黎明(四)
城において基本的に昼の休憩時間は守られるはずだ。また、特に急を要する事案はカエルムにもアウロラにも思い至らなかった。想定外の来客にロスが口を閉じると、アウロラが兄に確かめてから扉に向かって入室許可を伝える返事をする。
「殿下、御無事のお帰り、何よりでございます」
重い扉を開いて入ってきたのは食事の間に姿を現さなかった大臣だった。腕には分厚く膨らんだ書類入れを抱え、これまた重々しく帰城を喜ぶ挨拶を述べるので、アウロラが堪らず割って入る。
「大臣のお心遣いは言葉で聞かなくてもわかるから大丈夫よ。それよりそんなに報告を急ぐことがあったかしら。それとも新しく急な知らせ?」
「姫様にそう言われるとは老人の戯言はいけませんな。いえ、各地の御訪問の結果は会議にてお聞き致します。城での直近のご予定では、まずは司祭領からの訪問が五日後にございますが」
「それならちょうどいまロスから聞いていたところだよ。大した準備は要らないとは思うが」
「詳細はこちらで行いましょう。なに、慣例ですから造作もありません。もうご承知なのでしたらこの話もよろしい。それでは殿下」
目を半ば隠すほどの大臣の豊かな眉が僅かに上がり、眉間に刻まれた皺が共に動いた。それと同時に兄の眼が一瞬だけ歪んだのを、アウロラは見逃さなかった。
「長旅で御疲れのところに恐縮ではございますが、前々から申し上げておりますお話を」
「ああ、悪いが今はその件を話している時間はない。大臣も聞いているだろうがシードゥスのテハイザ行きに関して調整をするから」
再び常と同じ柔和な笑顔に戻ってやんわりと大臣の話を遮ると、カエルムは椅子から立ち上がってシードゥスの肩を軽く押した。
「これからテハイザ外交大使から伝えるべき言伝の類と外出の日取りを話しに外務官のところに行く」
「え、今からですか」
「早い方がいいだろう?」
戸惑うシードゥスを促して大臣の脇をすり抜け廊下に出ると、カエルムはアウロラに目配せをして扉を閉めてしまった。シードゥスの困惑した問いを混ぜながら、木製の床に高く響く靴の音が遠のいていく。
足音が聞こえなくなると、大臣は大仰に溜息をついた。
「まったく……殿下はまた仕方のない。この老人も先が長くないというのに」
「あら、大臣はあと百年は大丈夫だと思うわよ」
間髪入れずにアウロラが述べると、大臣はアウロラを睨んで咎め口調になる。
「ご冗談を仰らずに、姫様からも殿下をお叱りになってください」
「いやぁね、長生きして欲しいって意味じゃないの。それにお兄様のことなら周りがとやかく言う話でも無いでしょ。それよりさっき商務省で呼ばれていたわよ」
「姫様まで他人事のように仰るから全くお二人揃いも揃って……」
ぶつくさと文句を言いながら出ていく大臣の背に、アウロラは「あまり心配ばかりすると胃腸に悪いわよ」と自分を棚に上げた労いの言葉を投げかける。それをロスは横目で呆れながら見ていたが、再び扉が完全に閉まったところで、いましがた見聞きしたやり取りに首を傾げた。
「少し前から大臣がやたら殿下をせっついていると思いましたけれど、一体何の話なんです」
カエルムも大臣も肝心の内容を具体的に口に出すことはなく、いつも今のような調子でカエルムが鮮やかに話を躱していた。結局のところ大臣が何に気を揉んでいるのか、側近の自分も聞いていない。
するとアウロラは、まるで今日の夕飯は何かと聞かれた時のごとくさらっと答えた。
「何って、縁談の話?」
「縁談!?」
ことによれば繊細な話である。夕飯は川魚の香草焼きですと言う調子でする話ではない。そもそも王子の右腕と言われる自分が聞いていないのがおかしい話題である。
「聞いてませんよそんなこと!」
「言ってないからじゃない?」
「いや一応、殿下の身辺については把握するべき立場で」
「ロスに話して大臣が変わるわけでもないじゃない」
確かにそれはその通りなのだが、むしろ話して煩いのが増えると思っていると言う方が正しくないか、と言うのが正直なところであり、またあまりに主人と結びつかない内容で、ロスの頭の中は一気に混乱した。
逆にアウロラは、妹であるにも関わらず町内の誰それの噂話をするのと同じく他人事のように続ける。
「大臣もしつこいのよねぇ。ただでさえ大量の仕事を抱えているのに候補を探したりして。そんなに焦らなくたって大丈夫なのに」
「いえ、そりゃでも、確かにですね、殿下も二十七ですし即位するからにはやはり妃がいた方が特に諸外国に対する体面は」
「そんなこと気にする必要あるかしら。テハイザ王もまだお妃様を迎えていらっしゃらないし、ご結婚の時機なんて本人が好きにすれば良い話だし。外野が煩く口出すものじゃ無いでしょ」
「それは一般人ならそうかもしれませんけれど王族となれば話が違うでしょう、姫様。貴女にもそうそう遠くない問題ですよこれ」
「もうロスまで大臣みたくならなくていいわよ。いいじゃない、必要ないって仰るのをいま急いてどうするっていうの——さて、私もそろそろ午後の仕事始めようかしら」
唖然とする従者をよそに大きく伸びをすると、アウロラも飄々と部屋を去っていってしまった。残されたロスは突然知らされた事情に何をどうしたものか、ガタンと音を立てて閉まった扉を見つめるしかない。
いつの間にか空いていた椅子に腰掛けていたスピカが、足をぶらつかせ頬杖をついてロスを見上げる。
「お兄さんも苦労するわね」
当の心労の種がいないとあっては文句を言っても仕方なく、混乱を極めた頭にはぽつりと呟かれた感想に苦笑する余裕も無かった。
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