警鐘(二)

 昼とは逆に疎らに灯った廊下の燭台が、床の木板を赤茶色に照らし出す。

 雪峰せきほう山脈に近いシューザリーンの都は、夏とはいえど夜は冷える。だが、背中に感じる冷たさは、肌に触れる空気のせいなのか、それとも得体の知れないを感じ、身体の内側が警鐘を鳴らすからなのか。

 壁にぶつかって反響するのは自分の足音だけのはずなのに、まだ先の音が耳にへばりついている。ここまでまざまざと残る感覚が、まさか錯覚とは思えない。これが凶兆かどうかはわからない。しかし——

 答えのない思考を巡らせていたら、曲がり角から現れた影が視界に飛び込んだ。

「きゃっ!」

 走ってきた勢いを止められず、アウロラはそのまま人影にぶつかった。咄嗟に衝撃を予想し目をつむったが、思ったほど痛みはなく、代わりに肩が軽い反発を感じて体が止まった。

「アウロラ」

 鼻先が触れた布は陽光のにおいがする。顔を上げると、蘇芳の瞳がこちらを見ていた。

「お兄様、いま」

 兄がしかと頷く。

「ああ。聞こえた」

 自分の幻聴ではなかった。シレアの者が時計塔の鐘楼の音を聞き間違えるはずがない。気のせいではなかったのだ。しかしそうだとしたら、なおのこと不可解だ。

「いつもの時報の音とは違うわ」

「時刻も違う。常なら鳴るはずがない」

「時計の針は」

「少なくとも現状では正しく進んでいる」

 城から見える時計そのものに異変は確かめられない。以前に一度起こったように、止まっているということもない。月明かりの中で静謐と佇む時計塔はアウロラもこの目で見た。幼少の頃から見てきた姿とどこも変わらない。

 ——ではなぜ、あのような禍々しい音が。全身が痺れるような感覚は。手足の自由を奪い、容赦なく縛りつける痛みは。

 次々に頭に浮かんでくる疑問のせいで、思考がどんどんもつれてがんじがらめになる。

 するとその時、体がすっぽり温かいものに覆われた。その驚きで呼吸が取り戻され、息を忘れていたのにようやく気付く。

「大丈夫だよ、アウロラ」

「え?」

「震えている」

 アウロラを腕の中に包んだまま、カエルムはゆっくりその背を叩いた。

「大丈夫、ここは城の中だ。時計は動いているし、まだ何か起きたわけではない。それに万が一に何かあっても、私も他の皆もいる」

 兄の温かな手が刻む拍の取り方は、どこか懐かしい。

「朝になったら、皆から様子を聞こう。アウロラ一人で責を負わなければならない状況ではない」

 昼の城中じょうちゅうでは、自分は城主の一人であり、そして城外に出れば一国の柱である。人心の安寧を守るべき自分が揺らいだ姿を見せるわけにはいかない。

 だが、いまは夜だ。白日のもと壇上にいるのではなく、月明かりが窓辺にぼんやりと作った木の影の中にいる。臣下はみな眠りにつき、事の決定を問う民の目もない。目の前にいるのは、自分と共に時期国王となり国の責を分かち持つべき人物である前に、幼い頃から隣にいる兄である。

「行動を起こすにはまだ早い。まずは夜が明けるまでゆっくりお休み」

 呼吸と同じ間隔で背中に律動が伝わり、アウロラの息も段々と整ってくる。鼓動を鎮めるこの拍の取り方は父母がいたずっと昔から知っている。

 カエルムの胸に頭を預け、アウロラは小さく頷いた。

「ええ……ありがとう、お兄様」

 カエルムはアウロラを抱く腕を解き、見上げる妹の額に浮かんだ汗を拭ってやると、悪戯っぽく微笑した。

「今日はもう、ぬいぐるみもいらないな?」

 なんのことを言っているのかがわかり、アウロラもくすりと笑い返した。

「もう雷が怖くて眠れないなんてこともないわ」

 まだ子供の頃には怯えて一人では耐えられなかった自然界の力に対し、恐れだけではなく畏敬を感じることもできるようになった。いまの自分は、稲妻や雷鳴に震えて兄や両親を探して走り、抱きついてその袖を握り締めていた過去の自分ではない。

 先のあの現象が何の前触れかは分からない。だが、たとえ何らかの兆しだとしても、目を瞑って縮こまっているだけでは仕方がない。闇雲な行動は却って害となることも学んだ。状況の変わらぬいま、焦ったとしても益がない。

 現時点では、真っ先にやらなければと直感したことは果たした。自分の覚えた感覚を然るべき相手に伝え、共有できた。ただそれだけで随分と身が軽くなった気がする。

 一つ深く呼吸をし、部屋へ戻ろうとカエルムから身を離しかける。その時、ふとアウロラに疑問が浮かんだ。

「——ところで、お兄様はどうしてここに?」

 兄が恐怖で部屋から出てくるとは思えない。それではなぜ夜中にアウロラの部屋へ繋がる廊下にいたのか。ここまで冷静なら身を起こさずそのまま朝まで待ちそうなものだ。

「もしかして……」

 幼少時の記憶が蘇り、気を遣わせてしまったのではないか。無意識に語尾が窄まっていく。

 ところが、カエルムは表情を和らげて応じた。

「それはもちろん、アウロラにはすぐに伝えねばならないと」

「あら、それなら……私と同じだわ」

「やはり考えることは同じだな」

 再び普段と同じ朗らかな雰囲気を纏った兄の様子からは、返答が本心なのか気配りなのか読み取れない。だがどちらであれ、部屋で感じたえも言われぬ孤独がいまは消えていた。

 そこにいるどんな些細な警鐘であれ、二人のうちどちらかのみが知っているという不釣り合いがあってはならない。シレアの国民を守り、国の責を共に背負う二つの支柱たらんとするならば。

 兄妹は改めて笑みを交わすと、自室の方へと踵を返した。

 廊に響く二つの足音は乱れなく、灯火が床に映し出す二つの影が互いに離れていった。

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