった車がまた動き出した。

「それよりお姫さんが歩きになっちまって悪いな」

「馬車は入れないのだし気にしてません。足は鍛えているし」

 すると、男性は「そういやぁそうだ」としたり顔で頷く。

「そりゃぁあんなしょっちゅう城から市場まで走ってりゃ足腰も鍛えられるだろうよ。まあそのおかげでこうして一緒に山歩きなんて珍しいこと出来てるんだからいいってもんかね」

 小気味の良い笑い声が、木立の間を通って響き渡った。


 ***


「え? 司祭領からの買い付けが少ない?」

 アウロラは思わず小さく叫んだ。その拍子に抱えた編み籠から切花がこぼれ落ちる。

「ああ。そりゃ全くないわけじゃないけど。ちっさい資材なら売れてるらしいな。でもでかいのはそこまででもない」

 今朝のことである。アウロラは常日頃たびたび行うように、城の上官の目を盗んで早朝に部屋を抜け出して城下町に繰り出していた。政務の一環として日中に視察に行くときよりも、一人で街を巡って人々と他愛のない話をする方がよほど街の様子がわかりやすいのだ。それに今日もまたあまりよく眠れず、布団の中でじっとしている方が頭がおかしくなりそうだった。

 雨が上がっていたのが幸いと、近日の行政報告から街中でも特に気になっていた区画をあらかた周り、最後に時計台前の市場で馴染みの材木屋の元に寄ってみた。司祭領精霊殿の修繕のことを思い出し、進捗を知ろうと何気なく質問しただけだった。それなのに、まさかと思う報告を聞いてしまったのだ。

 材木屋はアウロラの足元に屈んで、花を拾ってやりながら続ける。

「精霊殿ってのはでかい建物だろ。結構な修繕をするなら木材も大小それなりに要るはずじゃないのかい」

 こんもり盛られた果物や花束の上に地に落ちた一輪を重ねる。だがアウロラは珍しく礼を言うのも忘れて虚空を見つめたまま考えこんだ。

「聞いている限りではその通りよ。でも精霊殿の修理に使えるのはシューザリエ川の流れる森林にあるものだけのはずだし……」

 国を北から南に縦断するシューザリエ川はシューザリーン郊外の山林から流れている。その川が山に入る付近には神域と呼ばれる一帯があった。神器を納めた櫃を型作る白木が生まれた聖域だ。

 伝わるところによれば、シューザリーンの山林に生息する白木は聖域に近づくほど精霊の力を強く宿し、聖域の内部に育つごく僅かなものだけが神木たり得るまでの加護を受けると言う。多くの伝説がそうであるように真偽は不明だ。神木が力を有するのは確かであるが、それについて全てがはっきりと分かっているわけでもない。ただし、精霊の領域として聖域は原則不可侵である。神器の櫃があるように歴史上全く例がないわけではないが、特別許可が降りない限り、神木の伐採も固く禁じられている。

「司祭領が買っていっているのは一応、規定の白木なの?」

「それは一応な。精霊殿ってのは神木と同じ種類の白木でなきゃいかんだろ。さすがにこっちだって売れって言われたって他のものは売れんよ」

 精霊殿の築材は神木そのものではない。ただし、神木と同種の白木を使うという決まりが古来あった。精霊の力を強く宿すとわけではないが、祀る対象と繋がりの深い築材を用いて国を守ってくれる精霊の安息所となるように願ったとされている。

「神木と同じ種類の白木っつっても神域に近い辺りから切り出すやつは別格だろ。売れたらよくわかるもんだ。まだ修繕が始まってなくて、本格的な仕入れもこれからってこたぁないのか。段々と仕入れるとかもあるだろ」

「確かに序盤かもしれないけれど、さすがに遅すぎるわ。領政庁の管轄だから王城にそこまで詳しいことが逐一報告されているわけじゃないけれど、普通に考えれば作業開始前には木材が向こうに運ばれているはずでしょう。それに即位式までそう日もないのよ」

 即位式、ひいてはその前に行われる神器の浄めの儀式において精霊殿が工事中などという中途半端な状況にあっては、あまりにも精霊に対する礼に欠ける。このことは祭官や巫女が肝に銘じ、王都よりも司祭領の方が厳しく定めているはずである。

 頭の中でこれまでに得られている情報を大急ぎで整理する。もし精霊殿で要される修繕が本当に軽微なら構わないが、先に司祭長が城に来た時の話し振りではそんなふうには聞こえなかった。現地の様子なら実際に赴いている兄にも何か分かるはずだ。カエルムが帰都した時に精霊殿の異常を知ったとして、そこから行動したのでは遅い。

 自分がいま、やらなければいけないことは何か。

「木を切る場所がどこかって、他の材木屋さんの切ったところも分かるもの?」

「ああ、お互い受け持ってる場所は決まっているからな。それに大方のところは街で顔見りゃ話すし、詳しく聞いてなくても歩いてみりゃ大体ここらへん切ったなって分かってるよ」

「神域近くの白木は規定数があるわよね。こちらでも伐採量と場所の報告は受けているけれど、林のなかの詳しい場所って、他の業者さんのも分かるかしら」

 特別な白木に関しては王城の管理が厳しい。特定の材木屋による売上の独占を禁じるためだ。ただ、文字や数字による報告を知っていることは現場を知っているのとは意味が違う。

「これでも何年も林に入ってるから任せろってもんだ。まだまだ若いやつにゃ負けねぇよ。切り方だってしょっちゅう教えてやってるさ」

 材木屋は鼻高々と言ってのける。たまたま側を通った年若の材木屋が主人がいるのを見つけてぎょっとすると、途端にくるりと向きを変えた。材木屋の主人はそれには気づかず、「で、それがどうした」とアウロラの思案顔を覗き込む。

 アウロラは戻してもらった籠の花を理由もなく見つめた。

 実のところ、アウロラはテハイザに関してもあまり喜べない情報をシードゥスから聞いていた。ただカエルムがいない以上は独断を下すこともできず、保留状態にするしかない。そうだとすると、これから城に帰って自分ができる行動の選択肢はいくつあるか。

 数秒か、もしかしたら数分か、アウロラは材木屋が辛抱強く見守っているのにも気づかず黙ったままだった。そして流石に材木屋がもう一度問いかけようとした時、ようやく顔を上げ、引き結んでいた唇を開く。

「あの、もし差し支えなかったら今日の午後、ひとつお願いをしてもいいかしら」

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