齟齬(五)
「殿下」
領政庁の前で待っていたロスは、主人の姿を認めて寄りかかっていた壁から背を離した。
「ロス、待たせて悪い。特別変わったことは?」
「いえ、こちらは領政庁の事務的な要件に応じていただけです」
カエルムが領政庁に備わる厩舎の方へ足を向けたのにロスも従う。すぐに王都へ帰るということだ。領政庁の裏へまわり、厩番に声をかけて愛馬の元へと急ぐ。
「こちらは特に大事ないならいいが。霊廟殿の人出が予想以上に少ない。巫女もフィオーラ以外に見なかった」
「巫女も? シルヴァ様ならこちらに来ましたけれど」
「彼女が?」
馬具を整えていた手を止めて、カエルムは初めてロスの方へ振り返った。
「何か、言っていたか」
珍しく主人が眉を顰めた。カエルムが驚きや懸念を即座に顔に出すことは珍しい。その反応につられて、ロスは口を開きかけた。しかしすぐに目を逸らし、自分も馬の準備に取り掛かる。
「いえ、特には。単に世間話程度です」
実のところは世間話どころか軽々しく捨ておけない話題である。先のやりとりを思い返すとまだ苛つきがむせかえった。十中八九、カエルムは気にするなと言うだろうが、ロス自身が口にしたくないというのが本音だ。いまの状況を好転させる話でもなければ、緊急事態を知らせる情報もない。
横で「そうか」と言う呟きを聴きながら、ロスは黙って手を動かし続けた。
「何も話して来なかったのなら……差し当たりまだ大きな問題はないだろう。何かおかしなことがあったとしても、フィオーラあたりが……」
そう言いながらも声音は思案を巡らせ続けている時のものである。そのことがロスには気にかかったが、カエルムの方は「まずは早くシューザリーンに」とすぐに話を切り替えた。
「戻ってあちらの現状を確認しよう。司祭領には祭官以外の目も置いているし」
確かにいくら司祭領とはいえ万事を王都に断りなく行える権限はない。領政庁前責任者であるロスの伯父、プラエフェット卿の力も残っている。叔父は中心地に建つ庁の常勤を外れ領内別部署に異動したとはいえ、いまだに庁の人間から日々頼られていると、カエルムを待つ間にロスも現職者から聞いていた。
それとも顔見知りの巫女がつてになるという意味だろうか。しかしアウロラとフィオーラがよく話していたのはロスも知っているが、カエルムとそこまで親しかっただろうかと首を傾げる。一方のカエルムはロスの疑問には気付かぬようで、馬と向き合いながらカエルムは続けた。
「こちらは通常通りと言われた以上は長くいても意味がない。それに多少、私も余裕がなくてな」
言われてみれば、確かにカエルムの顔からは先ほどよりさらに血の気が引いている。
「何かしたんですか」
「いや……無益な言葉しか並べないような輩の相手をまともにしても、気力の無駄遣いだと分かっているのにな」
私も鍛え方が足りない、と自嘲気味に笑い、カエルムは手綱を軽く引いた。馬具の整った馬が前へ足を踏み出す。恐らく司祭長かイヌダティオが余計なことでも言ったのだろう。その時のカエルムの応対を見ていたら自分もさぞかし胸がすく思いがしただろうとロスは若干残念に思ったが、わざわざ本人に不快なことを説明させる必要もない。カエルムにそれ以上聞くことはせず、ロスも主人に倣って自分の馬を厩舎から外に連れ出した。
***
精霊殿の霊廟に続く廊である。真白の床の上を滑る。白地に紅葉と蘇芳、金が編まれた縁飾りを持つ裾が、霊廟の入り口近くで止まった。
「来たのか」
ちょうど霊廟から出て来た男が、廊に踏み入れるなり口を開いた。
「巫女が霊廟に来るのは珍しくもないでしょ」
「巫女とはいえ、祭祀がある時以外にそうそうここに来る用事もないはずでは?」
「——次期国王陛下がいらしたのではなくて?」
質問に答えるのに代わって、巫女は逆に問いを返す。
「耳が早いな。それとも、会ったか。次期統治者の一人に」
イヌダティオは相手の視線を受け止めるでもなく、言いながら擦れ違う。それに振り返りもせず、シルヴァは霊廟の奥を見据えたまま姿勢を崩さない。
数秒の間、人気のない廊を沈黙が支配した。
「何か、耳寄りな話があって?」
「無いさ。あれが司祭長と話をするといつもうまいこと逃げられるが、今回も似たようなものだな」
「それと、わたくしにこんなものを頼んだのは関係があるのかしら?」
シルヴァの袖口から、白く細い指と共に黄白色の花びらが顔を出す。そこでイヌダティオは初めて振り返ると、差し出された花を受け取った。そして月と同じ色の花びらを懐へ隠しながら、すぐに踵を返す。
「月蜜花は一つ処置を違えば毒化する難しい薬草よ。そんな花を、一体どうするつもり?」
何かを知りながらも質問の形を取った巫女の言葉に、イヌダティオは含み笑いをする。
「現状に嫌気の差している疲れた官吏の薬の使い道など、聞くまでもないだろう?」
「……それでまた、貴方はもう行くわけ?」
踏み出しかけたイヌダティオの足が止まる。互いに向き合うこともせず、視線が動くこともない。
「別にいまは、ここに特別の用事も無いさ」
静寂の中で止まっていた空気を、靴裏が床を打つ規則的な音が震わす。段々と小さくなる響きを背に受けたまま、シルヴァは黙して佇んでいた。
イヌダティオの足音が完全に聞こえなくなってほどなく、中庭側の回廊の柱から、若い巫女が姿を現す。肩口で切り揃えた髪を揺らし、腰を折った。
「つい先頃、王子殿下と従者殿が市門をお出になりました」
「そう」
年若の巫女の報告を聞いても、シルヴァは眉すら動かさない。
「それで——貴女が講じている策は、一体何なのです?」
「さあ……これは策と言えるかしら」
真昼の眩しい光の中で翡翠の瞳が見据える先にあるのは、霊廟に広がる薄暗がり。
「どう転じるのかしらね」
頭を下げたままで薄く開かれた赤紫の瞳が、鋭い光を宿した。
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