警鐘(三)
夜が明け、城下に並ぶ家々の窓が一つ、また一つと開き始める。パン屋の煙突からは煙が立ち昇り、宿屋は厩舎の様子を見に外へ出る。郵便配達の小僧が道に走り出し、朝市に向かう商人が荷車に荷を積んでいく。
東の山頂から顔を出した朝日に照らされ、時計台の宝玉が輝く。長い針が一つ進み、鐘楼の組鐘が鳴り渡った。
城下の中心から城へと届いた鐘の音に、夜番の門衛が顔を上げる。欠伸をしながら一つ大きく伸びをすると、城から出て来た交替の兵と挨拶を交わして場を譲った。頭上を仰げば、時報を合図に塔から鳩たちが飛び出し、羽ばたきの音が鐘の音と混じり合う。
何ら特異なところはない。毎日見る朝の風景である。
時計台からの朝の知らせとともに、城の一日が始まる。
下男、侍従が掃除や煮炊きに取り掛かり、諸官は身支度を整え、書類を揃え、朝食前の会議に臨むため会議室へと足を急がせた。
さて、このシレア城で常に最も早く会議室に到着するのは大臣である。今朝も早々に目を覚まし、昨晩用意した会議書類をもう一度確認すると、身なりを正して自室を出た。城の主人が一日を始めるにあたって最善の準備をするのが臣下の務めである。会議室に清らかな空気を入れるのもその一つと心得る彼は、窓越しに爽やかな晴天を仰いで意気揚々と廊下を進んだ。
しかし、今朝は会議室の扉の鍵がもう外れている。夜に担当者が閉め忘れたのだろうか。訝しがりながら取手を回し開けると、城の主人二人が揃って最奥の定席に座って彼を出迎えた。
「昨日午後の報告を各省から聞く前に、私とアウロラから皆に聞きたいことがある」
会議に参加する各部署の面々が揃うのを待って、カエルムが切り出した。普段なら会議の進行を担う大臣が開会の辞と主要議題を列挙するところである。異例の事態に、ロスは議事録から顔を上げて身構えた。
「昨晩——正確に言えば私が時刻を見たのは夜中の二時十二分だが、鐘楼の時計台の音を聞いた者はいないか」
二時十二分——時計が決して鳴るはずのない中途半端な時間だ。城の中でもそれなりに経験を積んだ者たちが多いせいか、主君を前にざわめきこそ起きないが、諸官の反応はどれも鈍い。
「音と一緒に全身に凄まじい衝撃も感じました。ですから、もしかしたら『音』としてお感じにならなかった方もいらっしゃるかもしれないのですけれど」
自分たち二人に向けられた顔に例外なく疑問の気色が浮かぶのを見てアウロラが付け足す。しかし皆の困惑は深まるばかりのようだ。ある者は眉を顰め、ある者は互いに顔を見合わせる。
ロスも同様である。会議室に列席する中では異例の若さだが、国防の最高責任者と王家直属第一等衛士団の長を兼任する身として、就寝時でさえ自分の緊張が完全には解かれていないという自負はある。しかし昨晩、何かしら常とは異なる瞬間があったという記憶も感覚もない。
一体、何があったというのか——ロスが問いかけの視線をやると、それに気がついたカエルムとアウロラの顔に一瞬、落胆が浮かんだ。だがカエルムの方はすぐに平静に戻って意見する。
「ロスは感知していない、か。そうなると幻覚だと思いたくなるのだが……」
「私の方も、私だけが聞いたのだったら夢だったと信じると思うわ。でも私だけではなくお兄様も聞いていらっしゃいます。常の鐘楼の音から始まって次第に強くなりました。痛みを感じるほどに——どなたにも覚えはありませんか」
アウロラが詳細を説明するのを聞いても、やはり場は静まりかえったままである。むしろ不可解だという感情をますます露わにしてカエルムとアウロラを注視している。次に言うべき言葉に迷い、二人は顔を見合わせた。
しかし、答えが出る前に大臣の手が挙がった。
「そうお二人が仰るということは、殿下と姫様はそのようなものをお感じになられたと」
アウロラとカエルムが揃って頷いた。それを確認して、大臣は髭に手を当てながら続ける。
「その時分でしたら自室で未処理の案件を進めておりました。しかし……実に残念ですが、わたくしめは何も。お若い二人がお感じになられたとしても、感覚の鈍いこの老体では気づかぬかもしれませぬが……」
そう言うが、大臣とて長年務めた前職は四六時中神経を使うものだ。研ぎ澄まされた知覚能力は一般の若者よりも優れているはずであり、それも起きていたというなら尚更である。
机上で両手の指を組み、カエルムは一語一語を確かめながら話し出す。
「ロスと大臣をはじめ、他の皆にも聞こえていない。大臣は起きていたということだし、就寝中の皆があれほどの異常に気がつかないとも思わない。私も、アウロラも」
視線を列席する臣下から兄の横顔へ移し、アウロラが同意を示す。
「つまり、皆の感覚が鈍いなどと言いたいのではない。ただ、私とアウロラは共に聞いている。なぜ私たちだけなのかは分からないが、少なくとも幻と片づけるには強すぎる音だった。その点は、皆にも信じてほしい」
一同を見回すと、集まった者たちは例外なく無言のまま首肯する。不安げだったアウロラの瞳が微かに明るさを取り戻す。隣のカエルムにしか聞こえないほど小さくではあるが、ほぅ、と吐息が漏れた。
ただ、次に何を言うべきか即座に判断できる者はいなかった。やや長めの沈黙ののち、目を閉じて黙考していた大臣がゆっくりと眉を上げた。
「殿下と姫様のお二人が仰ることですから、疑いなど微塵もございません。我々に感じられないことを知覚されると言うのもあり得る」
「いやだ、お兄様も私も皆と同じただの人だわ。王族だと言っても血筋だけの話よ」
アウロラが即座に否定するが、大臣はまた考え込むように目を閉じて首を横に振った。
「お二方は長らくお生まれにならなかった王族の男女の御子です。この意味がいかに重要かは、計り知れぬことなのですぞ」
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