荒波

荒海(一)

 港の方から鴎の鳴き交わす賑やかな声が聞こえる。窓の留め具を外すと風が勢いよく顔に吹きつけ、磯の香りを孕んだ空気が鼻腔に入り込んだ。いつもより湿気が多いか。そう思ったら開いた窓の下でぴしゃんと音がし、木枠の縁に溜まった水滴が石壁に染みを作った。

 そういえば夜遅くに雨が降り始めていたか——シードゥスは朧げな記憶を辿ってみる——昨晩は話の種が尽きるまで語り合ってそのまま寝てしまったのだった。クルックスが遠方から持ち帰ってきた酒の力が数ヶ月ぶりに幼馴染と会った興奮で増したのか、常より酔いが残っている気がする。ただ、意識が消える前に雷の音も聞いたはずだ。この強風のせいで雲は雨となって消える前に海の方へ流されたのだろう。陸から離れたところの空は、城のすぐ上空よりもさらに濃い鈍色で塗りこめられている。

 室内にクルックスの姿は見えない。シードゥスが眠りについた後で自室に戻ったのか。ご丁寧に酒の瓶も杯も卓の上から無くなっていた。部屋から出るときに調理場へ返しに行ってくれたに違いない。

 滅多に取らなかった休暇で無意識に緊張が緩んでいたのかと、シードゥスは自分のことながら驚きを覚えた。同時に、友人の気配りとは正反対な腑抜けた行いが恥ずかしくなる。いつまでも寝ぼけてはいられない。目覚ましにと、寝台横に置いた水差しを取り上げた。

 冷水がやや焼けた喉を刺激し、体を心地良く冷やしていく。もう一杯、と再度水差しを傾けた。

 ちょうどその時だ。背後で扉が勢いよく開く音がしたかと思うと、息せき切った声が背中に飛んでくる。

「シードゥス! 何ぼやっとしてる、早く支度しろ!」

 部屋に踏み込むや否や、クルックスが洗顔用の布を投げつけた。途端にシードゥスの眠気も吹っ飛び、背筋が伸びる。

「何があった」

「僕もまだ聞いてない。とにかく急げ——」

 普段感情の起伏が少ないこの友人が血相を変えるとは只事ではない。そして実際、クルックスの返答は事の重大さを伝えるのに十分だった。

「陛下がお呼びだ」


 ***


 謁見の間に入ると、天球儀を見ていたテハイザ王が振り返り、シードゥスとクルックスを無言で迎えた。王の背後では硝子の向こうに灰色の海が広がり、昨日は穏やかだった海面に飛沫が高く上がっていた。

 黙したまま動かぬ王と相対して、シードゥスもクルックスもただ言葉を待った。荒々しく砕ける波の音が静まり返った室内まで届く。

 王はもう一度、天球儀の方に短く視線をやる。そして改めて二人の顔を順に見ると、何か考え込むようにゆっくりと口を開いた。

「昨晩、夜釣りの船が転覆した」

「それは……」

「船員は!?」

 シードゥスの叫びがクルックスの声と重なる。テハイザの船乗りの能力は高い。さほどのことで船の舵を取られるというのはまずあり得ないし、天候に少しでも危うい兆しがあればそもそも夜釣りには出ない。常に死と隣り合わせの海の生業を営む民だからこそ、準備も警戒も並大抵のものではない。船が海に出て遭難者が出るなどごく稀にあるかないかのことである。

 しかしテハイザ王はすぐに片手を軽く振った。人災はないということである。シードゥスが胸を撫で下ろすと、横でクルックスも安堵の息をついたのが分かった。ただ、テハイザ王は暗い面持ちのまま続ける。

「人の被害は出ていない。もう一つ陸に向かっていた船が無事だったからね。二船とも入り江の中だったのが幸いしたよ」

 なるほど。陸に近くなるほど入り江の弓形に従って航行する船同士の距離も近くなる。救助の手もすぐに出たのだろう。それにテハイザの船乗りは、どんなに荒天で視界が悪くとも陸を見失うことはない。

「船さえ無事なら、からね——シードゥス。君を呼んだのはまた別の話なんだ」

 テハイザ王は一歩退くと、天球儀の面に手の平を当てた。

「昨晩、なぜか目が覚めて嫌な胸騒ぎがして、この部屋ここに来た。そうしたら、妙で」

 手招きをされ、シードゥスとクルックスは天球儀に近付いた。王が球の上に滑らせる手の動きを追う。そして漆黒に銀の点が散りばめられた球の表面に、明らかに周囲とは不釣り合いな円をみとめた。

 それは、立ち昇る炎を思わせる紅蓮の円。ただしずっと同じ色に留まるのではなく、黄昏に似た橙や白日の輝きへ、刻一刻と色を変えていく。

「これは……」

 明滅している円は一本の軌道上にあり、現在は天頂よりも低いところに位置している。方角は東寄り——太陽だ。

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