齟齬(四)
歩を緩めずに進むイヌダティオに続いて、カエルムは薄暗がりの室内に踏み込んだ。
石造りの廊下から一変、靴音が鈍くなる。足元が木板に変わったのだ。踏みしめた靴の裏に感じる抵抗は石廊よりもずっと弱く、下が空洞だと分かる。床板は部屋の奥へ向かって伸びているが、ややもしないところでその白が途切れ、暗色が広がっていた。ところどころで灯火と同じ黄色がたゆたう。水面である。ただし、水の出所はどこにも見えない。
ちょうどシレア王都シューザリーンの城と同じく、石壁に囲まれた部屋は一面、水で満たされていた。ただ一つ異なるのは、入口とは逆の壁に目を見張るほど白い木の扉が嵌まっており、その前に胸の位置ほどの高さまである真鍮の細い柄を持った台が立っていることくらいか。
——ここは、無事か……
水の上に静かに波が立つ。その波が足元の板まで寄せて消えるのを見守り、カエルムは小さく安堵の息を吐いた。
「これは殿下。司祭領に突然のお越しとは、いかが致しました」
背後からした声に、カエルムは振り返りざまに礼を取る。
「司祭長、この度は急な訪問に応じていただき感謝申し上げます」
顔を上げると、司祭長に続いて後ろから予想しなかった人物が現れた。
「フィオーラまで。直にお話しするのは随分お久しぶりでは」
「ご無沙汰しております、殿下。わたしもお会いできまして光栄です。アウロラ様はお元気ですか?」
裾を床に滑らせながら室内に入ってきたのはまだ若い巫女だった。薄明の空の際を思わせる赤紫がかった瞳が印象的で、挨拶を述べる笑顔からは一目で明るい気性が分かる。シルヴァと同等の位を表す巫女の衣装を着ているが、こちらは美人というより愛らしいという言葉の似合う類の器量の良い娘である。
「変わらずにおります。私が貴女にお会いしたとなるとアウロラも羨ましがると思いますよ」
フィオーラはいまのスピカくらいの年齢から見習いとして精霊殿に入った良家の令嬢で、能力も高く他よりも早く一人前の巫女に名を連ねた才女である。実家がプラエフェットと並び王族の信が厚かったこともあり、精霊殿に入る前からカエルムやアウロラとは馴染みがあった。性格が似ているのか、特にアウロラとは仲が良く、式典などで顔を合わせると話に花を咲かせている。
「妹も次に貴女にお会いできるのを心待ちにしていますので、その際には話し相手になってやってください——そういえばフィオーラには先頃、ご昇格のお祝いを書いたきりでしたね。おめでとうございます」
「有難う存じます。まだまだシルヴァ様には及ばないのですけれども、ゆくゆくは代わりも果たせるようにと日々、勉強させて頂いております」
厳しいんですけれどね、とフィオーラは声をひそめ、冗談めかして付け加えた。すると横でやり取りを眺めていた司祭長が仕草で黙るよう示す。
「巫女が一人もご挨拶をしないのは流石に殿下に対して失礼に当たるということでして。彼女が他の代表を、と」
大人しくなったフィオーラは、口を閉じた代わりにカエルムへ満面の笑みを向けた。
「それは過分な心配りを恐れ入ります。巫女の仕事はかなり多いでしょうに」
「いえいえ。ですが仰る通りなのも事実ですので——殿下もこう仰ってくださっているから、お前はもう下がりなさい。お見送りもこちらでするから」
本当に臨席しなくて良いのかと確認するフィオーラだったが、司祭長は退出するよう手の甲を廊下の方へ向けて振った。さっさと行けと急かすようにも見えたが、巫女は先と変わらぬ明るさで辞を述べ、司祭長の態度など全く気にせぬ風に優雅に礼を取った。肩口で切り揃えた真っ直ぐな黒髪がさらりと揺れる。
だが司祭長は至極丁寧なフィオーラの所作を「早くなさい」と今度は言葉に出して退出させると、巫女が廊下を去っていったのを確かめてから、改めてカエルムに向き直ってやれやれと首を振る。
「どうも若い者は時間ばかりかかってすみません」
「全くそのようには思っておりませんよ。むしろ急がせて気の毒でしたが——ところで、霊廟へご案内賜りますまでに随分とありましたが、何か問題でも生じたのでしょうか」
イヌダティオの視線を感じつつも、カエルムは不信を匂わせるでもなくただ単純な疑問として述べる。
「まさかそのような。いえ、なに。身格好を整えておりました。殿下がいらっしゃるというのに適当な格好では失礼に当たります」
「どうぞそのようなお気遣いは不要です。それより、神器はどちらに?」
「ああ、こちらでございますよ」
司祭長は横壁に沿って水面を丸く囲む木板を奥へと進む。水面を挟んでカエルムと真向かいになる位置まで進むと、台の上にかかった絹を指し示した。
「この部屋で清めの儀を待っております。誰も触れることなく、この水の上にて。王城にもあるからご存じでしょう、この水の神秘は」
「ええ。一定不変の水面であり、水脈は辿れないが、シューザリエ川の支流が地下を通り出ずると伝わる」
「左様です。霊廟が王城と並ぶ神秘を持つこのことは、司祭領が王都と並ぶ要地である証拠の一つですよ、殿下」
イヌダティオが誇らしげに述べるが、カエルムは一瞥して軽く頷くのみである。
「神器の浄めの儀は巫女の立ち会いのもと、満月の夜に行われるのでしたね。話でしか聞いておりませんが——次の満月ですか」
「さすがカエルム殿下。よくお勉強なさっている」
「当然のことに対して褒め言葉を頂く理由はありません——」
皮相な賞賛を送った相手に視線もやらず、カエルムは司祭長の方を向いたままである。しばらく司祭長は黙したままだったが、無言の問いは有無を言わさず返事を引きずり出す。
「仰る通りです。満月には妖精の力も強まると言われておりますから、その日に」
蘇芳の鋭い瞳から視線を逸らすと、台座にかかる絹の上に手をかざし、その下のものを透かし見るように目を細める。
「祭器、神器と呼ばれても、普段は何のことはないただの楽器に見えます。時計台と同じ宝玉を有するとはいえ、人の力無くして鳴る鐘楼とは違いひとりでに音をたてるわけでもありません。しかし、だからこそこの神器はまだ何があるか分からないと思いませんか。そんな未知のところ多いものが司祭領に来るのは即位式の前だけでしょう」
司祭長の指が絹に触れるか触れないかのところで止まり、空を掬う。
「だからこそ興味深いと思いませんか。この霊廟で、神秘なる水に囲まれて精霊の恩寵を受け続けた祭器がどうなるかを。天の力が増す満月の光の恩恵を得て、祭器がどう変わるのか」
「その時まで神器に手を加えることはないと古よりの伝統を学びましたが間違いありませんね?」
鋭い声音が室内の空気を切った。
「現状、二つの神器はこの部屋に安置され、特に異常なところもないと」
恍惚とした司祭長の語りを断ち、否応なく夢想から現実に引き戻す——返答の拒否権を与えぬ威圧に、今度は司祭長の返事も早かった。
「無論ですとも」
石壁が二人の声を跳ね返し、残響が消えるまで数秒。発語する者がいない中、カエルムは台座の向こうにある白木の扉に一瞥してから常通りの朗らかな笑みに戻った。
「それでは、改めてよろしくお願い致します。万事が精霊の意思の通りに行われますよう願っております」
「もうお帰りになられるのですか」
「ええ。古い霊廟の修繕の件もあり気にかかりましたが、何も問題がないのならば、お邪魔のようですし長居する必要もありません。見送りは結構です。お時間を割いていただき、業務を妨げましたことをお詫び申し上げます」
「それだけの確認であれば、王都と城を守る陛下になるという方がわざわざ時間を潰してお出でになることもないでしょうに」
一礼して踵を返そうとしたのを、イヌダティオの冷笑が止めた。
「王は都と城だけを守るのではなく、国全体の責を担うのが務めです。この目で見ないと分からないこともあると言えば低脳と嗤う者もいるかもしれませんが、自分は精霊ではありませんので」
美しい顔に非の打ちどころない微笑が浮かぶが、鮮烈な蘇芳の双眸には室内に残る二人をその場に凍りつかせるだけの力があった。
呆然と動きを失った両者に改めて丁寧に辞を述べ、カエルムは精霊殿の出口の方へ足早に廊下を去っていった。
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