齟齬

齟齬(一)

 司祭領の主都はシレア王都シューザリーンから西、王都とはかなりの距離がある。広大なテハイザ領地との西側の国境にも近い辺境にありながら、王都にひけを取らない人口を有する栄えた都市である。街のほぼ中心には行政を司る役所、領政庁が立ち、領政庁からほど近くに精霊を祀る霊廟を備えた精霊殿が位置する。王都と完全に無関係とはいかないながらも、自治的な部分の多い司祭領では司祭長のいる精霊殿を優位に置き、領外関係の件は主に領政庁が担っている。

 従って精霊殿に直行するのは礼に悖る。カエルムたちは市内に入ってすぐに領政庁へ向かい、入り口に馬を止めた。

「殿下、大丈夫ですか?」

 精霊殿への取り次ぎを頼んだ役人が去った途端に愛馬にもたれかかり、そのまま動かず目を閉じている主人に、ロスはたまらず声を掛けた。シューザリーンを発って最初に投宿した際、カエルムは明け方に突然身を起こしたのである。どうしたかと尋ねたらまた鐘楼の音が聞こえたと言うが、ロスの耳には届いていなかった。その後、夜が完全に明けてからロスが再び目を覚ました時、カエルムは既に身支度を済ませ、直近の領政庁の行政記録を捲っていたのである。ろくに寝ていないはずだ。

 その後、ロスは道すがら何度も休むように言い、実際無理にでも休息を入れたのだが、いまの状況を見る限り休ませた効果があったかどうか疑わしい。

 毛並みの良い馬と対になっている様は、役所前を通り過ぎる娘たちが振り返っては互いに囁き交わすほど、側から見れば絵になる佇まいなのだろう。だが、間近で見るとカエルムの顔色は常より大分悪い。

「殿下、やはり中で待たせてもらったらどうです」

 黙ったままでいるので再び問うと、カエルムの瞼が薄く開いた。

「いや、いい。司祭領の役人はシューザリーンの者たちより位の上下に神経質だからな。私が中に入ると過剰に不要な気を遣う」

「確かにここはそういう因習がありますけれど、それを別にしても王族貴方相手なら普通でしょう」

「大した生き方もしていないのに偉ぶるのは嫌いなんだ」

「だからって普段軽々と市井に繰り出されても困るんですけどね」

 いつもなら打てば返るように冗談めいた返事がありそうだが、カエルムは「そう言うなよ」と短く答えるなり、再び眼を閉じてしまった。ロスも常ならばここで庶民に馴染み過ぎる王族兄妹の素行にさらに小言を続けたくなるものの、今回はそうもいかなかった。カエルムがここまで疲労を露わにするのは珍しい。そもそも厩に馬を預けず残しておくあたり、寄りかかるものが欲しかったとしか思えない。単なる寝不足ではないと知れる。

「すみません、せめて叔父がいれば良かったんですが。まさかこんな時に持病が悪化するとは」

「仕方ないさ。それより大事ないといいが。用が済んだら、ロスだけプラエフェット卿のところに寄ってきても構わない。私はシューザリーンに急がねばならないが」

「殿下を一人で帰らせたとか言ったら殺されますよ。叔母もいますから平気です。自分も直帰します」

「それは悪いな……だが正直助かる」

 ロスが冗談を混じえて返すと、朝以来初めてカエルムの表情にも微笑が浮かぶ。それを見てやや安堵したものの、ほんの一瞬ののちにカエルムが瞼を開いた。瞳が警戒の色を宿している。道の先へ視線をやれば、司祭領官吏の徽章を胸に留めた人物が精霊殿の方面から歩いて来ていた。背丈はロスより若干低いくらいか。羽織った長衣が四肢を隠しているため体格はよく解らないが、一見したところそこまで痩せてもいない。これといった特徴の無い男である。

 どこか最も印象深いところを挙げろと言われたら、頭に巻きつけた布だろう。そのせいで顔立ちもやや掴みがたい。ただ額の布が肌に影を作っているせいか、眼光の鋭さが際立っている。

「まさか外でお待ちいただくとは。恐れ入ります、カエルム殿下に、プラエフェット殿」

 男は二人と話が出来る近さまで来ると慇懃に述べ、大仰に頭を下げた。

「貴方は……イヌダティオ卿。こちらも精霊殿と領政庁の使官長自らがいらっしゃるとは思いませんでした」

「おや、小生の名前まで覚えてくださっているとは恐れ入ります。司祭領官吏は王城の皆様から縁遠いというのに」

 わざとらしくへりくだった態度にカエルムは眉を顰めるでも語調を変えるでもなく、ただ淡々と応対する。

「国を統べる責ある者として重要な職務にあたる方々のお名前を忘却するのは許されません。シレアにとって最重要の精霊殿と領政を繋ぐ役職ならばなおのこと」

「これはこれは、まだこんなにお若いのにご立派だ。殿下にしてみれば田舎出の私など記憶にも残らないのではと」

 イヌダティオが腕を広げ芝居がかって感心してみせるので、ロスは密かに舌打ちした。職務上、何度か顔を合わせているのに白々しいにもほどがある。大体、カエルムにしろアウロラにしろ、一度会った役人の顔と名前を忘れることは無い。さすがに地方警備隊の末端組織となれば話は別だが、王都と並ぶ主要都市の司祭領の官吏となれば覚えていて当然である。

「故郷は西方でしたね。テハイザとの国境でいらしたと記憶しています。司祭領はかなり生活が違うと思いますが、その後何か不都合などは」

「いえいえ、何も問題などありません。現職になる前からおりますし、故郷から司祭領はさほど遠くありませんしね。気にかけてくださるとはありがたいことだ」

 上っ面だけのへつらいにロスはつい「無駄口を止めてさっさとしろ」と口を出しそうになったが、すんでのところで飲み込んだ。大体、この男が就任するという時にも性格からしてロスには気に食わなかったのだ。人選の間際になって、王城の面々から最も有能だと思われていた領政庁の官吏が祭官に列していなければ——職務柄、精霊殿にも詳しい領政庁の官吏が祭官として精霊殿に属するのはよくあることである——またしても心中で悪態をつきながら、ロスはこの男が職位についた時のことを思い返した。

 王城の中にはこの男の性格に難色を示した者も少なくなかったが、カエルムもアウロラも自分たちが好む人柄かということだけで選り好みはしない。確かに実務における能力は現職の官吏の中では高い方だった。また豪胆者という評も聞こえ、それが一定の性質の者たちを惹きつけるのも事実らしく、若者を中心に一部からそれなりに厚い支持もある。何より、司祭領現地の最高位にある司祭長が推挙した。いくら国の中で王都の方が優位とはいっても、自治権の強い司祭領の問題だ。王城の人間が現地の人間以上にそう大きく主張できる場ではない。そうした経緯で登用に至ったと記憶している。

 ただロスの理解では、カエルムもアウロラも手放しで信頼していた様子はなかった。伯父のプラエフェットが任にいた時よりも司祭領から王都に送られてくる書類等の確認に余念はなく、一歩踏み外さないかと懸念していたのは城の者たちも承知していたことだ。

「それはそうと、早速ですが精霊殿の方へ伺いたい。今日は司祭長と巫女のシルヴァはそちらに?」

「司祭長は精霊殿でお待ちです。巫女殿は残念ながら隣席致しませんが——取り次ぎが必要なら承りますが?」

 貼り付けたような笑顔を前にして、カエルムは眼に鋭利な光を宿したままである。ただ口調だけは普段通りに、やんわりと返す。

「いえ、それなら構いません。特に彼女から用がないならこちらも不要です——ロス、悪いがすぐ終えて戻る」

 王族と祭官、巫女を除き、精霊殿は一般市民が軽々と入れる場所ではない。いくら王子側近とはいえ、ロスも特別な事情が無ければこの通則に従わなければならなかった。

「分かりました。こちらでお待ちします。イヌダティオ殿、こちらから訪問しておいて何かと思われるかもしれませんが、殿下も可及的速やかに王都にお戻りになりますことをご承知おき下さい」

 イヌダティオが了承を示し、カエルムを促して去ろうとする背に、ロスは「それから」と一言付け足した。

「精霊殿にいらっしゃるのはシレア国第一王子、次期王位継承者のカエルム殿下です——そのことを、くれぐれもお忘れなきよう」

 顔半分だけ振り返ったイヌダティオは、何も言わずに前に向き直った。対してカエルムは眉尻をやや下げながらも柔らかに笑って手を振る。余計なことを、という声が聞こえそうだが、そんなのはロスの知ったことではない。

 僅かではあれ溜飲の下がったロスは、次第に遠ざかっていく二つの姿を見送った。精霊殿に異変がなければそこまで時間がかかることは無いだろう。帰途に要する物でも調達しておくかと考えを巡らし、とりあえずは馬を厩へ預けなければと身を返した時である。

「ロス」

 よく澄んだ声が突然自分の名を呼んだ。

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