風凪(五)

 シレアの王都シューザリーンに次いで国の要となる都市が司祭領である。海からシレアへ移り住んだと言われる妖精が、時計台の針を動かして鐘を鳴らし、シレア国全土を守っているなどという口伝えもあった。そして妖精は国の北に連なる雪峰山脈から出ずるシューザリエ川の流れを司り、国土を潤してテハイザまでの水路を作り、自らの故郷である南の海へ導くのだと。

 神話の類ではあるが、人智の及ばぬ時計台と自然の恩恵に対し、国民が古から心の拠り所としてきたものの一つだ。そのため古来、畏敬をもって祀られてきた。

「妖精を祀る精霊殿は妖精の守護に対して国中が感謝しているしるしなんじゃよ。だから司祭領は極めて大事で、その長も王族と並ぶくらいに重職なんじゃ。共同統治の次の代も、それぞれの御子は共に国の支えとなるわけだ」

「じゃあ今の司祭長さんは王女さまたちのご親戚なの?」

「いんや。過去に王族が司祭長になったとしても、後にその血筋が途絶えてのう。祭官から新しい司祭長が選ばれておるよ」

 その後には祭官の中でも上位の司祭の中から司祭長が後継を任命し、王の承認をもって次の司祭長が決められていく。歴史の中で、行政は王都、祭礼は司祭領と、互いに協調しながら来たのである。この関係が成り立っていたのには、ごくごく稀にではあれ、時に国の信を集めた王の子がそれぞれに配されたことも関係していた。

 そう料理長は説明してやるが、スピカは空になった碗の中で徒らに匙を回しながら、どうも腑に落ちないという面持ちでぽつりと呟く。

「なんで王都で両方やらないのかしら。わざわざ地方に行くのも面倒じゃないの」

 すると料理長は少しの間スピカを見つめ、それから自分の碗に残っていた桃の最後のひとかけを匙に乗せた。

「嬢は朝にこの蜜煮だけしか食べられなく、晩飯にも盆に山盛りの桃の蜜煮だったらどうする」

 全く想定外の問いにスピカはきょとんとして顔を上げたが、なにやら想像して気怠げに答えた。

「たぶん、お腹すき過ぎてお昼くらいに倒れちゃう。あとお魚とかお野菜とか食べたい」

 だろう、と料理長は頷く。

「よく分かっとるな。朝昼晩、偏り過ぎずに必要な栄養を取らんと体を壊す。似たようなものじゃよ。大事なものは配分が肝要。国を率いる指導者は必要でも、権力が一つのところだけに集中すると不満が起こりやすい。陛下がいくら公正になさっていてものう」

 匙に乗せた桃を口に放り込み、料理長はごくりと喉を鳴らした。

「行政の表側から民を支えてくださるのがシューザリーンの王族だとすれば、妖精をシレアに留めて民を安心させてくれるのが司祭。内側からの支えじゃよ」

 とんとん、と親指で胸を叩いて見せる。

「そうしてお互いの領分から見て相手に足りないところがあったら対等に意見できる。司祭領と王都でそういう関係があると分かっていたら、民は王が無闇に自分勝手できるなんて思うかな?」

「……たぶん、王さまでも自分勝手言うのちょっと躊躇うと思うわ」

 王が国の頂点に君臨し、他の意見を聞かず独裁を敷いたテハイザの先代を思い出し、口の中に苦いものを覚えながら答えた。

「な。もちろん集めた方がいい場合もある。病気の時に滋養をとるみたいに」

「力を集めることもあるの?」

 料理長は少し迷った。

「権力じゃぁないが、力が集まると言うと豊穣祭がそれかのう。ものすごい活気になる。王族の神器と時計台がひと所に集まり、王族と民の心の力が集まるとでも言えばわかるか。しかも豊穣祭は満月じゃて。満月っていうのは、月の光も強いじゃろ。力が集まる日と言われとる」

「あ、ほんとだ。海もいつもと違うって。兄さんが言ってたわ」

 満月の日、波は常よりも高くなり、海には潮が満ちる。人には敵わぬ大いなる力が働く。

「その時にはたくさん生き物が浜に送られてくるって。海が元に戻るといろんなものが浜にあるのよ。あとね、浜辺で海藻とか育てるのにはいいんだって」

 スピカは兄と浜辺に出て行ったときに見聞きした話を続ける。

「でもそればっかりだと船を出すのは難しいから、また波が戻るのを待つんだけどね」

 知らぬ海の話をふむふむと聞いていた料理長は、スピカの最後の説明に頷いた。

「海も同じか。そうじゃろ。力は集める時には集めねばならんよ。でも普段は、均衡が大事なんさよ」

 話すべきところを終えたらしく、料理長はよっこらせ、と卓を支えに立ち上がった。碗を持って調理場の扉へ戻っていく背に向かい、スピカは問いを投げかける。

「料理長さんはどこでそういうの教えてもらったの?」

 調理場に踏み入れた足が、ぴたりと止まった。

「わしも昔、飽きるほど講釈を聞いたもんだ。切りたくても切れん腐れ縁のえらい口喧しい仕事好きにのう」

「えぇ? 誰それ」

 酷い言いようにスピカは苦笑を誘われる。答えの代わりに、ふぉーふぉー、と楽しげな笑い声が調理場に響き渡った。

 いま頃、上層階の総務省では、大臣の大きなくしゃみが聞こえるに違いない。

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