荒海(二)

 テハイザ王は首肯すると、天球儀から手を離して腕を組んだ。深い夜の海と同じ色の眼は、まだ球面上を見据えたままである。

「夜、この部屋に着いた瞬間には消えていたと思う。その時にはまだ小雨でしかなかった。しかし急に雨が強くなったと思ったら落雷があった」

 シードゥスの記憶にも残っているあの雷鳴か。自分自身の思考をまとめるためなのか、テハイザ王は言葉を一つ一つ切りながら続ける。

「確信はできないが……もし本当に部屋に来る前には消えていたのなら、明滅を始めたのは落雷とほぼ同時だろう。しかもその時の光はこんなものではない。この部屋全体を照らし出すほど——正直に言えば目が開けていられなかった」

 テハイザ王は天球儀を睨みつけ、唇を噛んだ。

「船が転覆したと夜番から知らせが入ったのも間もなくだった。そうだとすると、天候の急変とこの光との間に何の関わりもないとは言い切れない」

 語る間も、天球儀の上の太陽は色を変え強さを変えて光り続けていた。紅い色が天球儀の面に映ると、球面の漆黒と混ざって濁る——血の色のように。

「テハイザに何かが起こる前兆でないといいのだが、この先しばらく天球儀これの観察は続ける。そしてテハイザの天球儀に異例の事態があるとなると、やはり」

「シレアの時計台ですね」

 テハイザ王だけではなく、シードゥスも先ほどから気にかかっていたことだ。シレアの時計台が止まった時、天球儀もその動きを止めた。二国にそれぞれ古くから存在する人智を超えた至宝は、ともすると人間の学理では説明できない仕組みで連動しているのかもしれない。真相は確かめようもないが、あり得ないと一笑することも出来ない。

 シードゥスは天球儀から顔を上げ、真正面からテハイザ王に向き合った。

「陛下、シレアに帰ります」

 テハイザ王の顔に驚きは浮かばなかった。逆に、眉を顰めていた険しい表情がわずかばかり綻ぶ。

「やはり、そう言うのではないかと思っていたよ。君なら」

 安堵の色を瞳に湛えて、王は笑みを作る。

「せっかくの休暇だし、こちらから命じるのは気が引けたんだけれどね。君から言い出してもらえると私の方も気が楽だ。伝書鳩でシューザリーンと連絡し合うことは可能だけれど、実際にシレアの国内にテハイザとシレアを繋ぐ者がいてくれた方が良いと思う」

 万が一のことだとは思うが、シレアの方もテハイザに助力を乞わねばならないとなった時、テハイザ国内の状況に通じた者がいるのといないのとでは随分と勝手が変わってくる。テハイザからの報をシレアに伝える際にも、口頭でテハイザ国内の詳細を説明できる人間がいた方が効率が良い。

「すぐに出立の準備を致します」

「そうしてくれると助かる。ありがとう。こちらも親書を用意しておくから、準備ができたら城を出る前にもう一度、ここに来てくれるかな。私は天球儀を見ているから」

「陛下、その天球儀なのですが」

 ずっと黙って二人の会話を聞いていたクルックスが初めて口を挟んだ。

「天球儀の強い発光が起きた時間と落雷がおよそ同時と仰いましたね。時刻はお分かりになりますか」

 テハイザにおいては天球儀が国の時刻の基準になっている。一日および一年の天体の動きを観測した記録の蓄積から時間を特定する計算式が編み出され、それに従って天球儀の天体の位置をもとに時刻を読む。正確性を期すため、時間と天体運動の照合も定期的に行われた。そしてこの天球儀を基準に水時計が設定され、城の各部署および城外各地で用いられている。

 天球儀の太陽の軌道に指を滑らせ、その動きをある一点で止めて、テハイザ王は答えた。

「定かではないが……恐らく夜半二時過ぎ、十五分にはなっていなかったと思う」

 わかりました、と短く答え、クルックスは一歩引いて礼を取る。それに倣ってシードゥスも退出の挨拶を述べ、二人揃って部屋を後にした。

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